第2話
私はこの社会が好き。これは常盤ひまりの口癖である。若い女性にしてはなんて奇特なモットーなのだろう。今ではそんな冗談を口にすることもできるが、出会った時の僕にそんな余裕はなかった。初めてその言葉を聞いた時は、同時にストーキングしていたことまでカミングアウトされ、人生で一番の恐怖を植え付けられたからだ。
何の変哲もない会社員の僕と、正義にとりつかれた大学生のひまり。そんな僕らの出会いは、今から半年前に遡る。
当時、ひまりは都内で違法薬物を売り捌くとある密売人を追っていた。そして、その類まれなる行動力と推理力のおかげで、僕と同じ会社に勤務する男が犯人であると突き止めた。一緒にこの社会を良くしよう。協力者を探していたひまりに目をつけられた僕はそんな口上を突き付けられ、奇妙な相棒関係は生み出された。
ひまりの第一印象は、正義に陶酔した狂人だった。ところが、その密売人がめでたく逮捕されたことで、僕もその正義の味を知ってしまった。それはどんな娯楽よりも高い満足感を与えてくれて、無機質な人生を送っていた人間には刺激的過ぎた。それ以来、僕はひまりが持ち込む事件に付き合うようになった。
ひまりの心は単に純粋なのではない。富士山の伏流水にも味があるように、正義という媒質にひまりの人間性で味付けされている。だからこそ抗うことができなかった。行動のほとんどが不可解で、迷惑を被ることも多い。それでも、社会に対する愛情だけは嘘偽りない。ストーキングまでしていた人間を信頼できたのは、そんな担保があったからだった。
「直樹、こっち」
僕は百円を払って小さなゲートを通過する。声がした方向を見ると、黒のダウンジャケットにジーンズ姿のひまりが、競馬新聞を脇に挟んで手を振っていた。
「気合入ってるね」
「当然。どうせなら勝ちたいから」
今日の待ち合わせ場所は競馬場だった。お互い競馬が好きなわけではない。きっかけは、近所にあるなら一度は経験すべきだと、酒の場でひまりが言い出したことである。
「次のレースまで時間あるし、これで勉強して勝負しよう」
地下通路をくぐり、馬場に囲まれた芝生広場に出る。最初に目に飛び込んできたのは大きなスクリーンだった。そこでは別の競馬場のライブ映像が流れている。
僕たちは空いていたベンチを見つけて腰掛ける。早速、二人で競馬新聞を広げた。
「この七番が強そう。皆が推してる」
「人の意見に合わせるなんてらしくない」
僕が挑発すると、ひまりの眉間にしわが寄る。勝負は既に始まっている。僕は一番人気に賭けておけば問題ないだろうと安直に考えていた。
ひまりは時間が許す限り考え続けた。馬券購入の締め切りが迫り、僕がひまりの腕を引く形で発券機に向かう。馬券は、賭け方や馬の番号を専用のカードにマークし、機械に読み込ませて購入する。最低掛け金は百円で、僕は七番の馬を単勝で選んだ。
「私はワイドにしてみた」
隣で真剣に鉛筆を動かしていたひまりは、何やら難しい買い方をしたらしい。三着までに入る二頭の組み合わせを当てるものだそうで、選んだ馬は五番と九番だった。
「テキスト代は返してもらわないと」
軽口を叩いてはいるが、ギャンブルまで得意なわけではないだろう。僕は適当に相槌を打って、馬場に近いフェンスまで移動した。
音楽が鳴り、馬の準備が整うと、ゲートが開いてレースが始まる。最初はスクリーンに映る馬を眺め、コーナーを抜けた後、目の前の直線に視線を移す。巨体が生み出す土埃と轟音は圧巻だが、それよりも周囲の声援に驚かされる。一瞬で通り過ぎた馬列はあっという間に見えなくなった。
再びスクリーン上、七番が先頭だった。このままいけば勝つのは僕だ。そう思って隣を見ると、ひまりは馬券を握りしめて祈っていた。負けず嫌いが前面に出ている。
最後のコーナーに入り、周囲が一段と騒がしくなる。勝負は直線で決する。僕が身を乗り出して七番を歓迎しようとしたところ、その時にはもう順位が入れ替わっていた。
「やった。私の勝ちだ」
ひまりの憎たらしい声が隣に立っているおじさんの絶叫でかき消される。その瞬間、僕の馬券はただの紙切れになった。
「換金してくる」
払い戻しが確定すると、ひまりは嬉しそうに走っていく。損失はたったの百円。それでも悔しい。
「今日は寿司かな」
「そんな何回も当たるもんか」
「コツを掴んだから」
ひまりはそう言って次のレース予想を始める。僕には一番人気が負けた理由も分かっていない。もう一度、確率に身を任せるしかなかった。
それから二時間。ひまりは四レース全てで勝ち続け、一万円のプラスでフィニッシュした。
「楽しかった」
「千円で二時間楽しめるなんて競馬は案外コスパが良いんだな」
「負けず嫌いだね。今日はこれで飲みに行こうよ。奢るから機嫌直して」
レースはあと一つ残っているが、メインが終わったことで家路につく人が目立つ。僕らも混む前に出口に向かった。
その道中、スタンド席の前を通りかかると人だかりができていた。注目の的は年配警備員と押し問答する一人の大男。どうやら先のレースに負けて荒れているらしい。赤い煙草の空箱を投げつけ、罵声を吐いていた。
これはまずい。そう思ったときにはもう、ひまりの足はそちらに向いていた。これも社会のためなのだろうが、酔っ払いの相手ほど見ていてつまらないものはない。
ただ今頃になって、僕にもツキが回ってきたようだった。ゲートから走ってくる警察官の姿が見えて、僕はひまりを制止した。
「やっぱり人を狂わせる力があるんだね。私も飲まれるところだった」
「今日のひまりを見ていたら本業に出来るんじゃないかと思ったけど」
冗談のつもりだった。ところが、ひまりは顎に手を当てて考え込んでしまう。
ひまりの将来は常々気になっているが、ギャンブラーというのは少し違う。本気にしていないか不安になっていると、ひまりに顔を覗かれて笑われた。
「直樹を心配させるならやめとこうかな。今日楽しかったのは一緒だったからだよ」
「ありがとう」
甘い言葉に思わず頬が緩んでしまう。ただ、それはそれで不健全な気がした。




