プロローグ 灰色の朝、白い世界へ
柊美咲は夢を見ていた。
子供の頃、妹にせがまれて何度も読んだ御伽噺。もう細かいところは覚えていない。ただ、騎士が二人、暗い檻からお姫様を連れ出す場面だけが残っていた。
「お姉ちゃんは、大人になったら何をしたいの?」
んー私は──
ジリリリ!
無遠慮な電子音が、美咲を現実へと引き戻した。
美咲はうつ伏せのまま手を伸ばし、その音を叩き潰す。こすったまぶたの奥に、夢の輪郭はもう残っていない。
ベッドから起き上がる。窓のカーテンは開けない。
薄暗い部屋で身支度を整え、玄関を開けた。一度だけ振り返る。朝のはずなのに、部屋はまだ眠ったままだった。
電車に揺られ、会社まで歩き、オフィスにたどり着く。いつもの工程。いつもの景色。
ビルの前で、小さく拳を握った。
「よしっ」
誰にも聞こえない声だった。
20時。
「お先に失礼します。お疲れ様でした!」
オフィスに残る同僚たちへ声をかけて、美咲は会社を出る。
残業を頼まれたわけでもない。仕事が終わっていないわけでもない。それでも、席に座り続けていた。
帰ったところで、何もないから。
次の日も同じだった。
息苦しさが当たり前の空間で、今日も仕事をして、人と話す。けれど、それは会話というより手続きに近かった。
パソコンの電源を落とし、今日は早く帰ろうと荷物をまとめていた。
その時だった。
「柊さん、ちゃんと休めてる? 昨日も遅くまで残ってたでしょ」
先輩社員が、眉を下げてこちらを見る。
美咲は一度だけ視線を落としてから、ぎこちなく笑った。
「はい、大丈夫です。これからご飯食べて帰ろうかと」
「お疲れ様でした」
柔らかく返事を返して、先に外へ出る。振り返らなかったが、先輩はまだそこに立っている気がした。
駅までの帰り道。
舗道に伸びた電柱の影が、街灯の下で細かく分裂していく。どこかへ続いていたはずの線が、途中で千切れて、地面に散っていた。
美咲は立ち止まり、夜空を見上げる。
「……私って、何がしたいんだろうなぁ」
声にした途端、涙がこぼれた。
「なに泣いてんの、わたし!」
乱暴に目元をぬぐって顔を上げる。その視界の端に、妙な違和感が映り込んだ。
一人の少女が、家電量販店から出てくるところだった。銀髪に、碧眼。整いすぎた顔立ちに、作り物じみた存在感。16、いや、せいぜい17歳。現実より、物語の中にいた方が似合う姿だった。
少女は、街の喧騒の中を通り過ぎていく。美咲は、彼女が雑踏に溶けていくまで瞬きすらできなかった。
残されたのは、家電量販店のショーウィンドウ。その中で、販促モニターの映像が繰り返されている。
銃を構えるキャラクターたち。暴れる巨大な機械の化け物。崩れたビル。割れた道路。
──何もかもが壊れていた。
美咲は立ち尽くしたまま、次の映像を待っていた。
画面の終わりに、一つのタイトルが表示される。
Code:VIR
気がつけば、店の中にいた。VRデバイス。ゲームソフト。ケーブル。接続機材。手に取って、カゴに入れる。何を買っているのか、自分でもよく分からなかった。
ゲームが好きだったわけじゃない。楽しそうに見えたわけでもない。それでも、美咲はレジの列から抜けなかった。
今の生活から逃げたかった。自分自身からも。何かを選ぶ感覚まで失くしてしまう前に、手放してはいけない気がした。




