1話 特殊緊急事案対応班
22時14分。
雨に濡れた都心の雑居ビルは、赤色灯の光を受けて、濡れた鉄のように鈍く光っていた。
6階建ての古いビル。
1階には閉店後の居酒屋、2階には小さなクリニック、3階には空きテナント、4階には雑居型のシェアオフィス、5階にはイベント会社、6階には使われていない倉庫が入っている。
その4階で、男が人質を取って立てこもった。
最初の通報は、単なる傷害事件だった。
刃物を持った男が暴れている。
そう聞いて、所轄の警察官が駆けつけた。
だが、現場に到着した警察官が階段前で足を止めた時、状況は一気に変わった。
男は人質を3人取っていた。
さらに、室内に液体の入ったポリタンクと、配線のようなものが見えた。
男は電話口でこう叫んだ。
「入ってきたら全部終わらせる」
そこから、現場は特殊事件になった。
警視庁の捜査員、機動隊、爆発物処理班、救急隊、消防、周辺規制に回された制服警察官たち。
ビルの周囲はすでに封鎖されている。
報道車両は規制線の外に並び、カメラのレンズが雨の向こうからビルを狙っていた。
だが、本当に厄介なのは、犯人の怒号でも、ポリタンクでもなかった。
4階の室内にいる人質のひとりが、咳き込んでいる。
電話越しに聞こえるその咳が、現場の空気を重くしていた。
ただの立てこもりではない。
爆発物の可能性。
化学物質の可能性。
人質の体調悪化。
そして、犯人のスマートフォンから外部へ向けたライブ配信の痕跡。
複数の専門部隊が必要だった。
けれど、複数の部隊が同時に入れば、指揮系統は乱れる。
現場指揮所の中で、警視庁の幹部が短く電話を切った。
その表情が、少しだけ硬くなる。
隣にいた若い刑事が尋ねた。
「何か、追加の部隊ですか」
幹部は答えなかった。
ただ、ビルの裏手にある搬入口の方へ視線を向ける。
そこは報道カメラから死角になる位置だった。
間もなく、黒い車両が3台、雨を裂くように到着した。
サイレンは鳴らしていない。
赤色灯も、現場の手前で消していた。
車両のドアが開く。
黒の戦闘服。
防弾ベスト。
ヘルメットを抱えた隊員たち。
肩には、白い文字で“SERT”。
特殊緊急事案対応班。
だが、その名を知る警察官は、この現場にもほとんどいなかった。
規制線の内側で、若い制服警官が黒い隊員たちを見た。
機動隊とは違う。
SATとも違う。
けれど、ただの捜査員ではない。
装備も、動きも、現場に入る空気も違っていた。
若い警官は、隣に立つ警部補に小声で聞いた。
「あれ、何の部隊ですか」
警部補は一度だけ黒い車両を見た。
隊員たちは、報道カメラの死角を選ぶように搬入口へ消えていく。
警部補は、短く言った。
「忘れろ」
「え?」
「見なかったことにしろ。あれは、俺たちの報告書に書く名前じゃない」
若い警官は息を呑んだ。
その間にも、黒い部隊は音もなく現場に入っていった。
最初に降りた男は、濡れることを気にしなかった。
年齢は42歳。
背が高く、肩幅がある。
顔つきは荒くない。
だが、雨の夜でも目だけは冷えていた。
上原直城。
元SAT隊員。
現在は、SERTの班長だった。
上原は搬入口から規制線の内側に入り、現場指揮所になっているワンボックス車の前で足を止めた。
中から刑事が飛び出してくる。
「SERTですか」
声は小さかった。
まるで、その名を口にすること自体に迷いがあるようだった。
「上原です。状況は」
「犯人は男性、30代後半と見られます。人質3名。うち1名が咳をしています。爆発物らしき物と、液体入りのポリタンクがあります」
「要求は」
「報道を呼べ、です。あと、警察は信用しないと」
上原はビルを見上げた。
4階の窓にはブラインドが下ろされている。
しかし、隙間から一瞬だけ影が動いた。
「犯人の名前は」
「森谷健二。元イベント会社勤務です。5階の会社に以前所属していました。半年前に退職。トラブルがあったようです」
「人質は」
「会社の現社員2名と、清掃員1名です」
