第二話(2)
それから約十分後のこと──。
「……すげえ雨だな」
「間に合って良かったぁ……」
土砂降りのにわか雨を前に、僕らは教会の出入り口、本堂前の屋根の下に座り込んでいた。
周囲には礼拝に訪れた人と雨宿りに来た人とがちょうど半分ずついて、僕たちと同じようにつかの間の雨天を仰いでいた。今この瞬間、皆願うことは一つだろう。それは一刻も早く、この雨が止むこと。滝のように降り注ぐ雨粒の、その唸るような音とは対照的に、この聖域はしんとした静謐を保っていた。
「……スイカ、残念だったね」
小声で言及するのは、つい先ほどあった出来事。実はここに来るまでに、仁科は最後のスイカの一欠片を食い損なっていた。人々の往来が増える中で、うっかり体が衝突し合った際に串を落としてしまったのだ。路地の上を無残に散った赤い果肉は、直後に別の人の靴に踏まれてぐちゃぐちゃになってしまう。結局どうすることもできず、僕たちは雨宿りを優先したのだった。
「そういう時もある」
「でも最後の一個が一番デカかったじゃん! なんか、損した気分」
「そうか? よく分かんね」
呆れた素振りを見せる仁科だったが、僕は大事なことだと譲らない。だって、シンプルに悔しいではないか。よりにもよって最後の、それも一等大きなやつを食いっぱぐれるなんて。……もっとも、当の仁科が気にしていないなら、僕はもう何も言えないのだが。
「それにしても……ここの教会、結構大きいね」
僕の呟きに、仁科は「ああ」と軽く受け答える。曰く、国内最大級に数えられる施設のようで、重要文化財にも指定されている教会なのだとか。毎週水曜日のミサには多くの信者が賛美に訪れるらしく、キリスト教カトリックの信仰が根強いフィリピンにおいて、この教会は地域における重要な宗教的・社会的拠点を担っていた。
礼拝堂では、いま現在も多くの人々が静かに祈りを捧げているのが見える。本堂前に建てられた、磔刑に処されるイエス像の前にも聖書を読む人の姿があって、僕はこれ以上の会話を躊躇ってしまう。と、そんな中、仁科がふと「……俺の名前さ、」と話し出すのを聞けば、僕はそれに耳を傾けた。
「俺の名前、ルカって言うだろ。それ、ここの司祭に名付けてもらったんだ」
「え、そうなの?」
驚いたのは、まさか仁科と教会に関係があるとは思いもしなかったから。「ゆかりの場所なんだな」と相槌を打つ僕だったが、他方で彼は思いがけなく「どうだかな」と天を仰いでみせて。
「母親が名付けの相談をしたってだけだ。そうしたら、福音書を記した聖人の名前を提案されたんだと」
聖人ルカ。かの人物は医者で、美術を初めとする芸術の教養にも富んだ知識人だったという。普通に考えれば、司祭や仁科の母は、彼にそんな賢い人になってほしかったと捉えられる。が、彼は「そうだったら良かったんだけどな」とその可能性を暗に否定してみせた。
「ルカは福音書の著者の中で、唯一の異邦人だったんだ」
「異邦人?」
首を傾げる僕に、仁科はゆらりと視線を寄越す。飴色の瞳は僕を真っ直ぐ射貫くと、その端正な顔立ちを僕の網膜に焼きつけようとした。
「俺、ハーフなんだ。父親が日本人で、母親がフィリピン人。……お前、転入初日に言ってたよな」
──だって僕たち、同じ日本人じゃん。
「あれ、間違いだから。俺には余計なもんが交じって──」
「え、だから仁科って綺麗な顔してんの⁉」
「……あ?」
茫然とする仁科を差し置き、僕はピカーンと目を輝かせて納得する。興奮のあまり声が大きくなってしまい、周りの咎めるような視線が一気に突き刺さっては、その場で慌ててこじんまりと縮込まる。が、腑に落ちた感覚はずいぶんと爽快で、僕はふむふむと頷きながら「なるほどなぁ」と呟く。
