表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/11

8話 突入不能

 21時12分。


 新宿の高層ビル群は、夜になっても眠らない。


 ガラス張りのオフィスビルに灯る無数の明かり。


 甲州街道を流れる車の列。


 西新宿の交差点に響く信号音。


 人の数は昼より少ないはずなのに、街の圧はむしろ濃くなっていた。


 その一角にある架空の複合オフィスビル、新宿セントラルゲートタワー。


 地上28階、地下3階。


 低層階にはカフェ、会議室、クリニック、イベントホール。


 中層階には複数のIT企業と法律事務所。


 高層階には、民間セキュリティ企業と外資系コンサル会社が入っている。


 事件は、その17階で起きた。


 20時31分。


 17階の会議室フロアで、男が人質を取った。


 最初に通報したのは、同じ階にいた清掃員だった。


 銃のようなものを持った男がいる。


 人が叫んでいる。


 すぐに警視庁が動いた。


 SITが交渉に入り、SATが待機する。


 立てこもり事件としては、初動は早かった。


 現場の封鎖も速い。


 階下の避難も進んでいる。


 報道には、まだ詳細は出ていない。


 だが、現場の空気はすでに重かった。


 犯人は1人ではなかった。


 確認されているだけで4人。


 人質は12人。


 しかも、フロア内の防犯カメラ映像は途切れたり戻ったりを繰り返している。


 エレベーターは17階に止まらない。


 非常階段の扉は内側からロックされている。


 そして、17階の空調だけが、外部制御に切り替わっていた。


 21時03分。


 現場指揮所に、SATの突入班長が入ってきた。


 顔は険しい。


「正面突入はできます。ただし、扉の内側に何かあります」


 SITの交渉官も、電話を切って首を横に振った。


「会話はできます。だが、相手の反応が変です。こっちの言葉を聞いているようで、どこかで誰かの指示を待っている」


 現場の警視庁幹部がモニターを見る。


 17階の会議室前廊下。


 映像には、人質らしき人影が映っている。


 床に座らされている。


 その手前に、黒い袋のようなもの。


 配線らしきものも見えた。


 SATなら入れる。


 SITなら話せる。


 だが、今この瞬間、どちらも決定打にはならない。


 突入すれば、何かが作動するかもしれない。


 交渉を続ければ、時間を稼がれているだけかもしれない。


 幹部は数秒だけ黙った。


 そして、低く言った。


「SERTを呼べ」


 若い刑事が顔を上げた。


「SERT……ですか」


 幹部はその刑事を見なかった。


「聞かなかったことにしろ」


「しかし」


「呼べと言った」


 その声で、周囲の空気が少し変わった。


 21時19分。


 新宿駅周辺の混雑を避けるように、SERTの黒い車両はビルの地下搬入口へ入った。


 赤色灯は消している。


 サイレンも鳴らしていない。


 報道カメラは正面玄関に集まっている。


 SERTは、その反対側から現場へ入る。


 上原が車両を降りた。


 続いて、戸張、吉田、片桐、水瀬、真壁、梶原。


 全員、黒の戦闘服。


 ただし、上からは目立たない濃紺の上着を羽織っている。


 地下搬入口にいた若い警察官が、その胸元の白い文字を見た。


 SERT。


 その意味を尋ねようとした時、隣の警部補が低く言った。


「見るな」


「え?」


「忘れろ。ここに来たことも、見たこともだ」


 若い警察官は黙った。


 SERTはその横を通り、地下の業務用通路から現場指揮所へ向かった。


