[連帯債務と連帯保証]現場編 同じ「連帯」でも大違い。似ている言葉を雑に覚えると、本日仲良く全滅です
法律というものは、たまに同じ漢字を使って人を罠にかけます。
連帯保証。
連帯債務。
どちらにも「連帯」とついている。
だから、だいたい同じものだろう。
――そう思った瞬間、試験では一問落とします。
そして現実では、金を落とします。
しかも、たいてい万円単位で。
その日の大槻不動産には、朝から千円札よりずっと物騒な数字が飛び交っていました。
「三百万払ったのは姉貴が勝手にやったことだろ!」
「勝手って何よ! 払わなかったら店を差し押さえるって言われたのよ!」
「でも姉ちゃんの負担は四百万だろ? 三百万しか払ってないなら、自分の分を払っただけじゃないか!」
「だから何で私だけ三百万なのよ!」
応接机を挟んで、男女が睨み合っています。
私は急須を持ったまま、そっと真壁さんの横へ逃げました。
「……朝から元気ですね」
「他人事みたいに言うな」
「私、お茶係ですから」
「さっき、お茶くみに見習いはないって言ってたのは誰だ」
「都合により制度が改正されました」
「早えよ」
目の前で揉めているのは、三谷家の三きょうだいでした。
長女の春江さん。
長男の隆さん。
次男の正人さん。
三人は亡くなったお父さんが残した古い店舗を改装して、食堂を始めた。
その改装資金として、三人そろって千二百万円を借りた。
ただの共同借入れではない。
三人とも、千二百万円全額について責任を負う――連帯債務です。
内部の負担割合は三分の一ずつ。
つまり、本来の負担は一人四百万円。
ところが商売は思うようにいかず、返済が滞った。
そして債権者から強く請求された春江さんが、とりあえず手元にあった三百万円を支払った。
すると弟二人が言い出した。
――姉さんの負担部分は四百万円。
――払ったのは三百万円。
――なら、まだ自分の負担部分すら超えていない。
――だから俺たちに請求する権利はない。
「……なるほど」
私は湯飲みを並べながら呟きました。
「何がなるほどなの?」
春江さんが、すごい勢いでこちらを見る。
「あ、いえ。揉める理由が、ものすごく宅建試験っぽいなと」
「たっけん?」
「こちらの事情です」
危ない。
昭和六十三年の一般家庭で「改正民法のひっかけ問題みたいですね」なんて言ったら、私の人生そのものがひっかけ問題になります。
所長の大槻さんが、机の上の資料を指で軽く叩きました。
「問題は、これだけじゃない」
「え?」
所長がもう一枚、領収書を出した。
金額。
八百万円。
私は思わず二度見しました。
「……大きいですね」
「大きいどころじゃないわよ」
春江さんが肩を落とした。
「それ、母のよ」
「お母さん?」
「ええ」
今度は真壁さんが説明してくれました。
三谷家には、食堂の借金とは別に、亡くなった父親が以前営んでいた材木商の借金が千万円残っていた。
その借金について、母親の和江さんと、父親の弟――つまり叔父の善吉さんが、二人で連帯保証人になっていた。
主たる債務者は父親。
保証人は母親と叔父。
借金は千万円。
そして父親が亡くなった後、債権者から請求を受けた母親が、土地の一部を売って八百万円を支払った。
「八百万……」
私は領収書を見ました。
春江さんが唇を噛む。
「母はもう七十二なの。老後のために取っておいた畑だったのよ」
「それで叔父さんには?」
「払った分を少し負担してほしいってお願いしたわ。でも……」
春江さんは悔しそうに目を伏せた。
代わりに長男の隆さんが言いました。
「叔父貴は、払う必要なんかないってさ」
「理由は?」
「母さんが勝手に八百万払ったんだから、母さんが親父の相続人に請求すればいい。保証人同士では関係ないって」
私は黙りました。
なるほど。