「仁科がイケメンなのはハーフだからなんだな! そりゃあ、勝てっこないね」
「……待て。何の話だ?」
「何って、顔の造形の話だよ。言っとくけどな、仁科の顔面は同性でもドキってするレベルの綺麗さなんだぞ。顰めっ面してなければ、の話だけど」
「羨ましい!」とぎりぎり歯軋りする僕の反面、仁科はどこか不意打ちを食らったような顔を見せる。「なに固まってんだよ」と肘で軽く小突いてやれば、彼は何も言わずに手で顔を覆ってみせた。……落胆、とはまた違う。その反応は目の前のことに絶句するような、端的に言えば、僕に対して彼がよく見せるものだった。
「……お前、何なの?」
声に呆れを滲ませつつ、指の間からこちらを睨めつける仁科に、僕は「何なのってどういう意味?」と問いを返す。質問の意味がわからなかったわけではない。何かを危惧しているらしい様子の彼に、僕は言ってやりたいことがあったのだ。
「それでも、僕と仁科が仲良くなれたことには変わりはなくない?」
ハーフだからなんだ。純日本人じゃないからなんだ。僕だって、この国では異邦人だ──だから、仁科が気にすることは何もないと伝えたくて、僕はその顔を見つめ返す。すると彼はわずかに眦を裂き、両手の仮面を外してゆっくりと肩の力を抜いてみせた。「……そうだな」と、まるで自分に言い聞かせるかのように。
「僕がそういうの、気にするタチだと思うか?」
「まったく。お前馬鹿だし、ドジだし」
「やっぱり喧嘩売ってるだろ、君」
「違う。俺はただ、知っていてほしかっただけだ」
自分のことを……友達に。
仁科の言葉に、僕はぱっと笑顔を覗かせる。「友達」という表現を彼の口から聞いたのは、今日が初めてのことだったからだ。今にも頬がデロデロに溶けてしまいそうになる。いざ実際に言われると、これがかなり嬉しかった。
「お前……すごい顔してるぞ」
「え? そ、そうかな。えへへ……ウフフ……デヘへ……」
「笑い方キモ……」
ドン引きした仁科が、僕から距離を取ろうと後退る。と、その背中が何かにぶつかれば、僕と仁科はそろって顔を上げた。……そこに見えたのは、僕らと年格好の近しげな一人の少年。薄手の半袖から覗く、ベリーの枝のタトゥーが目に付いた。
「……ジョン」
仁科は彼をそう呼ぶと、直ちにその場を立ち上がる。刹那、彼のまとう空気が一気に剣呑を帯びれば、僕も少年もその迫力に気圧された。が、言葉を失う僕に対し、あくまで少年は凜々しい態度を取り戻してみせて。
「ここにいるなんて珍しいな。リーダー」
リーダー。恭しいその呼び方に、僕は少年が「パサイ・ウェストサイド」の構成員であることを察する。するとこの場は立場の上下が存在する二人がいるということになり、唯一の部外者である僕は非常にいたたまれなかった。
「吾妻、中で待っていてくれ」
「う、うん……」
険しい表情でこちらを見つめる少年にぺこぺこ会釈しつつ、僕は言われた通りに教会の中、身廊に向かう。少し歩けばたくさんの長椅子が並ぶ中央通路に出て、僕はその最後列の端の席に腰を降ろした。
(すごい……なんか、映画に出てきそうなところだな)
高い曲面天井に、精緻な細工が施された袖の窓。雄大な石造りの建物には、今にも外界をすすぎ清める雨音が響く。華やかに装飾された祭壇は、空間の雰囲気を洗練し、祈りを捧げる人々に安息をもたらしていた。……不思議と呼吸がしやすくなったような気がするのは、きっとこのせいだろう。一見冷たく、厳かな佇まいを醸す神秘の領域は、人々のための開かれた場所としてたしかに機能していた。
(話、どれくらいで終わるんだろう?)