 会議室の一角に設置された仮設指揮所。


 モニター、通信機、図面、現場写真。


 そこにはすでにSATとSITの隊員がいた。


 上原は入るなり、頭を下げた。


「SERT、上原です」


 SATの突入班長が上原を見る。


 年齢は上原と近い。


 その目に、警戒と焦りが混ざっていた。


「SATの黒木です。正面突入準備はできています」


 上原は頷いた。


「映像を見せてください」


 SITの交渉官が言った。


「SIT、長谷部です。犯人との回線は繋がっています。ただ、相手が不自然です」


「不自然とは」


「こちらの質問への返答が遅れる。自分の怒りで話しているようで、ところどころ言葉が台本のようになる」


 吉田がすぐに反応した。


「誰かに言わされている」


「そう見えます」


 長谷部は悔しそうに唇を噛んだ。


「交渉を続ければ、時間は稼げます。でも、こちらが何を話しても、核心に入ると相手の声が止まる」


 吉田は静かに言った。


「ここまで繋いでくれたから、まだ話せます」


 長谷部が吉田を見る。


 その言葉に、少しだけ表情が変わった。


 奪いに来たのではない。


 引き継ぎに来たのだと分かったからだ。


 上原はモニターを見る。


 17階の映像。


 廊下。


 人質。


 犯人の影。


 黒い袋。


 それに、床の反射。


 上原の目が止まった。


「梶原、映像の時刻を確認」


 梶原が端末を繋ぐ。


「表示上は現在時刻です」


「表示上は?」


「メタデータを見ます。……映像に遅延があります。約2分40秒」


 現場指揮所の空気が凍った。


 SATの黒木が画面を見る。


「つまり、今見ている人質の位置は、現在のものではない」


 梶原が頷く。


「はい。映像は遅れています。リアルタイムに見せかけた遅延映像です」


 戸張が低く言った。


「突入したら、空の部屋に入る可能性があるな」


 上原は答えた。


「ある」


 黒木の表情が固くなる。


 突入準備は完璧だった。


 だが、その完璧さを相手が読んでいる。


 上原は黒木を見た。


「突入準備は完璧です。だから、今は入らないでください」


 黒木は一瞬だけ黙った。


 その言葉は、SATを否定するものではなかった。


 むしろ、準備ができているからこそ待てと言っている。


「理由を聞きます」


「犯人は、SATが入る瞬間を待っています」


 片桐が黒い袋の映像を拡大する。


「袋の中身は爆発物に見えます。ただし、見せ方が露骨すぎる」


 水瀬が空調図を見る。


「17階の空調が外部制御に切り替わっています。人質がいる空間に、何かを流せる状態です」


 真壁は建物図面に目を落とす。


「17階の会議室フロアは、非常階段が2か所。片方は17階でロック。もう片方は18階側から回れる。ただ、人質搬出には狭い」


 梶原が続ける。


「電子錠も外部から触られています。防犯カメラ、空調、エレベーター、館内放送。全部ではありませんが、部分的に乗っ取られています」


 吉田が長谷部から通話ログを受け取る。


「犯人の声、聞きます」


 録音が流れる。


 男の怒号。


 人質のすすり泣き。


 要求。


 会社の不正を公表しろ。


 金を返せ。


 警察は来るな。


 報道を入れろ。


 よくある立てこもり犯の言葉に聞こえる。


 だが、吉田は途中で眉を動かした。


「ここ」


 音声を止める。


「“17階には誰も入るな”と言っています。でもその前に、“俺のいる部屋に入るな”と言っていた。言い方が変わっています」


 長谷部が頷く。


「そこは私も気になりました」


