第4話
仕事を終えて家に帰ったのは朝の五時だった。いつもは軽食とシャワーを済ませてすぐに寝てしまうが、今日は妙に頭が冴えている。原因は凪だった。夜の街に消えたあの子もちゃんと家に帰っただろうか。そんな心配が頭の中を散らかしていく。
結局、日が昇るまで一睡もできなかった。朝のニュース番組では、馬鹿の一つ覚えのように政治スキャンダルの特集をしている。建付けの悪い平和の上でなんと呑気なことか。私は雑音を消し、ネットで調べた番号に電話をかけた。
「はい。市立武蔵原小学校です」
「おはようございます。一つお伺いしたいことがあり、お電話させていただきました」
声の低い男性が対応してくれる。疲れた雰囲気が伝わってくるのは気のせいか。私は仕事用の高い声で話を続けた。
「園田凪という児童が在籍していると思うのですが」
「凪ちゃんのお知り合いですか」
凪の名前を出した途端、男の語気が強まる。嫌な予感に私の心臓は早鐘を打った。
「私は川崎通沿いのコンビニで勤務している者です。昨日の午後九時頃、園田凪と名乗る児童が店先に座っていました。声を掛けたところ走って行ってしまって、あの後帰宅したのか心配で電話を」
私は事実に基づいて説明する。児童の安全に関する電話であって、クレームの類ではない。だからこそ重たい沈黙が怖かった。
「実は凪ちゃん、昨日から家に戻っていないんです。夜に捜索願が出されまして、今うちの教員も総出で探しているところです。店舗名を教えてくれませんか。すぐにお伺いしたい」
衝撃の内容が告げられ、今度は私が言葉を失う。凪との会話は鮮明に残っていて、手が届きそうな分だけ痛みも大きい。電話越しにもしもしと声があって我に返った。
「私は構いませんが、オーナーに聞いてみないと。店の電話番号をお教えしますから、そちらに掛けていただけませんか」
「分かりました」
トートバッグから手帳を取り出し、店の電話番号を伝える。学校との電話はこれで終わったが、しばらくして今度はオーナーから連絡が入る。すぐに来てほしいと頼まれて、私は急いで家を出た。
到着した時、すでに小学校の教頭と警察官が来ていた。オーナーは防犯カメラの映像提供に協力していて、私は女性警察官に昨日の出来事を説明する。
小さく可愛い顔に全く似合わない強張った表情。後悔すればするほど、その顔が脳裏に焼き付いて輪郭を濃くしていく。あの時、すぐにでも通報しておけば良かった。そんなことを後悔していると警察官が優しく慰めてくれる。ただ、そんな言葉は何の役にも立たない。
もし凪の身に何かあったとしたら。そんな想像をして身を震わせる。心だろうと体だろうと、一度傷がつけば二度と元には戻らないのだ。あの目は救いを求めていたのかもしれなかった。子供がいつも明確なサインを出すわけではないと知っていたはずで、これは私の失態だった。
隣には同じように憔悴しきった教頭がいる。私は情報収集のために話しかけた。
「どうしてここに来たんでしょうか。家に居づらかったとか」
「いえ、鍵がなくてマンションに入れなかったみたいです。凪ちゃんのご両親は帰りが遅く、いつもは鍵を持参しているのですが、この日は忘れてしまったようで。玄関に鍵が残されていて、後に家を出た母親も気付かなかったと話しています」
「親に電話もしなかった?」
「ええ。働く両親の迷惑になると考えたのかもしれません。子供がそんなこと気にしなくていいと思うのですが、凪ちゃんはとても優しい子ですから」
聞いているだけで息が詰まる。子供がそんな心配しなくていい。こんなのは大人の詭弁だった。凪の純真無垢な心がそう感じたのなら、私たちはそれを謙虚に受け止める責任があったはずだ。
新しく思い出したことがあればまた連絡してほしい。教頭と警察官はそう告げて帰っていった。その姿を見送った私は、不機嫌なオーナーに手招きされる。
「あのね、店に警察呼ぶのはやめてくれるかな」
「すみません。学校関係者だけが来るものと思っていました」
「気を付けてよ」
オーナーはボサボサ髪をかきあげながら冷たく言う。こんな大人がいるから。私は舌打ちを我慢して頭を下げ、コンビニを後にする。今はなにより凪の捜索が最優先だった。
これほどの大事件が起きても街はいつもと変わらない。変わろうとする気概さえないように思えて腹立たしさを感じた。社会の宝が失われる。その意味を誰も理解できていない。
私は足が動く限り街を練り歩いた。子供の気持ちになって、立ち寄りそうな場所をしらみ潰しに調べていく。しかし、そう簡単には見つからない。
死に抗う一部の者たちが、夕方から駅前でビラ配りを始めた。ビラには凪の顔写真やその日の服装、持ち物などの情報が記載されていて、私も一枚貰う。満面の笑顔で映る凪に、ただただ謝罪するしかない。無価値な涙が頬を流れる。しかし、そうしなければこの罪悪感に耐えられそうになかった。




