港城の反撃
夜半。
月は厚い雲に隠れ、那珂湊の海は墨を流したような闇に包まれていた。
沖合には三隻の坂東ガレオンが静かに錨を下ろしている。
帆は畳まれ、甲板の灯火はすべて消されていた。
船影だけが波間に黒く浮かんでいる。
その甲板では、鹿島政道が静かに海岸を見つめていた。
風は北東。
潮は満ち始めている。
今夜、海は味方だった。
「頃合いだ。」
鹿島が短く告げる。
「小舟、降ろせ。」
命令とともに縄が解かれ、何十艘もの小舟が音もなく海へ降ろされた。
櫂には布が巻かれ、水を掻いても波音すら立たない。
乗り込むのは鹿島衆に加え、ルソン傭兵、選び抜かれた鉄砲隊。
誰一人として言葉を発しない。
ただ互いに頷くだけだった。
鹿島は最後の一艘へ乗り込むと、小さく手を振った。
小舟は闇へ溶けるように沖を離れた。
その頃。
佐竹軍の陣では、ようやく焙烙玉の雨が止み、兵たちは疲れ果てて地面へ座り込んでいた。
兵糧庫の火も消え、工兵たちが壊れた柵を直している。
「ようやく終わったか……。」
誰もがそう思っていた。
だからこそ、海を見張る者は少なかった。
小舟は波間を滑るように浜へ近づく。
先頭の鹿島衆が腰まで海へ浸かりながら砂浜へ上がった。
合図は鳥の鳴き声。
短く二度。
それだけだった。
次の瞬間、小舟から兵が一斉に飛び出す。
狙う場所は決まっている。
兵糧庫。
荷駄。
火薬置場。
敵本陣ではない。
戦を続ける力そのものだった。
「火を放て。」
鹿島が囁く。
松脂を巻いた火矢が夜空を裂く。
焙烙玉が荷車へ投げ込まれる。
轟音。
積み上げられた兵糧俵が燃え上がる。
乾いた藁は瞬く間に炎となり、夜空を赤く染めた。
「敵襲!」
「海だ!」
「海から敵だ!」
叫び声が陣中を駆け抜ける。
眠っていた兵が飛び起きる。
だが、どこへ向かえばよいのかわからない。
前では城。
後ろでは炎。
「鹿島衆だ!」
「荷駄を守れ!」
怒号が飛び交う。
鹿島衆は深入りしない。
斬り込み、火を放ち、すぐに別の場所へ移る。
どこに敵がいるのか。
誰にもわからなかった。
その頃、那珂湊城。
城壁の上から炎を見つめていた氏治は、静かに目を閉じた。
「始まったか。」
その隣には真壁幹久、笠間幹永が立っている。
氏治は振り返る。
「頃合いだ。」
二人は深く頭を下げた。
「はっ。」
城門の前では、すでに数百の銃盾隊が整列していた。
牛革で覆われた大盾が前列へ並ぶ。
鉄の金具がはめ込まれ、一枚、また一枚と盾が連結されていく。
やがて一枚の巨大な壁となった。
その後方では鉄砲隊が火縄を確認する。
「火縄よし!」
「弾薬よし!」
「予備隊、配置完了!」
真壁幹久はゆっくりと蜈蚣切りを掲げる氏治を見た。
氏治は城外へ続く舟橋へ視線を向ける。
那珂川に架けられた仮設の舟橋。
普段は補給路として使われるその橋が、今夜は決戦の道となる。
「開門。」
重い音を立てて城門が開く。
冷たい夜風が城内へ流れ込む。
笠間幹永は最前列へ歩み出た。
兄・幹久はその隣へ並ぶ。
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
「兄上。」
「ようやく我らの出番ですな。」
「ああ。」
幹久は大盾へ手を置く。
「この盾は、坂東の田畑が育てた牛の革。」
「この鉄は、坂東の鍛冶が鍛えたもの。」
「ならば、この盾は坂東そのものだ。」
ゆっくりと盾が持ち上がる。
前列の兵も続く。
何百枚もの盾が一斉に立ち上がり、月明かりを鈍く反射した。
氏治は軍配を静かに振り下ろす。
「進め。」
その一言だけだった。
銃盾隊は一歩、また一歩と舟橋へ足を踏み出す。
盾の壁が軋みを上げながら夜の河を渡り始める。
その規律正しい足音は、後方で燃え盛る佐竹軍の炎とは対照的に、不気味なほど静かであった。
佐竹軍はまだ知らない。
海から迫る鹿島衆だけではない。
正面からは、坂東が生み出した新たな戦い方そのものが、ゆっくりと自分たちへ歩み寄っていることを。




