那珂湊包囲
春まだ浅い常陸。
海から吹く風はなお冷たく、那珂川の河口には朝靄が静かに漂っていた。
その霧の向こうに、新たな城が姿を現す。
那珂湊城――。
かつては港町に過ぎなかったこの地は、一年余りに及ぶ普請によって、港であり城でもある巨大な要塞へと生まれ変わっていた。
海へ突き出した石垣。
河口を押さえる水門。
港を囲むように築かれた支城群。
さらに高台には、城下を見下ろす櫓が並び、その上には大小の投石機が整然と据え付けられている。
城内では、工兵たちが最後の調整に追われていた。
「滑車よし!」
「腕木よし!」
「縄の張り直し、終わりました!」
宍戸政繁は巨大な投石機を見上げ、小さく頷いた。
「よい。」
その横には陶器で作られた丸い玉が山のように積まれていた。
笠間、益子、水戸。
坂東各地の窯で焼き上げられた焙烙玉である。
中には火薬が詰められ、着火すれば敵陣を炎で包み込む。
「惜しむな。」
宍戸は工兵たちへ命じた。
「陶器はいくらでも焼ける。しかし兵は焼き直せぬ。」
「はっ!」
工兵たちは力強く答えた。
城門近くでは、別の準備が進んでいた。
真壁幹久と弟・笠間幹永が並んで立つ。
二人の前には、牛革で覆われた大盾が幾重にも並べられていた。
一枚ではない。
鉄の金具で互いを連結できるよう工夫され、横へ広げれば一枚の壁となる。
その後ろでは鉄砲隊が火縄の確認を行っていた。
「火薬、乾いております。」
「予備火縄、配備済み。」
「弾薬、異常なし。」
幹永は静かに笑う。
「兄上。」
「ようやく出番ですな。」
幹久も笑みを浮かべた。
「ああ。」
「この日のために牛を育て、革を集め、盾を作り続けてきた。」
彼は一枚の盾を軽く叩く。
鈍い音が返ってきた。
「この盾が坂東を守る。」
城内には緊張が満ちていた。
しかし恐怖はない。
皆、自分たちが積み重ねてきたものを信じていた。
昼過ぎ。
城外の物見櫓から鐘が鳴る。
「敵影!」
「北方街道!」
城内が一斉に動き始めた。
櫓へ駆け上がった兵が遠眼鏡を覗き込み、思わず息を呑む。
北の街道を埋め尽くす軍勢。
無数の旗指物。
佐竹家の五本骨扇。
その周囲には相馬をはじめ、南東北諸将の旗が林立していた。
槍が朝日に光り、甲冑が波のように揺れる。
「……多い。」
若い兵が呟く。
古参の足軽が肩を叩いた。
「数に呑まれるな。」
「城はあちらより大きい。」
その言葉に周囲から小さな笑いが漏れ、張り詰めていた空気がわずかに和らいだ。
やがて佐竹軍は那珂湊城を望む丘陵へ本陣を置き、南東北諸将も次々と陣を築き始める。
天幕が立ち並び、荷駄隊が兵糧を運び、工兵が柵を築いていく。
その様子を天守代わりの櫓から見下ろしていたのは、水戸頼治であった。
「野戦へ誘うつもりでしょうな。」
その隣には氏治がいた。
氏治はしばらく敵陣を眺めていたが、静かに口を開いた。
「乗らぬ。」
その一言だけだった。
「城も支城も、この日のために築いた。」
「敵が来るなら迎え撃つ。」
「こちらから出る必要はない。」
鹿島政道も櫓へ姿を見せた。
「殿。」
「沖合に坂東ガレオン三隻、到着しました。」
氏治は海へ目を向ける。
水平線には大きな帆船が静かに浮かび、その周囲を小舟が忙しく行き交っていた。
兵糧。
火薬。
焙烙玉。
矢束。
すべてが海から運び込まれてくる。
「補給に不安は?」
氏治が問う。
鹿島は微笑んだ。
「ございませぬ。」
「海は我らの庭にございます。」
その言葉に氏治も微かに笑った。
「ならば、焦るのは敵だ。」
その頃、丘の上の佐竹本陣では義重が那珂湊城を見つめていた。
海と川に守られ、支城が連なり、港には絶えず船が出入りする。
まるで城そのものが生き物のように動いている。
義重は腕を組んだ。
「……なるほど。」
「これが小田の港城か。」
その横で南東北の武将が口を開く。
「すぐに攻め落としますか。」
義重は静かに首を振った。
「焦るな。」
「敵は我らを待っている。」
「ならば、待たせてやればよい。」
彼は城下を見下ろしながら続けた。
「兵糧には限りがある。」
「いつかは氏治が援軍を率いて現れる。」
「その時こそ決戦だ。」
那珂湊の海には夕日が沈み始めていた。
城では鐘が鳴り、夜の守りへ兵が持ち場につく。
一方、佐竹軍の陣でも焚火が灯り始める。
誰もが決戦はまだ先だと思っていた。
だが、その夜。
氏治は静かに鹿島政道、真壁幹久、笠間幹永、宇都宮尚綱だけを呼び寄せる。
机の上には那珂湊周辺の地図。
氏治は一本の蝋燭の火を見つめながら、小さく言った。
「明日の夜、敵に眠りはない。」
その言葉に四人は黙って頷く。
静かな海の向こうで、坂東ガレオンの帆が夜風を受け、ゆっくりと向きを変え始めていた。




