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雷の家の呼び声

雷の家の呼び声 — 第一話

平日の終わりはいつも同じだった。会議が連なり、未読メールが増え、上司の細かな指示が次々と降ってくる。治彦はデスクに肘をつき、青白いモニターの光をぼんやりと見つめながら、誰のために働いているのか分からなくなることがあった。子どもの頃、祖父が古い写真を指して「昔はなあ」と語ったときの、少し誇らしげな声だけが胸の奥に残っている。


だが休日の朝だけは違った。目覚ましに追われることなく、窓から差し込む柔らかな光を浴びてゆっくりとコーヒーを淹れる。湯気の匂いを吸い込むと、胸に溜まった疲れが少しずつ溶けていくように感じられた。今日は資料館に行こう――その考えが自然に浮かんだのは、古い木の匂いと祖父の声が同時に蘇ったからかもしれない。


車を走らせる道は緑に包まれていた。小田城跡公園の駐車場に車を停めると、芝生では子どもたちがボールを追い、犬を連れた人々が笑い声を交わしている。資料館の木製の扉を押すと、古い紙と木の香りがふわりと迎えた。展示室には農具や古文書、ガラスケースに収められた甲冑の胸当てが静かに並んでいる。


治彦はいつものように布を取り出し、胸当ての金具の隙間を丁寧に拭き始めた。布が金属に触れるたびに、かすかな擦過音が小さなリズムを刻む。休日のボランティアは彼のささやかな楽しみであり、心の拠り所でもある。奥から学芸員の女性が顔を出し、にこやかに声をかけた。


「休日に来てくれるのは本当に助かるわ。でもね、顔色が少し疲れてるように見えるの。無理しないでね」


治彦は照れくさそうに笑い、布を押し当てる。ここにいると、会社での小さな苛立ちや焦りが遠くへ行くように思えた。だがそのとき、胸当ての金具がかすかに鳴り、蛍光灯が一瞬だけチカリと瞬いた。空気が変わった。音が遠ざかり、展示室の温度が一度下がったように感じられる。


「……拭くとは、丁寧な者よ」


声は耳元ではなく、胸の奥から響いた。振り向いても誰もいない。だが確かに、声があった。


「我は小田氏治。忘れられし当主なり。お前にも我と同じ小田の血が、ほんの少しだけ流れておる。だがそれで満足か」


展示室の空気が重くなり、甲冑の影が長く伸びる。学芸員の女性も戸惑いの表情を浮かべている。治彦の胸の奥で、祖父の名がかすかに震えた。


その夜、実家の居間で戦国時代の特番をつけた。人気武将ランキングの「圏外」コーナーで、解説者が軽い調子で語る。


「戦に敗れてばかりで、人気ランキングでは圏外。でも一癖ある武将としては面白い存在ですね。オダはオダでも“じゃないほうの小田”なんて呼ばれることもあります」


画面の中の人物がふっとこちらを向いたように感じられ、解説者の声が遠のく。氏治の声が居間の空気に割り込んできた。


「我が願いは一つ。織田信長より名を高めること。戦に敗れたのは事実だが、名は語られてこそ生きる」


氏治は続けた。治彦の休日の所作、町の人々への接し方、歴史への愛情――それらを理由に、彼を選んだと告げる。治彦は素っ頓狂に問い返すが、氏治の声は静かに、しかし確固たる条件を示す。


「戻る道は一つ。歴代当主の本当の願いを聞き、それを我に届けよ。願いが満たされぬ限り、帰ることは叶わぬ。だが、願いが届けば我はお前をこの世に戻そう」


その言葉は命令であり、約束であり、呪いにも似ていた。理屈で反発したい気持ちが湧くが、胸の奥にある何かが応えようとしているのを治彦は感じた。


視界が歪み、畳の目が溶けていく。潮の匂いが鼻腔を満たし、甲冑の金属音が耳の奥で反響する。気づけば治彦は、鎌倉の砂浜に立っていた。目の前には甲冑を纏った男が静かに立っている。


「見よ、祖は頼朝公の側近にして名を残した八田知家。だが我は“圏外”、オダはオダでも“じゃないほう”と笑われる。悲しいことだ。ゆえに、歴史を正せ。貴殿の手で、歴代当主の本当の願いを聞き届けよ」


潮風が頬を打ち、遠くで鴎が鳴く。恐怖と好奇心が入り混じり、言葉が喉に詰まる。だが同時に、どこかで確かな呼び声が聞こえた。歴代の声が、血の中を伝ってくるような気配だった。


「お前が行け。刀を振るうのではない。お前の武器は知識と目と心だ。願いを聞き、それを我に届けよ」


治彦は深く息を吸い込み、ゆっくりと足を踏み出した。彼の旅は、名を取り戻すための長い道のりの始まりだった。戻るための条件と、血が告げる声――その二つが、これから彼を導く。

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