「犯人は、自分がいる部屋を隠したいんじゃない。17階全体に警察を入れたくない」


 上原はモニターから目を離した。


「目的は人質じゃない」


 現場指揮所が静まる。


 上原は建物図面を見た。


 17階。


 会議室。


 防犯カメラ。


 非常階段。


 空調。


 そして、フロアの奥にある小さなサーバー管理室。


「17階に何がある」


 警視庁幹部が答える。


「このビルの一部企業の共有サーバー室があります。ただ、重要度はそこまで高くないはずです」


 梶原がすぐに調べる。


「共有サーバー室……いや、違います。17階の管理室は、ビル全体の一部制御ネットワークに物理接続できる場所です。普段はメンテナンス用」


 上原が言う。


「そこを使って、ビルを操作している」


 梶原の指が止まった。


「あり得ます。外部から完全侵入したのではなく、17階の管理室に端末を置いて、そこから内部制御に入っている」


 戸張が言う。


「じゃあ人質は目くらましか」


「半分はそうだ」


 吉田が静かに続ける。


「でも犯人役の男は本当に追い詰められている。使われているだけかもしれません」


 上原は頷く。


「実行犯と設計者が別だ」


 片桐が黒い袋を見ながら言った。


「見せ爆弾。遅延映像。空調制御。電子錠。17階全体を罠にしている」


 水瀬が空調ラインを追う。


「突入して刺激性物質を流されたら、人質も隊員も動けなくなります。濃度次第では命に関わる」


 黒木が低く聞いた。


「では、どうする」


 上原はすぐには答えなかった。


 全員が待つ。


 焦りではなく、組み立ての時間。


 上原は17階の図面を指した。


「犯人たちは、SATが会議室へ突入すると読んでいる。SITが電話を繋ぎ続けることも読んでいる。なら、読み通りに見せる」


 戸張が少し笑った。


「また見せるのか」


「龍一、SATと一緒に正面突入準備を続けろ。音も出せ。相手に“突入が近い”と思わせる」


 黒木が頷く。


「了解」


「吉田は交渉継続。ただし、相手を説得しない。疲れさせるな。考えさせろ」


 吉田が返す。


「はい」


「片桐は黒い袋を遠隔で確認。水瀬は空調の流れを止める方法を探せ。真壁は18階側から搬出ルートを確保。梶原」


「はい」


「17階管理室に置かれている端末を探せ。ネットワークではなく、熱と電力を見る」


 梶原の目が変わる。


「通信ではなく、機械そのものを見るんですね」


「そうだ」


「やります」


 作戦は静かに始まった。


 正面では、SATが突入準備を続ける。


 盾を並べ、装備を確認し、廊下の角を押さえる。


 犯人側のカメラに見える場所で。


 戸張もそこに立った。


 SATの黒木と短く視線を交わす。


「SERTはいつもこういう面倒なことを?」


 黒木が聞く。


 戸張は肩をすくめた。


「うちの班長、普通に入るのが嫌いなんで」


「嫌い?」


「普通に入ったら、普通に罠にかかるからな」


 黒木は薄く笑った。


「なるほど」


 その頃、吉田はSITの長谷部と並んで通話を続けていた。


 長谷部が繋いできた声を、吉田が受ける。


「三島さん、聞こえますか」


 犯人役の男、三島の声が荒く返る。


「誰だ、お前」


「吉田です。長谷部さんから引き継ぎました」


「誰でも同じだ! 警察は入ってくるな!」


「入ってほしくないのは、会議室ですか。それとも17階ですか」


 数秒の沈黙。


 吉田はその沈黙を聞いた。


 奥で、誰かが何かを言う微かな音。


 近くではない。


 イヤホンか、スピーカー越し。


「17階だ! 誰も来るな!」


「誰かにそう言われましたか」


「違う!」


