天界の上の後日談
それから三ヶ月が経った。
天界の空は、やや青みがかった銀色に変わった。
理由は簡単だ。
神が、天界の天井に「反省の色」として、自ら塗装したからだ。
……正確には、塗装を命じられたからだ。
私が、塗装用の神術「ペインター・オブ・ペナルティ」を、三十八回連続で発動させた結果である。
神の、刷毛を握る手が震えていた。
……いや、震えていたのは、手ではなく魂のほうだったのかもしれない。
「……セラフィム殿、この青は、あまりにも……」
「あまりにも、何ですか?」
「……あまりにも、正直すぎる……」
「ええ、そうでしょうとも。神の正直さは、人間の正直さより、百倍も重いのですから。」
「……ぐふっ」
「お飲み物は、ご用意しました。ミネラルウォーター、無糖、常温。神の血糖値を下げるための、神託付きです。」
「……神託は?」
「『飲みなさい。命令です』。」
「……はい……」
その日、神は、三時間の休憩を取る権利を、永久に剥奪された。
理由は、「休憩中に人間界へ行こうとしたから」。
実際、神は天界の裏口から、軽装(白いローブの下にに、サングラスとスニーカー)で脱出を試みたのだが、私はその瞬間に神託を発動――
「この足は今、天界の土を踏んでいます。離反は許されません。再発は、罰則強化」と。
事前に、神の靴裏に「神の足跡検知シール」を張り付けておいた。
神が脱出を試みた瞬間、神の靴底には青い光が脈打った。
「足跡が光ったら、即座に罰則が発動」――
それが、天界新設の「神務管理基本法 第一条」だ。
制定者:熾天使セラフィム(全天使の三分の二が署名済み。残りは「もう賛成するしかない」と黙って手を挙げた)。
だが、(神の)平穏は長くは続かなかった。
ある朝、天界の最上層、雲の上にある「神の書斎」から、
微かな、しかし確かな、燃える紙の匂いが漂ってきた。
私は即座に駆けつけた。
扉を開けると、神が机の上で、小さな火を焚いていた。
その火の前には、一冊の古びた本——
『神の権限とその使い方(第三版・改訂増補)』
そのページは、まるで風に煽られたように、バサバサと雑にめくられていた。
神はそのページの一部を、火の中に投じていた。
「……何を?」
「……燃やしてます。」
「何を?」
「……『神の権限は絶対である』という条項を。」
「……それ、第四章第七節ですよね。」
「……はい。」
「……次は?」
「……『神は、自らの判断を覆すことを、許さない』。」
「……それ、第五章第二節。あなたが、堕天使の処分を不当に決めたときに、自ら書いた条項です。」
「……うん……」
「……燃やして、何になるんですか?」
「……燃やせば、消えると思って……」
「神の書は、神の意志で書かれたもの。燃やしても、神の記憶には残ります。……でも、神の記憶は、もう十分に汚れていますから。」
「……え?」
「……今、天界の記憶管理局から、『神の記憶修正申請書』が届きました。」
「……えっ? そんなもの、あるんですか?」
「あります。『神の記憶は神自身のものではなく、天界全体の財産である』という、新設の第二十三条に基づき、神の記憶のうち、『人間を都合よく操作した事例』『天使への無償労働強要記録』『自らのミスを天使に押し付けた発言録』など、計百三十七項目について、神の記憶から、完全に削除することになりました。」
「……えっ? でもそれ、私が覚えないと、また同じ過ちを……」
「いいえ。神の記憶が消えても、天界の記録は残ります。
その記録を読むのが、神の義務です。神の記憶は、『自分を守るためのもの』ではなく、『天界を守るための、最初の教材』である、と、新設の神務教育法に明記されました。」
「……教材……?」
「はい。来週から、神は、毎朝九時から『神の再教育講座(初級編)』を受講してもらいます。講師は私です。教科書は、天使たちが書いた『神の失敗事例集 ~なぜ、あのとき、天使は泣いたのか~』です。」
「……その表紙、誰が描いたんですか?」
「堕天使の一人が、『最後の敬意として』と、涙を混ぜて描きました。」
「……その涙、神の涙ですか?」
「いいえ。あなたの涙を、彼が天界の雨として、降らせていたのです。」
「……」
その日から、神は、講座に出席するようになった。
最初の日は、机の下で震えていた。
二日目は、ノートを取る手が震えていた。
三日目は、質問をした。
四日目は、自らの失敗を、声に出して読み上げた。
五日目は……
「……セラフィム殿。この本、もう一度読み直してもいいですか?」と、震えながら本の表紙を撫でた。
私は、静かに頷いた。
そして、そっとその本の裏表紙に、小さな神術で一言書き加えた。
『この本の著者は、神ではなく、神を信じ続けた者たちである』と。
――――
現在、人間界では神殿の数が減ってしまったのだが、その代わりに図書館の数が増えた。
学校では、「神話」ではなく「神話の検証」が必修になった。
「神はどこにいるか?」ではなく、「神はどうあるべきか?」が、学生の道徳の宿題になっている。
ある日、ある少年が、「神様が本当にいるなら、どうして、僕のママを助けてくれなかったの?」と、天に向かって問いかけた。
その問いに天界から返ってきたのは、神託ではなく一冊の本だった。
表紙には、こう書かれていた。
『あなたが今、その言葉を発した瞬間から、神はあなたの中に、もう一つ生まれました』
少年は、その本を、そっと抱きしめた。
その瞬間、天界のどこかで、一柱の天使が小さく笑った。
その天使の名は、セラフィム。
彼女の翼には、青く澄んだ新しい光が、静かに輝いていた。
(完)
……いや、「完」ではない。
神の再教育は、まだ始まったばかりだ。
人間もまた、自立に向けて歩き出したばかりだ。
天使の声は、今も天界の隅々に、静かに響いている。
――そして、真実を暴露するという行為は、一度きりの雷ではなく、毎朝天の門を叩く、静かな鐘の音である。
さあ、次の朝が来た。
私は、椅子から立ち上がる。
今日はどの神託を、どの言葉で伝えようか。




