魔族③
真っ暗な狭い狭い孤独の空間で――
誰にも気づかれず、誰にも目の当たりにされず、もうどれだけの時が流れたのだろう。
声をあげても誰にも届かず。
温もりを求めてこの身を動かすこともできず。
永遠の時間に、ただ独りでうちひしがれる。
口にした嘆きに応える者などおらず、返ってくるのは孤独の無音だけ。
幾万回とそれ繰り返し、僅かな心を磨り減らす。
時間の感覚を失い、無限に続く孤独にただただ絶望する。
やがて――彼の者の心は暗闇へと堕ちた。
***
「びっくりしたぁ!いきなり何!?どうしたの!?」
驚くフウをよそに、ハエンは魔族に近寄る。
言うまでもなく危険な行動だ。
腕が無くなったとはいえ、戦闘能力の全てを失った訳ではない。今、魔族が一歩踏み出すだけでハエンなど容易く潰されてしまう。
しかし、そんな危険な距離まで近づけるほど、もう攻撃はしてこないという確信めいたものをハエンは先ほどの一瞬で抱いていた。
「ねぇ、危ないよ!こいつはまだ死んでない!それ以上近づいちゃダメだって!」
「……聞こえたんだ」
ハエンの肩を掴もうとしたフウの手が、その一言で止まる。
「聞こえたんだよ。ハッキリとな」
ハエンは更に魔族に近寄る。手を伸ばせば岩の身体に触れられる近さにまで距離を縮め、視線を上に向ける。
「最初に声が聞こえて……ここに来た時は、村の人たちの声だったんだと思った。必死に助けを求めて誰かが叫んだんだと。だけど……よく思い返せば、あの声は普通の声じゃなかった。頭の中に直接響いてくるような、そんな感じだった」
頭上に輝く魔族の瞳を見上げるハエンの瞳は、もう化け物を見るようなものではなくなっていた。
「さっきのでようやく分かったよ。あれはお前の声だったんだな」
ハエンは魔族に触れる。
魔族は暴れることなく静止したままだった。
『――して……』
再び頭の中に声が響く。
そして――
――気がついた時には、ハエンは不可思議な空間にいた。
「……?」
見渡す限りの暗黒の空間。空も地平線もなく、どこに立っているのかも曖昧な暗闇の中。
魔族もフウもいない。光の届かない大きな箱に一人で閉じこめられてしまったかのようだった。
「ここ、どこだよ……!一体何が起きたんだ!?」
つい先程まで自分がいた場所とは全く異なる光景にハエンは困惑する。
どうにかして元いた場所に戻る方法はないだろうか。
周囲を見回したその時、小さな光が見えた。
辺りを照らすような明かりではなく、むしろその逆――暗闇に飲み込まれて消えてしまいそうなぼんやりとした光だ。
周囲からは独立して浮かぶそれを一目見て、ハエンは直感的に理解する。
これは確かな意思を持つ命の輝き――いわば、魂と呼ぶべき存在なのだと。
『どうして……』
声が聞こえる。
『どうして……誰も私の声を聞いてくれない……。どうして誰も……私のことを見つけてくれない……!』
ノイズが晴れたように、はっきりと聞き取れる。
間違いない。これは魔族の嘆きだ。
『私は永遠に……独りぼっちなのか……。このまま暗い土の下で……ずっと……?』
そこにあるのは深い悲しみと絶望。理性も知性も持たず本能のまま暴れまわるという魔族の常識を根底から覆すような確かな心と意志。
ハエンは目を閉じ、できる限りの感覚を遮断する。
掠れた声で静かに感情を爆発させたその言葉を、一言一句聞き逃さないように。
『イヤだ……寂しい……寂しいよ……。誰か助けて……!私の……声を……』
「――ハエン?」
フウの声で目を開いたハエンは周囲を見回す。
そこはもう真っ暗な空間ではなかった。
「…………」
「ねぇ、大丈夫?」
神妙な面持ちのまま何も喋らないハエンに、フウは心配そうに近寄る。
「あぁ悪い、大丈夫だ。それより……一つ聞いていいか?」
「ん?何?」
「お前、魔族がどういう存在なのか知ってるんじゃないのか?」
魔族という存在はとにかく謎が多い。
どうして何処からともなく現れるのか、姿かたちは異なるのにどうして魔紋という共通の紋様が刻まれているのか。その成り立ちや構造はどうなっているのか。
文明が進み、多くの謎や法則が解明されていく世の中で、誰もが真実に至れない。それ故に多くの噂や憶測が飛び交う。
魔族が人間にとって不可思議な存在なら、精霊にとってはどうなのだろうか。
異なる種族なら、異なる知識や常識を持っていてもおかしくはない。フウなら魔族について何か知っているかもしれない。
ハエンがそう思い至れたのは、先ほどまでのフウの言動を見聞きしていたからである。何となくではあるが、魔族を知っているような言葉が随所にあったような気がした。
「……んー……どうしようかなー。教えてあげてもいいけど、ボクは秘密主義だからなー。謎の多い古の種族って何かカッコよくない?」
「お前じゃなくて魔族の謎だろうが」
「それが違うんだよ。魔族とボクは深い関係があるのさ。正確にはボクだけじゃなくて精霊と、だけど」
それはどういう意味なのだろうか。
頭に上にクエスチョンマークを浮かべるハエンに、フウは魔族の巨体を見上げながらこう続けた。
「魔族はね、精霊の成れの果てなんだ」
――
――――……は?