上原は雨の中で数秒だけ黙った。
その沈黙は迷いではなかった。
現場を組み立てている時間だった。
後ろから、戸張龍一が歩いてきた。
42歳。
上原と同い年。
SERTの副班長。
黒い戦闘服の上からでも、鍛えられた体つきが分かる。
戸張は上原の横に並び、ビルを見上げた。
「直城、入るか」
「まだ入らない」
「爆発物が本物なら、待つほど厄介になるぞ」
「だから待つ。雑に入ったら全部飛ぶ」
戸張は小さく息を吐いた。
「そう言うと思った」
上原は振り返らずに言った。
「龍一、突入班は待機。階段と非常口を押さえろ。無理に上げるな」
「了解」
戸張が手を上げると、黒装備の隊員たちが一斉に動いた。
その動きには無駄がなかった。
走る者、止まる者、周囲を見る者。
全員が同じ目的で動いている。
だが、その姿を報道カメラが正面から捉えることはなかった。
SERTの出入りは、常に現場の死角を選ぶ。
事件が解決しても、会見でその名が出ることはない。
発表されるのは、いつも決まっている。
警視庁と関係機関が連携して対応した。
それだけだ。
そこへ、吉田未華が現場指揮所に入った。
40歳。
元SITの交渉担当。
雨に濡れた髪を軽く払うと、すぐにヘッドセットを受け取った。
「犯人との回線は」
現場の刑事が携帯端末を差し出す。
「こちらです。今は捜査員が繋いでいます」
吉田は音声を聞いた。
男の荒い息。
遠くで女性の泣き声。
咳。
吉田の表情が少しだけ変わった。
「上原班長、犯人は追い詰められてるけど、まだ壊れてません」
「話せるか」
「話せます。でも、説得に乗るタイプじゃない。自分が被害者だと思ってる声です」
「要求は報道」
「本当に報道を呼びたいんじゃなくて、自分の話を誰かに聞かせたいんだと思います」
上原は頷いた。
「吉田、繋げ」
「はい」
吉田はヘッドセットをつけた。
雨音と赤色灯の反射の中で、彼女の声だけが静かに変わった。
「森谷さん、聞こえますか。私は吉田です。あなたと話すために来ました」
数秒の沈黙。
それから男の怒鳴り声が返ってきた。
「誰だよ、お前。警察は引っ込んでろ」
「警察です。でも、今すぐ突入するために電話しているわけではありません」
「嘘つくな」
「嘘なら、もう切っています」
戸張が横目で吉田を見る。
吉田は動かない。
声だけで、相手の呼吸に合わせていた。
「森谷さん。中にいる人が咳をしています。薬品を使いましたか」
「近づくなって言ってるんだよ」
「質問に答えてください。使ったか、使っていないか。それだけです」
「知らねえよ」
「知らない、ということは、あなたも危険かもしれない」
男の息が一瞬止まった。
吉田はそこを逃さなかった。
「あなたが倒れたら、誰もあなたの話を聞けません」
「……うるさい」
「森谷さん。窓を少し開けてください。中の空気を逃がすだけです」
「入ってくる気だろ」
「窓を開けても、私たちは入りません。あなたが人質を離さない限り、こちらは突入しない」
上原は吉田の横で静かに指示を出した。
「水瀬」
黒い防護バッグを持った女性隊員が近づく。
水瀬怜奈。
NBC、つまり化学・生物・放射性物質の初動対応を専門とする隊員だった。
「咳の原因を見たい」
「映像が必要です。空気の流れも分かりません」
「ドローンは」
「屋外からなら可能ですが、窓が閉まっています。隙間からは厳しいです」
上原は頷き、次に言った。
「梶原」
後方の車内で端末を操作していた梶原伊織が、無線越しに答える。
「はい、班長」
「4階の内部映像は取れるか」
「ビル管理会社の防犯カメラは3階までです。4階のシェアオフィスは独立回線。今、管理会社経由で入口カメラにアクセス中です。あと、犯人の配信ログを追っています」
「急げ」
「急いでます。ただし雑にはやってません」
上原はわずかに口元を動かした。
「それでいい」
その時、ビルの4階でブラインドが揺れた。
少しだけ窓が開く。
吉田が低く言う。
「森谷さん、ありがとう。今のは正しい判断です」