「では、なぜ言い直したんですか」


 三島の呼吸が乱れる。


「黙れ」


「あなたの言葉と、誰かの言葉が混ざっています」


「黙れ!」


 吉田はそれ以上押さない。


「分かりました。黙ります。ですが、ひとつだけ聞いてください。あなたが本当に守りたいものは、人質ですか。それとも、後ろにいる誰かですか」


 通話の向こうが静かになった。


 長谷部が吉田を見る。


 吉田は小さく頷いた。


 届いている。


 水瀬は空調図を見ながら、ビル管理担当者に確認していた。


「17階だけ独立制御に切り替えられています。物理的に止める方法は」


 管理担当者は青ざめている。


「機械室からダンパーを閉じれば……ただ、そこに行くには18階の天井裏から」


「真壁」


 水瀬が呼ぶ。


 真壁はすでに図面を見ていた。


「行けます。狭いですが、人は通れる」


「装備を落とさないでください。ダンパーを閉じるまでは、17階に何かを流される危険があります」


「了解」


 真壁は救助用装備を背負い、18階側へ向かった。


 大柄な体には不向きな狭い通路。


 だが、真壁は文句を言わない。


 助けるための道なら、狭くても入る。


 片桐は黒い袋の確認をしていた。


 直接近づかない。


 小型ロボットを使い、カメラで袋の外側を確認する。


「配線は本物。ただし、爆薬量は分かりません。見せ方は雑ですが、中身が完全な偽物とは言い切れない」


 上原が聞く。


「処理は」


「今は触らない方がいいです。触ったことを相手に知られる」


「見ているだけでいい」


「了解」


 梶原は端末と格闘していた。


 通信ログではなく、ビル内の電力消費と熱源。


 17階の管理室周辺。


 異常な熱源が1つ。


 人間ではない。


 小型端末。


「班長、ありました。17階管理室内に不審な端末。ビル制御系に有線接続されています」


「切れるか」


「切れます。でも切った瞬間に相手が気づく」


「切るな」


「はい。見ます」


 梶原は画面を見つめる。


「端末から空調、電子錠、防犯カメラにアクセスしています。さらにタイマーが走ってます」


「何のタイマーだ」


「不明です。ただ、あと12分」


 現場指揮所の空気が変わる。


 12分。


 犯人側が設定した終わりの時間。


 爆発か。


 ガス散布か。


 データ送信か。


 人質殺害か。


 上原は静かに聞いた。


「送信先は」


「あります。外部サーバーへ大量データを送る準備。タイマー終了と同時です」


「目的はデータか」


「おそらく。ただし、データの中身はまだ」


 吉田が通話を聞きながら言う。


「三島は時間を知りません」


「なぜ分かる」


「声が焦っていない。むしろ、自分が何を待たされているのか分かっていない」


 上原は図面を見る。


「実行犯は使われている。設計者は別。目的は17階管理室からのデータ抜き取り。人質と爆弾は突入を止めるため」


 水瀬が言う。


「空調制御は、突入時の足止め」


 片桐が続ける。


「黒い袋は視線誘導」


 梶原が言う。


「遅延映像は人質位置の偽装」


 真壁から無線が入る。


「18階天井裏、ダンパー位置に到着。手動閉鎖できます」


 上原の目が冷える。


「よし」


 戸張から無線。


「直城、SAT側は準備完了。相手も見てる。そろそろ突入が近いと思ってるはずだ」


「そのまま見せろ」


「了解」


 上原は全員に指示を出した。


「真壁、ダンパー閉鎖。水瀬、空調無力化を確認。梶原、端末を切らずに送信先を偽装しろ。片桐、黒い袋の起爆信号があるか監視。吉田、三島の意識を指示役からこちらへ引き戻せ」