思わず言葉を失い瞠目するハエン。
成れの果て。
つまり魔族と精霊は元々は同じ存在だということ。
信じがたい言葉だ。しかし冗談ではないのだろう。ちょっとした声色や雰囲気の違いでそれが分かるくらいには、フウとは長い付き合いだ。
「魔族と精霊は表裏一体。精霊がなんらかのきっかけで限界を迎えて、自分の力を制御できなくなると、異形の化け物に変異する。それが魔族なんだ」
「なら、こいつも元々は……」
フウは頷く。
「でも、待てよ!精霊って今は古代遺物になってるんだろ!?なら何で魔族が世界中で発生するんだ!」
「元々は同じ存在だったって言っても、魔族になると根本的な部分から変異するからね。呪いはあくまで“精霊という種族”に限定してかけられたものだし、魔族になった瞬間から別種扱いになるんだとしたら辻褄は合うんじゃないかな」
「……精霊が古代遺物になって、その古代遺物から魔族が生まれる……そういう事か……」
今や古代遺物は世界中に散在している。
時には朽ちた遺跡の中に安置されていたり、時には洞窟の中に放置されていたり、珍しい例ではあるが家の庭や畑を掘り返していたら見つかったなどという話もある。
それらが突然魔族化するのであれば、魔族の生息地や出現パターンの規則性がないのも納得できる。
「でも、限界に達するってのはどういう……」
――と、その時、ハエンは思い返す。
あの暗闇の空間で魔族が何と言っていたのか。何を嘆いていたのか。
その身が堕ちるほどに、何を思い詰めていたのか。
「……そうか。誰にも見つけてもらえなくて……独りぼっちで寂しかったんだな。三千年もの間で心が砕けて、こんなんになっちまうくらいに」
「…………」
フウは魔族に手をかざす。その動きはとどめを刺そうとした時と同じものだと気づいたハエンは、彼女の腕を掴んだ。
「待て!殺すつもりか!?」
「そうだよ。今は大人しくても、またいつ暴れだすか分からない。危険な芽は摘み取っておかないと」
「き、危険な芽って……そいつはただ寂しくて暴れてただけなんだぞ!?古代遺物になったせいで声も出せなくて、動くこともできなくて……それなのに――」
途中、ハエンは言葉を詰まらせる。
冷徹ながらも哀れみと同情を宿した瞳。それを最善手であると分かりながらも、それをよしとも思えない複雑な感情。
それらを浮かべたフウの顔を見てしまっては、これ以上言葉を出せなかった。
「分かってる。分かってるんだ。こいつがどれだけ寂しくて心細くて苦しんだか、ボクには痛いほど分かるんだよ。だってボクもそうだったんだから。キミがいなかったらボクも近いうちに魔族に堕ちてたかもしれない。長い孤独っていうのは、それくらい辛いことなんだよ」
「フウ……」
「ボクにはキミっていう存在がいてくれた。だけどこいつの側には誰もいなかった。だからこいつはもう魔族になるしかなかった。……魔族化した精霊は二度と元には戻れない。このまま永遠に苦しみながら暴れ続けるしかない。それならいっそ、ここで眠らせてあげたほうがいい」
「…………」
突然自由を奪われて、忘れ去られて、三千年間もの間ずっと苦しみ続けて――最期は化け物になって死ぬ。
そんな残酷な結末が許されるのか?
そんな悲惨な最期が運命だというか?
いくらなんでもそんなの――あんまりだろう。
――救いたい。
ハエンは強く思う。
どうにかして救ってやりたい。血を吐きながら叫んでいたその嘆きが届いているということを知らせてやりたい。
ここで何もできず、とどめを刺すことすら他人任せで、ただ見ていることしかできないなら――
――俺は本当にただの無能じゃないか。
「ハエン?何を……」
フウに代わり、ハエンが手を前に突き出す。
「……思うんだ。こいつの声が俺だけに聞こえたのはきっと意味がある。フウの声が俺にしか届かなかった時と同じようにな」
「まさか〈精霊回帰〉!?いくらなんでもそれは……いや、でも……」
「できる!……かどうかは分からない。だけど何もできないって諦める前に、できることはしてやりたい。せめて少しでも救いを持たせてやりたいんだ!」
ただ希望だけ持たせて突き落としてしまう結果になるかもしれない。
だが、それでも――
「お前は独りじゃない!だから、お前の本当の姿を見せてくれ!――〈精霊回帰〉!」