「うるせえ。礼なんか言うな」
「言います。中の人が少し楽になります」
水瀬が検知器を取り出した。
小型の機械だった。
銃ではない。
見えない空気を調べるための道具だ。
水瀬はビルの風下側に立ち、表示を確認する。
「揮発性の反応があります。ただ、濃度は低い。ガソリンか有機溶剤系の可能性」
「爆発は」
「火気があれば危険です。閉鎖空間ならなおさら」
上原はすぐに言った。
「全員、火気厳禁。突入時も発砲は最後だ。スタン系も使うな」
戸張が表情を引き締めた。
「発砲禁止に近いな」
「近いじゃない。そうだ」
「了解。嫌な現場だ」
「最初からいい現場なんてない」
そこへ片桐蓮司が遅れて合流した。
39歳。
爆発物処理担当。
雨の中でも、どこか軽い顔をしている。
「爆発物があるって聞いて来たけど、歓迎ムードじゃないな」
戸張が言う。
「歓迎される爆弾処理があるか」
「あるだろ。処理後の焼肉とか」
「黙って見ろ」
片桐は肩をすくめ、すぐに真顔になった。
端末に送られてきた画像を見る。
窓の隙間から撮影された、室内のわずかな映像。
床に置かれたポリタンク。
それに巻きつくように見える配線。
片桐の目が細くなった。
「これ、見せかけの可能性が高いです」
上原が聞く。
「理由は」
「配線が雑すぎる。見せるために置いてる。爆発物として作ったというより、爆弾に見えるように作った感じです。ただし、液体が本物なら、燃やすだけで十分危険です」
「つまり、爆弾じゃなくても燃える」
「はい。しかも本人がそれを理解してない可能性がある」
上原は短く息を吐いた。
犯人がプロなら読みやすい。
素人の方が怖い。
どこが危険か分からないまま、危険な物を持っているからだ。
吉田の声が続く。
「森谷さん。中にいる人の名前を教えてください」
「なんでだよ」
「人質じゃなくて、名前で呼びたいからです」
「……黙れ」
「あなたの名前を私が呼んでいるように、その人たちにも名前があります」
「黙れって言ってるだろ」
怒号の後ろで、また咳が聞こえた。
今度は長い。
吉田は上原を見た。
上原は頷いた。
「吉田、清掃員だけ出させろ」
「はい」
吉田は息を整える。
「森谷さん。咳をしている人だけ、外に出してください」
「ふざけんな。人質を減らすわけないだろ」
「違います。あなたのためです」
「俺のため?」
「その人が中で倒れたら、救急が入ります。警察も動きます。あなたの望まない形で現場が崩れます」
「……」
「あなたが決めてください。倒れる前に出す。そうすれば、あなたが現場をコントロールできます」
沈黙。
雨音だけが続く。
戸張が小声で言う。
「いけるか」
上原は答えない。
吉田も動かない。
数十秒後、4階のドアが開いた。
階段室に、年配の女性が押し出される。
咳き込みながら、手すりにしがみついている。
「真壁」
上原が呼ぶ。
真壁豪がすぐに前へ出た。
43歳。
救助、山岳、水難、災害現場を担当する男だ。
大柄な体に黒の戦闘服。
手には盾ではなく、救助用のバッグを持っている。
「行きます」
「銃口を向けるな。救助だけだ」
「分かってます」
真壁は階段に入った。
盾を持った隊員が後ろから距離を取って支援する。
犯人を刺激しない。
けれど、狙われた時には守れる位置。
真壁は階段の踊り場で女性を受け止めた。
「大丈夫です。ゆっくりでいい」
「息が……」
「もう外です。吸えます」
真壁は女性を抱えるようにして下ろした。
その間も、戸張の突入班は動かなかった。
動かないことも、現場では仕事だった。
女性が救急隊へ引き渡されると、水瀬がすぐに確認する。
「衣服に溶剤臭。意識はある。酸素投与を」
救急隊員が頷き、処置に入る。
その時、梶原から無線が入った。
「班長。4階入口カメラ、取れました」
「映せ」
車内のモニターに映像が出る。
斜め上からの粗い映像。
室内の一部。
犯人の背中。
人質2名。
床のポリタンク。
そして、テーブルの上に置かれたスマートフォン。