 吉田が頷く。


「はい」


 上原は最後に言った。


「龍一、黒木班長と待て。まだ入るな」


「了解、直城」


 真壁がダンパーを閉じる。


 重い金属音が、天井裏で響いた。


 水瀬が数値を見る。


「17階への空調流入、低下。危険物散布の可能性は大幅に下がりました」


 梶原の指が止まらない。


「送信先を偽装します。相手には送信成功に見せますが、実際は警察側の隔離サーバーへ流します」


 上原が聞く。


「気づかれるか」


「普通なら気づきます。でも相手は今、SATの動きを見ています。注意が分散している」


 戸張が正面でSATと共に配置を変える。


 あえて見えるように。


 相手の視線を正面へ引きつける。


 黒木が小声で言う。


「囮になるのも、突入のうちか」


 戸張は答えた。


「うちでは、よくあります」


 吉田は通話に戻った。


「三島さん。あなた、今、誰のために時間を稼いでいますか」


「黙れ」


「あなたの要求は、最初は会社への恨みでした。でも今は違う。あなたは17階に誰も入れるなと言っている」


「俺の要求だ」


「違います。あなたの怒りは本物です。でも、この事件の形はあなたのものじゃない」


 三島の息が震える。


「何が分かる」


「分かります。声が変わった。あなたが怒っている時と、誰かの言葉を繰り返している時では、息の入り方が違う」


 長谷部が横で息を呑んだ。


 吉田は続ける。


「三島さん。今、耳につけているものを外してください」


「……」


「あなたが本当に言いたいことを聞きます」


「外したら」


「誰かに怒られますか」


 沈黙。


 そして、かすかな物音。


 イヤホンが落ちる音だった。


 吉田は目を細めた。


「ありがとうございます」


 三島の声が少し遠くなる。


「俺は……俺は、こんなはずじゃ……」


 その瞬間、梶原が叫んだ。


「班長、指示役が異常に気づきました。端末が自動消去に入ります」


「止めろ」


「やってます」


 片桐も同時に言う。


「黒い袋に信号。起爆じゃない。警告用の発煙です」


 水瀬が言う。


「空調は閉じています。煙が出てもフロア全体には回りません」


 上原は短く言った。


「龍一、黒木班長。入る」


 戸張が一瞬で返す。


「了解」


 黒木も頷く。


「SAT、突入」


 扉が開く。


 盾が先行。


 戸張とSATが入る。


 だが、入る先は会議室ではない。


 SERTが示したルート。


 遅延映像ではなく、梶原が再構成した現在位置。


 人質は会議室ではなく、隣の小ホールに移動させられていた。


 SATが正面を押さえる。


 戸張が右を切る。


 黒木が左を抑える。


 視線が重ならない。


 銃口が人質に流れない。


 1人目の犯人が反応する前に、盾で距離を潰す。


 2人目が銃のようなものを上げる。


 モデルガンに見える。


 だが、誰も油断しない。


 戸張が一気に詰め、手首を押さえる。


「伏せろ!」


 人質が一斉に身を低くする。


 三島は部屋の奥で立ち尽くしていた。


 耳からイヤホンが外れている。


 手に持っていた銃は、本物ではなかった。


 だが、黒い袋から白い煙が噴き出す。


 水瀬が無線で言う。


「刺激性は低い。換気不要。閉じ込めてください」


 片桐が処理班へ指示する。


「袋は触るな。まず信号遮断」


 真壁が18階側から人質搬出ルートを開く。


「こっちへ。走らないで。足元を見て」


 吉田は通話を切らずに、三島へ声をかけ続けている。


「三島さん、手を上げてください。もう指示を聞かなくていい」


 三島は崩れるように膝をついた。


「俺は……何を……」


 吉田は静かに言った。


「それは、これから話してください」


 17階管理室。


 梶原は端末の自動消去を止めた。


 完全ではない。


 だが、一部のログは残った。


「班長、データ確保。送信先は偽装成功。相手には抜き取り成功に見えています」


 上原が聞く。


「相手は逃げたか」


「はい。ただ、追跡用の印をつけました」


 上原は小さく頷いた。


「十分だ」


 21時47分。


 事件は収束した。


 人質12名、全員救出。


 実行犯4名、確保。


 三島は主犯ではなく、会社への恨みを利用された実行役の1人だった。


 黒い袋は、本格的な爆発物ではなかった。


 だが、発煙と警告信号、電子錠連動、遅延映像、空調制御が組み合わされていた。


 ただ突入すれば、人質の位置を誤認し、煙と電子錠で分断されていた可能性がある。