今日の大槻不動産には、二つの「連帯」が持ち込まれたわけです。
一つは、
三人の連帯債務者。
一人が三百万円払った。
もう一つは、
二人の連帯保証人。
一人が八百万円払った。
そして全員が、
同じ「連帯」という言葉を、自分に都合のいいように解釈している。
法律用語。
便利ですね。
知らない人を黙らせるには。
「それで、うちに何を?」
真壁さんが聞きました。
春江さんは大きく息を吐いた。
「店と土地を売りたいんです」
「なるほど」
「借金を全部整理して、残ったお金を三人で分けたい。でも、このままじゃ精算できないでしょう?」
できない。
というより。
この状態で売却代金が入ったら、確実に第二次三谷家大戦が始まる。
不動産の決済日に家族喧嘩。
業者がもっとも見たくない種類の祭りです。
「俺は単純だと思うけどな」
隆さんが椅子にもたれた。
「姉貴は自分の四百万のうち三百万払った。それだけ。だから俺と正人には関係ない」
「そうそう」
正人さんも頷く。
「母さんの八百万だって、保証人なんだから払う覚悟はしてたんだろ。叔父貴に後から金出せっていうのも違うと思うけどな」
春江さんが立ち上がりかけました。
「あなたたちねえ!」
「春江さん」
大槻所長の声でした。
大きくはない。
でも、不思議と全員が黙る。
この人、たぶん戦国時代なら槍を持たずに城門を開けさせるタイプです。
「今日は喧嘩をしに来たんじゃないでしょう」
「……はい」
「売るなら、数字を整理する。それだけです」
所長は私を見ました。
「栞」
「はい」
「整理してみろ」
来た。
最近これ多くないですか。
十八歳の事務見習いですよ、私。
普通はコピーとかお茶とか、「この書類を郵便局へ」とかじゃないんですか。
どうして千万円単位の民法パズルを朝飯前に解かされてるんです?
とはいえ。
分かる。
これ、昨日まで過去問の選択肢で何度も私を殴ってきたやつだ。
私は紙を一枚もらいました。
まず横線を引く。
「二つの話を、分けましょう」
「二つ?」
隆さんが眉をひそめる。
「はい。同じ“連帯”でも、これは別です」
私は紙の上に大きく書いた。
――連帯債務。
その下に、
春江・隆・正人。
千二百万円。
負担割合は三分の一ずつ。
「まず、こっち」
私は春江さんを見ました。
「春江さんが三百万円払った件です」
「ああ」
「隆さんは、春江さんの負担部分が四百万円だから、三百万円では負担部分を超えていない。だから求償できない、と考えている」
「そうだよ」
「違います」
即答しました。
隆さんの顔が止まった。
「……何?」
「連帯債務は、そこだけ見ません」
私は三百万円と書いて、三本に分けました。
百万円。
百万円。
百万円。
「三人の負担割合が同じなら、春江さんが三百万円払ったことで軽くなった三百万円について、内部では三人それぞれ百万円ずつ負担することになります」
春江さんが目を見開いた。
「じゃあ……」
「春江さんは、隆さんに百万円、正人さんにも百万円。求償できることになります」
「待てよ!」
隆さんが身を乗り出す。
「姉貴は四百万負担するんだろ!? 三百万しか払ってないんだぞ!」
「はい」
「だったら自分の負担の範囲内じゃないか!」
「そこが今日の罠です」
「罠?」
「連帯債務の場合、“自分の負担部分を超えたかどうか”だけで求償の可否を決めないんです」
私は紙の百万円を指で順番に叩きました。
「三人で負担する同じ債務を、春江さんのお金だけで三百万円減らした。なら、その三百万円について、内部の負担割合で精算する」
「でも……」
「隆さん」
私は顔を上げた。
「逆に考えてみてください」
「何を」
「債権者からあなたに三百万円請求が来て、あなたが払ったとします」
「ああ」