梶原の声が続いた。
「配信はまだ外に出ていません。ただ、予約投稿が仕込まれています。一定時間操作がなければ、動画が拡散される設定です」
「内容は」
「会社への告発動画です。ただ、証拠というより恨みです」
吉田が小さく言う。
「やっぱり、聞いてほしいだけ」
上原はモニターを見つめた。
「梶原、予約投稿を止められるか」
「やれます。ただし、止めたことが犯人に分かると逆上します」
「分からないようにやれ」
「簡単に言いますね」
「お前ならできる」
「……そういう言い方、ずるいですよ」
梶原の声が途切れる。
車内ではキーボードの音が速くなった。
その瞬間、室内映像の中で犯人が動いた。
ポリタンクを蹴る。
液体が床に広がる。
片桐が低く言った。
「まずい」
水瀬も即座に言う。
「揮発します。時間がない」
吉田が電話に向かって声を入れる。
「森谷さん、落ち着いてください。今、床に液体が広がりました。火がつけばあなたも危険です」
「全部終わればいいんだよ」
「本気ではないはずです」
「勝手に決めるな」
「本気なら、あなたは清掃員の女性を出していません」
森谷の声が止まった。
吉田は続ける。
「あなたはまだ、誰かを死なせる人間になりきれていない」
「黙れ」
「なりきれていないから、私と話している」
「黙れ!」
モニターの中で、森谷がライターのようなものを取り出した。
戸張が一歩前に出る。
「直城」
上原の目が細くなる。
突入すれば間に合うかもしれない。
だが、発砲はできない。
閃光も使えない。
火花が出る装備も避けたい。
上原は一瞬で決めた。
「龍一、突入班、非発火装備。盾先行。犯人の右手を押さえろ。吉田、話し続けろ。片桐、液体から火を遠ざける。真壁、人質搬出。水瀬、突入後すぐ換気と危険確認」
「了解」
戸張が短機関銃を下げた。
短機関銃は、狭い室内でも扱いやすい短い銃だ。
だが、今は撃つための現場ではない。
代わりに、隊員が防弾盾を前に出す。
銃で制圧する現場ではない。
押さえ込み、奪い、運び出す現場だった。
吉田が電話に向かって言う。
「森谷さん。あなたの動画、見ました」
森谷の動きが止まる。
「……見た?」
「ええ。あなたが何を訴えたいのか、少し分かりました」
「嘘だ」
「嘘ではありません。あなたは、自分がいなかったことにされたと思っている」
戸張たちが階段を上がる。
足音は小さい。
雨音の方が大きい。
吉田は続けた。
「働いて、切られて、誰にも覚えてもらえなかった」
「やめろ」
「だから、名前を残したかった」
「やめろ!」
森谷が叫んだ瞬間、戸張が扉を開けた。
盾が先に入る。
森谷が振り向く。
右手にライター。
左手にスマートフォン。
戸張は撃たなかった。
踏み込んで、盾で距離を潰す。
別の隊員が森谷の右腕に飛びつく。
ライターが床に落ちる。
片桐が叫ぶ。
「火元確保!」
真壁が人質の前に入り、体をかばう。
「下がって。こっちへ」
森谷が暴れる。
「離せ! 離せよ!」
戸張が腕をねじり、床へ押さえ込んだ。
「暴れんな。火がついたら、お前も死ぬ」
「死ねばいいだろ!」
「本気なら清掃員を出してねえだろうが!」
その声は、吉田の言葉とは違った。
乱暴で、現場の男の声だった。
それでも、森谷の動きが一瞬止まった。
その隙に拘束具がかかる。
真壁が人質2名を抱えるようにして廊下へ出す。
水瀬が検知器を持って室内に入り、窓を開ける。
「換気。全員、長く吸わないで」
片桐は床の配線を確認し、すぐに言った。
「爆発物ではありません。偽装です。ただ、燃えれば大惨事でした」
上原は最後に室内へ入った。
床に押さえられた森谷が、雨音の向こうで泣いていた。
怒りではなく、力が抜けた泣き方だった。
「俺は……悪くない」
誰もすぐには答えなかった。
吉田が遅れて室内に入り、森谷の前にしゃがむ。
「悪くなかった部分は、これから聞きます。でも、人を巻き込んだ分は消えません」
森谷は何も言わなかった。