 ただ交渉を続ければ、データは抜き取られていた。


 SATが弱かったわけではない。


 SITが届かなかったわけでもない。


 相手が、突入と交渉の両方を計算に入れていた。


 だから、SERTが呼ばれた。


 現場指揮所で、黒木が上原の前に立った。


「助かりました」


 上原は首を横に振った。


「SATの準備があったから、相手の視線を正面に固定できました」


 長谷部も言う。


「交渉を引き継がれた時、正直、悔しさもありました」


 吉田が答えた。


「長谷部さんが繋いでくれたから、三島は最後にイヤホンを外しました」


 長谷部は少しだけ笑った。


「そう言われると、救われます」


 戸張が黒木と握手する。


「次は普通に一緒に入りたいですね」


 黒木は苦笑した。


「普通の現場で会いたいものです」


「それは無理かもしれません」


「でしょうね」


 少しだけ、現場の空気が緩んだ。


 だが、上原はまだモニターを見ていた。


 梶原が近づく。


「班長」


「何が残った」


「端末ログの一部です。ノイズ本体かは不明ですが、かなり近い構造です。ただ、今回の設計者は相当慎重です」


「識別名は」


 梶原は画面を見せた。


 そこに表示された文字は短かった。


NOISE-02


 上原は目を細めた。


 4ではなく、2。


 山中の事件とは別のセル。


 より中枢に近いのか。


 それとも、ただの番号か。


 まだ分からない。


 上原は静かに言った。


「深追いするな。今日は人質救出が優先だ」


「分かっています」


 その時、岡野から通話が入った。


 上原は端末を耳に当てる。


「上原です」


「収束したそうね」


 岡野の声は、いつも通り落ち着いていた。


「人質全員救出。実行犯確保。データ送信は隔離サーバーへ誘導しました」


「SATとSITは」


「どちらも機能していました。SERTは、突入できる形に変えただけです」


「それでいいわ」


 岡野は少しだけ間を置いた。


「今回は報道が多い。SERTの姿は出さないように」


「撤収は地下搬入口から行います」


「ただ、SATやSITの中にも、あなたたちを見た者は多いでしょうね」


「仕方ありません」


「ええ。知るべき者だけが知ればいい」


 岡野の声が少し低くなる。


「上原」


「はい」


「淡々と処理できたのは良かった。でも、相手もまた淡々と仕組んでいた。次はもっと複雑になる」


「分かっています」


「今日は休ませなさい。あなたも含めて」


「了解しました、岡野室長」


 通話が切れる。


 戸張が隣に来た。


「室長、休めって?」


「ああ」


「無理だな」


「分かってる」


「直城、今回の相手、嫌な感じだな」


 上原はモニターの文字を見ていた。


 NOISE-02。


「嫌な相手ほど、騒がない」


 戸張は頷いた。


「うちの班長みたいだな」


 上原は戸張を見た。


「褒めてるのか」


「半分」


「残り半分は」


「嫌味」


 上原は少しだけ口元を動かした。


 現場の片隅では、若い刑事がSERTの撤収を見ていた。


 SATでもない。


 SITでもない。


 だが、SATとSITが動ける形を作った部隊。


 彼は隣の上司に聞いた。


「あの部隊は、何をしたんですか」


 上司は少し考えた。


 そして、短く言った。


「現場をほどいた」


「ほどいた?」


「そうだ。絡まりすぎた糸を、切らずにほどいた」


 若い刑事は、地下搬入口へ消えていく黒い背中を見た。


 白い4文字。


 SERT。


「報告書には」


「書くな」


「でも」


 上司は若い刑事を見た。


「忘れろ。忘れられないなら、せめて口に出すな」


 黒い車両のドアが閉まる。


 外では報道陣が、警視庁の会見を待っている。


 発表されるのは、立てこもり事件の解決。


 SATとSIT、関係機関による連携。


 SERTの名は出ない。


 だが、現場にいた一部の者は知った。


 突入不能。


 交渉限界。


 それでも終わらない現場に、最後に呼ばれる影があることを。


 黒い車両は、新宿の地下搬入口から静かに出ていく。


 街はまだ明るい。


 人々は何も知らずに歩いている。


 それでいい。


 撃つ前に読む。


 突入する前に救う。


 それでも止められないなら、制圧する。


 そして、突入できない現場なら、突入できる形に変える。


 SERTは、また名前を残さず夜の街へ消えていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