「そのあと春江さんと正人さんから、“四百万を超えてないんだから、それ全部あなた持ちね”って言われたら?」
「……」
「納得します?」
隆さんの口が閉じた。
正人さんが、横からぽつりと言った。
「しないな」
「おい」
「いや、しないだろ」
「そこは兄弟で団結してくださいよ」
私が言うと、春江さんが吹き出した。
少しだけ。
本当に少しだけ、空気が緩みました。
でも。
今日の本番はここからです。
「じゃあ!」
春江さんが、八百万円の領収書を出しました。
「母のほうも同じでしょう? 二人で保証してるんだから、八百万円を半分ずつ。叔父に四百万円請求できるってこと?」
私は首を横に振りました。
「同じじゃありません」
「え?」
「そこです」
真壁さんが私を見る。
「どう違う?」
私は二枚目の紙を取りました。
そこに書く。
――連帯保証。
主たる債務者・父。
連帯保証人・母、叔父。
千万円。
「今度は“連帯債務者同士”じゃありません。“保証人同士”です」
「でも二人とも千万円払えって言われる可能性があるんでしょう?」
「債権者との関係では、そうです」
「じゃあ同じじゃない」
「外から見ると似ています」
私はペンを置きました。
「でも、中が違うんです」
誰も喋らなくなった。
こういう瞬間。
ちょっと好きです。
絡まった糸の先端を一本見つけた瞬間に似ている。
「保証人は、そもそも主たる債務者の借金を保証している人です」
「うん」
「そして保証人が複数いる場合、保証人同士にも内部的な負担部分があります」
千万円。
二人。
私は真ん中に線を引いた。
五百万円。
五百万円。
「今回、二人の負担割合が同じとして考えるなら、お母さんの負担部分は五百万円」
「でも八百万払った」
「はい」
私は八百万円と書く。
「お母さんは、自己の負担部分である五百万円を超えて、さらに三百万円を払ったことになります」
春江さんが、じっと紙を見る。
隆さんも。
正人さんも。
「つまり……?」
「保証人同士の精算では、この“超えて払った部分”が重要になるんです」
私は三百万円に丸をつけました。
「お母さんは八百万円払った。でも、だからといって叔父さんに四百万円請求する、という計算にはなりません」
「じゃあ……三百万?」
「この条件なら、そこが問題になる部分です」
春江さんはしばらく黙っていました。
そして、
「……四百万円じゃないんだ」
少し残念そうに言った。
「はい」
「でも、ゼロでもない」
「はい」
その瞬間。
入口から声がしました。
「ゼロだよ」
全員が振り返った。
六十代くらいの男が立っていました。
作業着。
日焼けした顔。
眉間に深い皺。
「善吉叔父さん……」
春江さんが呟いた。
どうやら本人登場です。
昭和の不動産屋、電話より本人が来るほうが早い。
「隆から電話もらった」
善吉さんは事務所に入ると、私たちの紙を見た。
「和江さんが勝手に払ったんだ。俺は払えなんて頼んでない」
「叔父さん!」
「兄貴の借金だろ。和江さんは兄貴の嫁だ。まず家族で何とかするのが筋じゃないか」
その言葉に。
春江さんの顔が変わりました。
「その“家族”って、便利ね」
「何?」
「母が土地を売った時は家族。叔父さんがお金を払う話になると、母は勝手に払った人?」
「俺はそんな意味で――」
「母はね」
春江さんの声が震えた。
「あの畑、ずっと取っておきたかったのよ」
事務所が静かになる。
「あそこ、お父さんと二人で最初に買った土地だったの。家を建てるお金がなくて、結局畑のままだったけど……それでも売りたくなかった」
善吉さんは黙った。
「でも請求が来て、店まで駄目になるかもしれないって言われて。私たちに迷惑かけたくないからって、一人で売ったのよ」
「……」
「それを、“勝手に払った”って言われたら……」
春江さんは、それ以上言えなかった。