吉田は立ち上がる。
戸張が彼女を見る。
「お前が止めたな」
「あなたが押さえたんでしょ」
「俺は腕を押さえただけだ」
「それが必要だった」
「そっちもな」
少しだけ空気が緩む。
吉田が何か言いかけた時、上原の無線が鳴った。
「班長、岡野室長からです」
上原は無線を受けた。
「上原です」
少し低く、落ち着いた女性の声が返る。
「現場、収束したそうね」
岡野佐知。
SERT室長。
元特殊部隊隊員。
上原は窓の外の雨を見た。
「人質3名、全員救出。犯人確保。爆発物は偽装。溶剤使用あり。水瀬が確認中です」
「負傷者は」
「軽症。清掃員が吸引の疑い。命に別状はないと思われます」
「そう」
ほんの短い沈黙があった。
岡野の声が少しだけ柔らかくなる。
「よく戻したわね」
「吉田と龍一が止めました」
「あなたは」
「私は見ていただけです」
「そういう言い方をする時は、だいたい一番危ない判断をしている時よ」
上原は答えなかった。
岡野は続ける。
「報道対応はこちらで処理します。SERTの名前は出しません」
「了解」
「正面には出ないで。撤収は搬入口から」
「分かっています」
「あと、上原」
「はい」
「今日は休ませなさい。あなたも含めて」
上原は少しだけ目を伏せた。
「了解しました、岡野室長」
無線が切れる。
戸張が近づいてくる。
「直城、室長に怒られたか」
「休めと言われた」
「無理だな」
「お前もだ、龍一」
「俺は吉田にコーヒーでも奢ってから休む」
少し離れた場所で、吉田が振り向いた。
「聞こえてますけど」
戸張は平然と言う。
「聞こえるように言った」
「じゃあ高いやつで」
「コンビニで勘弁しろ」
吉田が少し笑いかけた。
その瞬間、現場指揮所の中で別の無線が鳴った。
全員の表情が切り替わる。
梶原が車内から顔を出した。
「班長。さっき止めた予約投稿ですが、外部サーバーに転送ログがありました。森谷単独じゃない可能性があります」
雨はまだ降っている。
赤色灯の光が、濡れた路面を揺らしていた。
上原はビルの入口に立ち、もう一度だけ4階を見上げた。
事件は終わった。
だが、現場はまだ何かを残している。
上原は静かに言った。
「梶原、ログを追え。吉田、森谷の供述を確認。片桐、水瀬、現場資料をまとめろ。真壁、人質の搬送先を確認。龍一」
戸張が視線を向ける。
「次に備える」
戸張は軽く肩を回した。
「了解、直城」
SERTは、まだ帰れない。
その頃、規制線の外では、報道陣が現場を撮り続けていた。
警察発表では、犯人は確保。
人質は全員救出。
会見で語られるのは、警視庁と関係機関が連携して対応した、という言葉だけになる。
SERTの名は出ない。
上原たちがここにいたことも、記録の表には残らない。
しかし、完全には消えなかった。
ビルの向かい側。
報道陣のカメラが、撤収する黒い隊員の背中を一瞬だけ拾っていた。
雨に濡れた黒い戦闘服。
白く浮かぶ4文字。
SERT。
カメラマンは、その文字の意味を知らない。
若い警察官も知らない。
現場にいた多くの捜査員でさえ、知らない。
だが、その映像は数時間後、ニュース映像の端に映り込むことになる。
そして、誰かが気づく。
SATではない。
SITでもない。
では、あの黒い部隊は何なのか。
搬入口へ向かう途中、若い警官がもう一度だけSERTの背中を見た。
隣の警部補が低く言う。
「見るな」
「でも、あれは……」
「忘れろ。忘れられないなら、せめて口に出すな」
黒い車両のドアが閉まる。
雨の夜に、エンジン音が低く響いた。
交渉不能。
制圧困難。
救助不可能。
それでも、彼らは現場に入る。
撃つ前に読む。
突入する前に救う。
それでも止められないなら、制圧する。
一般には知られていない。
警察の中でさえ、限られた者しか知らない。
だが、最悪の現場の片隅に、その影は必ず現れる。
雨の夜、黒い戦闘服の背中に白く浮かぶ“SERT”の文字が、次の現場へ向けて静かに動き始めていた。