そもそも何を話しているのかすらさっぱりだ。別に僕は、仁科のことを多く知っているわけではない。不良グループのトップであることは知っているが、そのチームが具体的に何をしているのか、そして彼がどういう存在なのかまでは把握していないのだ。顔を隠さなければジープニーやタクシーに乗れないこと、そしてジョンさんの緊張した様子を見るに、そこそこ派手なこともしているのだろうが、それも結局は憶測に過ぎない。むろん、口を出せる立場にもない。
だが、友達なら「危ないことはすんなよ」くらいは言ってもいいのではないかと思わなくもなかった。
(……まあ、お節介か)
騒がしい雨音の横で、僕はサブバッグからスマートフォンを取り出し、画面上に指を走らせる。初めは彼らの話が終わるまでの暇潰し、手慰みのつもりだった。が、ふとした拍子に写真のアプリアイコンが目に入れば、先ほど撮ったばかりの動画も思い出してしまう。きちんと撮れているかの確認がしたくなれば、僕はそれを再生することにした。
「──ねえ、最近この辺りで都市伝説が噂になってるの知ってる?」
「都市伝説?」
「そうそう。なんでも、亡くなった人を『儀式』で蘇らせるんだって」
一つ前の席でひそひそ話す女性たちの声が漏れ聞こえる。僕の目はスクリーンに向いていて、四角い枠の中には賑やかなマーケットの風景が映っていた。と、そんな中、不意に画面がぐらりと揺らぐ。
「でもね、その儀式は代償に、人を殺す必要があるみたいで」
「物騒な話ね。都市伝説らしいっちゃらしいけど……所詮は噂でしょ?」
「それがね……ほら、近頃よく若い子が事件に巻き込まれてるって話。あれが関係してるとか」
動画に不自然なノイズが走る。途端に店や商品といった被写体の輪郭が歪むと、ぼやけたように色が滲むのがわかった。オートフォーカスはろくに機能せず、さっきまで鮮明だったはずの景色が、まるで絵の具を混ぜたみたいにぐちゃぐちゃになっていく。にもかかわらず撮影は続行され、レンズはぐるりと別の方向を向く。
……画面の中に、収めたい存在を収めようとする。
「その儀式、本当に人を生き返らせることができるらしいの」
「じゃあ、実際にやった人がいるってこと?」
「うん。けどね、完璧ってわけじゃないみたい。だって生き返った人──……顔が無いらしいから」
画面に仁科が映る。青い空、赤いスイカに、長袖の白いシャツ。ブレたピースサインと……そして真っ黒に潰れた顔。それは光を吸い込むような黒だった。影ではなく、塗りつぶしでもなく、「無い」としか言いようのない黒。
「…………」
背筋が、ぞくりと冷えた──その時。背後で「うるせえ!」と叫ぶ声が聞こえれば、僕はハッとスマートフォンから視線を上げる。声のした方に向かって他の人たちがもれなく目線を遣る中、すぐさまそちらへ駆け出したのは、その声の主に心当たりがあったから。
仁科たちのいる場所へ戻る。するとそこには、ヒリヒリと緊迫した空気の中で対立する二人の姿が見えた。何かを言い争っている様子だが、その内容はあくまで断片的にしか聞こえない。
「だからいいだろ!」
「よくないに決まってる! ルカ、あんたずっとおかしいぞ」
「全部俺が決めたことだ。お前には関係ない!」
取り乱す仁科に対し、ジョンさんは心配からか、あくまで懇々と接しているのが見て取れる。いったいこの間に何があったというのか。とんと見当が付かないが、この場においてはまず、仁科を落ち着かせることが先決だった。
「仁科!」
興奮気味な背中にむかって名前を呼ぶ。すると彼はビクリとその肩を震わせ、緩慢な動作でこちらを振り向いた。僕を見るなりその顔は驚いたようで、けれど今にも泣きそうにすら見えて、そのせいか彼は俯いて表情を隠す。
「なんでだよ……」
ぽつりと呟かれた仁科の言葉は、いまだ降り止みそうにない雨脚にかき消される。熱帯の湿った暑さが肌にまとわりつく中で、妙な冷たさが僕の背中を這っていた。