私は紙の上の数字を見ました。
千万円。
八百万円。
五百万円。
三百万円。
法律の数字は冷たい。
冷たいから、誰が泣いていても計算結果は変わらない。
でも。
だからこそ使える。
声の大きい人ではなく。
払った人でもなく。
泣いた人でもなく。
何が誰の負担なのか。
そこを切り分けるために。
「善吉さん」
私は言いました。
「はい?」
「一つだけ、確認してもいいですか」
「ああ」
「保証人になったこと自体は、間違いないんですよね?」
「……それはそうだ」
「お母さんと二人で」
「ああ」
「なら、“自分は一円も関係ない”という整理にはなりません」
善吉さんが私を見る。
怖い。
真壁さんより怖い。
いや、真壁さんは顔だけだった。
この人はいま機嫌も怖い。
でも、ここで引いたら。
法律がただの難しい漢字に戻ってしまう。
「保証人が複数いる場合にも、保証人同士の負担関係があります」
「……」
「お母さんが八百万円支払った。それによって、善吉さん自身も保証責任を免れた部分がある」
「でも俺は払えって頼んでない」
「頼んだかどうかだけの問題じゃありません」
「何?」
「お母さんが払ったことで、善吉さんも“払わずに済んだ部分”がある。それを全部、お母さん一人の負担にしてしまうのは公平じゃないんです」
善吉さんの眉間の皺が、さらに深くなった。
私は紙を善吉さんの前へ滑らせました。
「ただし」
ここ、大事です。
「春江さんの言う“八百万円払ったから半分の四百万円”でもありません」
「……違うのか?」
「違います」
善吉さんが初めて、紙をちゃんと見た。
「連帯債務の三百万円と、連帯保証の八百万円。似ていますけど、求償の考え方が違います」
私は一枚目と二枚目を並べました。
一枚目。
連帯債務。
支払額 三百万円。
内部負担 三分の一ずつ。
春江さん自身の負担部分を超えていなくても、支払った額について割合で精算する。
二枚目。
連帯保証。
支払額 八百万円。
保証人二人の負担部分 五百万円ずつ。
こちらは、自己の負担部分を超えて支払った部分が問題になる。
「同じ“連帯”でも」
私は二枚の紙の間に、一本の太い線を引いた。
「同じ計算をしたら駄目なんです」
沈黙。
時計の秒針だけが聞こえる。
そして――。
「つまり」
真壁さんが口を開きました。
「春江さんの三百万については、“四百万を超えてないから求償なし”って隆さんの理屈は間違い」
「はい」
「母ちゃんの八百万については、“八百万払ったから叔父さんも半分の四百万”って春江さんの理屈も違う」
「はい」
「で、叔父さんの“俺は一円も関係ない”も違う」
「はい」
真壁さんは三人を見回した。
「全員間違ってんじゃねえか」
私は小さく頷いた。
「本日、仲良く全滅です」
「言い方!」
春江さんがとうとう笑った。
正人さんも顔を伏せて笑う。
隆さんは頭を掻いた。
「……俺、姉貴に百万円払うのか」
「少なくとも、今の前提ならその精算を考えることになります」
「マジか」
「マジです」
「お前、十八だよな?」
「法律に年齢制限はありません」
「説得力あるのかないのか分かんねえな」
善吉さんだけは、まだ黙っていました。
やがて。
「三百万か」
低い声で言った。
春江さんが顔を上げる。
善吉さんは、二枚目の紙を見たままだった。
「和江さんに……三百万、渡せばいいのか」
「細かい関係やほかの求償先まで含めると確認は必要です」
所長が初めて口を挟んだ。
「だが、“全部和江さんの負担で終わり”という話ではない。それだけは確かだ」
「……そうか」
善吉さんは長く息を吐いた。
「俺な」
ぽつりと言った。
「兄貴が死んでから、あの家と関わるのが嫌だったんだ」
誰も口を挟まない。
「借金の話ばっかりだったからな。電話が来るたび、また金の話かって……。和江さんから連絡来た時も、正直、逃げた」
春江さんが黙って善吉さんを見る。
「でも、畑売ったのは知らなかった」
「……」
「兄貴と買った畑だったんだろ、あれ」
春江さんが小さく頷く。
「そうよ」
善吉さんは俯いた。
「だったら……“勝手に”って言い方は悪かった」
春江さんの目が少しだけ赤くなった。
「叔父さん」
「金の話は、ちゃんとする」
「……うん」
「ただ」
「何?」
「三百万、一括は無理だ」
「そこは急に現実的ね」
「現金ないんだよ」
「さっきまで一円も払わないって言ってた人が」
「だから悪かったって言ってるだろ!」
二人の声がまた大きくなる。
私は真壁さんを見ました。
「止めなくていいんですか?」
「さっきより健全な喧嘩だ」
「健全な喧嘩って何ですか」
「払うか払わないかじゃなく、どう払うかで揉めてる」
なるほど。
営業マン。
人間の修羅場に妙な評価軸を持っています。
所長も、ほんの少し笑っていました。
「なら」
大槻所長が言う。
「店舗と土地を売ったあと、それぞれの負担を全部表にして精算しよう」
隆さんが顔を上げた。
「全部?」
「全部だ」
「面倒だなあ」
「面倒だから今まで揉めたんだろう」
「……はい」
一撃でした。
所長の正論は、たまに鈍器です。
「春江さんが払った三百万」
「はい」
「和江さんが払った八百万」
「はい」
「残っている債務、売却代金、誰がどれだけ負担するか。それを一枚の表にする」
所長が三谷家の面々を見る。
「家族だから曖昧にするんじゃない。家族だから、曖昧にしない」
その言葉に、誰も反論しませんでした。
数週間後。
三谷家の古い店舗には買い手がつきました。
決済の日。
以前なら顔を合わせるだけで喧嘩していた三きょうだいが、同じ机に座っていました。
所長が作った精算表が一枚。
その横には、私が下書きしたメモ。
誰が払った。
何のために払った。
誰の負担がどれだけ軽くなった。
そして、誰が誰にいくら精算するのか。
ただ、それだけです。
けれど。
たったそれだけのことを、人は感情だけではなかなか整理できない。
「百万円な」
隆さんが、春江さんに通帳を見せました。
「振り込んだ」
「私も」
正人さんも言う。
春江さんは二人を見て、
「最初からそうしなさいよ」
「知らなかったんだから仕方ないだろ」
「知らないのに、ずいぶん偉そうだったわね」
「姉ちゃんも四百万って間違えてたじゃん」
「それは……」
春江さんが私を見る。
「栞ちゃん」
「助けませんよ」
「早い!」
「今回は全員一敗ずつです。引き分けです」
真壁さんが吹き出しました。
そこへ、善吉さんがやってきました。
手には封筒。
「春江」
「叔父さん?」
「これ」
差し出した。
「三百万……じゃないぞ。今日は百万だけだ」
「分かってるわよ」
「残りは半年で払う」
「無理しなくていいのに」
「いや」
善吉さんは首を振りました。
「これは金の問題だからな」
そして少しだけ間を置いて、
「金だけの問題じゃないから、ちゃんとする」
春江さんは封筒を受け取った。
「……母に渡すね」
「ああ」
「叔父さんからだって言うよ」
「言わなくていい」
「言う」
「やめろ」
「言う」
「お前、昔から頑固だな」
「叔父さんに言われたくない」
また始まりました。
でも。
今度は誰も止めませんでした。
言い合いの途中で、春江さんが笑っていたから。
決済が終わったあと。
春江さんは、古い店舗の壁から外した小さな木の看板を抱えて帰っていきました。
三谷食堂。
お父さんが自分で書いた看板らしい。
「店、なくなっちゃいますね」
私が言うと、春江さんは首を振った。
「ううん」
「え?」
「今度、母と二人で小さい店を借りるの」
「また食堂を?」
「今度は借金しない程度にね」
そう言って笑った。
「弟たちも、たまには手伝うって」
後ろで隆さんと正人さんが、
「たまにだからな!」
「毎週は無理だからな!」
と逃げ道を作っている。
この兄弟、本当に仲がいいのか悪いのか分かりません。
たぶん。
家族なんて、だいたいそんなものなのでしょう。
三谷さんたちを見送ったあと、私は机に戻りました。
そこには、今日使った二枚の紙が残っていました。
連帯債務。
連帯保証。
漢字にすれば、たった二文字違うだけ。
「似てますよねえ」
私が呟くと、真壁さんが缶コーヒーを飲みながら言いました。
「何が」
「連帯保証と連帯債務」
「ああ」
「名前が似てて、どっちも全額請求されることがある」
「うん」
「なのに、払ったあとの話になると急に違う」
「法律ってのは意地が悪いな」
「宅建受験生の敵です」
「またその“受験生”ってやつか」
「独り言です」
私は紙を並べました。
連帯債務。
三百万円払った。
自分の負担部分を超えていなくても、それで他の債務者も免責される以上、負担割合に応じて精算する。
連帯保証。
八百万円払った。
保証人同士では、自分の負担部分を超えて支払ったところが重要になる。
私は二枚の紙の間に、もう一度太い線を引いた。
「分けて考える、か」
背後から所長の声がした。
「はい」
「それだけ覚えておけばいい」
「それだけ?」
「最初はな」
所長は二枚の紙を指した。
「法律で失敗する人間は、似ているものを同じだと思う」
「……」
「実務で失敗する人間は、違うものを一緒くたにする」
私は紙を見ました。
なるほど。
今日の三谷家もそうだった。
みんな「連帯」という言葉だけ見ていた。
だから、
三百万円払った春江さんと、
八百万円払ったお母さんを、
同じ計算で考えようとした。
でも法律は違った。
肩書きが違えば。
立場が違えば。
払ったお金の意味も違う。
「所長」
「なんだ」
「たまに、すごく先生っぽいこと言いますね」
「たまに?」
「痛い痛い痛い!」
頭を書類で叩かれました。
昭和六十三年。
私はまた一つ、面倒くさい法律を覚えました。
でも。
今日ばかりは、その面倒くささが少し好きでした。
もし法律が全部、
「払った人が損」
で終わる世界だったら。
春江さんは弟たちに何も言えなかったかもしれない。
お母さんも、畑を売って八百万円を払ったまま、
「保証人になったんだから仕方ない」
の一言で終わっていたかもしれない。
求償権。
漢字にすると、ずいぶん堅い。
でも結局は、
――あなたが払ってくれたおかげで、私も助かった。
――なら、その分はきちんと精算しましょう。
たぶん、それだけの話なのだ。
私は二枚の紙をノートに挟みました。
表紙を閉じる。
連帯保証と、連帯債務。
同じ「連帯」でも、同じじゃない。
人間だってそうです。
家族だから。
兄弟だから。
保証人だから。
債務者だから。
同じ立場に見えても、それぞれ背負っているものは違う。
だからこそ。
ごちゃ混ぜにせず、一人ずつ、一円ずつ、ちゃんと分けて考える。
それが法律なのかもしれません。
「栞」
「はい?」
真壁さんが机の上に缶コーヒーを置きました。
「今日の分」
「ありがとうございます」
「ただし半分払え」
「え?」
「俺とお前の連帯コーヒーだ」
「そんな債務ありません」
「百円の半分で五十円」
「負担割合を勝手に決めないでください」
「じゃあお前九十円」
「増えてる!」
所長の笑い声が聞こえました。
私は缶コーヒーを抱えて、ため息をつく。
どうやら。
法律を覚えても、理不尽までなくなるわけではないらしい。
――明日からは、飲み物の内部負担割合まで契約書に書こう。
本気でそう思いました。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




