第五百七十八話 心の内
セルロイトの熱は、翌日には下がっていた。彼女はゆっくりと体を起こし、大きく息を吐き出す。相変わらずけだるさは残っているが、動けないことはない。そんなことを考えながらベッドから降りる。
……まるで、宙に浮いているかのような感覚を覚えた。フワフワと、体が軽い。
きっと、熱のせいだ。そう言えば、一昨日からほとんど食事を摂っていない。そのために、体重が減ったのだろう。そんなことを考えながら、一歩一歩、ゆっくりと歩みを進める。
「大丈夫?」
部屋の扉を開けると、母がいた。テーブルの上には、フルーツを中心とした食事が用意されていた。母はまるで、自分が起きてここに来るのをあらかじめ知っていたのだろうか。思わずそう考えてしまう程、母は万端に準備を整えていた。
椅子に座り、用意された食事を口に運ぶ。甘い果実たちがとても美味しく感じる。みずみずしい果汁が体の中を駆け巡るような感覚を覚える。
「ごちそう、さま」
久しぶりに美味しいと感じた食事だった。無言のまま皿を下げ、背中を向けている母に心から感謝を込める。
「湯浴みをしていらっしゃい」
背中を向けたまま、チラリとセルロイトに視線を向けた母は、そう言って再び背中を向けた。
命じられるままに、浴室に向かう。彼女にあてがわれた部屋には、キッチンはもちろん、風呂とトイレ、そしてバスルームが完備していた。当然そこは、一介の留学生が使用を許される部屋ではなく、本来は大学の教授たちのために建設された建物の一室だった。そこには、フォーアル大公国の公爵令嬢にして、大公の姪という身分が影響していることは明らかだった。そうしたことを十分に承知しているセルロイトは、学長であるメイリアスやアガルタ王リノスに感謝しつつ、何としてもその優しさに報いたいという思いを強くしていた。
セルロイトは浴室に入ると、ゆっくりと服を脱ぎ、一糸まとわぬ裸になった。彼女の目の前には大きな浴槽が設えられてあり、そこには少し熱めの湯が湛えられていた。これも母が準備してくれたのだ……。そう考えると、セルロイトの胸は熱くなった。
軽く湯浴みをしてから、彼女は浴槽に体を漬けた。温かい湯が全身を包む。何とも言えない心地よさだ。目を閉じて、ぼんやりとその感覚に浸る。セルロイトの頭脳がゆっくりと動き出す。
フォーアル大公国から持ち帰った友好の花には、種々の毒物を注入してみた。当然、枯れた花もあるが、それらはきっと復活することだろう。あの花の根を、文字通り根絶やしにしなければ、あの花は枯れることがない。LV5の火魔法というのは、土中にある根を完全に焼き切るのに、もっとも効率が良いからだ。
どうにかして、あの花の根を消滅させる方法はないものだろうか。
そこまで考えたところで、彼女は思考を停止させる。何となくだが、友好の花が繁殖し続ける原因を掴むことができた。あとはそれをどう解決させるかだ……。セルロイトの心が、少しワクワクしてきていた。彼女は、実家での家庭菜園の経験を通して、問題の原因を突き止め、それを解決させることの面白さを知っていた。それが、このアガルタという国で、故国を救うことにもつながる仕事になるかもしれないのだ。セルロイトは、生まれて初めて、自分がこの世に生を受けた意味を見出そうとしていた。
「よしっ」
誰に言うともなく呟いた彼女は立ち上がり、あらかじめ用意されていたタオルを手に取り、体を丹念に拭いていく。ふとそのとき、鏡に映る自分の姿が目に入った。
相変わらず、貧相な体をしていると思う。ガリガリに痩せこけた体……。胸にはあばら骨が浮き出している。女性らしい乳房もほとんどない。体だけを見れば、痩せた男性と見まごう者もいるだろう。ただ、股間に生えた濃い陰毛に男性としてあるべきものがないために、女性の体をなしているに過ぎない。
これまでは、自分の体が嫌で仕方がなかった。その体を唯一褒めてくれたのは、マタカだった。この世でただ一人、自分を愛してくれる存在だと思い込んでいた彼だが、もう二度と会うことはないだろう。その事実を認識した当初は、もう誰も自分を愛してはくれないのだと悲嘆にくれたが、今はもう、それはどうでもいいことだった。彼女は新しい目標を見つけていた。何としても、クリミアーナからの干渉を退けるのだ。あの花を、根絶するのだ。セルロイトの心に、炎が灯り始めていた。
その彼女の変化は、母親も敏感に感じていた。これまでは風呂に入ると、必ず娘は涙を流していた。必死で声を殺して泣いていたが、時おり漏れる嗚咽は、隠しても隠しきれなかった。その鳴き声が、ここアガルタに来てからは聞かれなくなった。母はすでに娘の心が回復したことを知っていた。そして、フォーアル大公国にいた頃とは、別人のように成長したことを感じていた。
これまで引っ込み思案だった娘が、自分の力で人生を歩もうとしているのが、母は嬉しかった。顔には出さずとも、愛する娘の未来を、全力で応援しようと心に決めていた。きっと娘は、浴室から出てくると、今日は大学に向かうというだろう。何も言わずに、いかせてやるつもりだ。ただ、体力は完全に回復しているとは思えない。せめて、甘みのあるものを持たせて、体力が低下しないようにしてやらねば。母親は、傍にある果物用のナイフを手に取った。
◆ ◆ ◆
同じ頃、帝都の屋敷では、メイとシディーが眉間に皺を寄せながら向かい合っていた。
「やっぱり、ダメですか……」
「うん。全部を確認したわけじゃないけれど、直感的に、上手くいかないって感じるの。ただ、あくまで私の直感的なものだから、最終的には目で見て確認しなければならないけれど」
「いえ、シディーちゃんがそう言うのであれば、おそらく実験は失敗です」
「うう~ん。土を調べてみたんだけれど、火山灰の入った土に関しては、かなり深いところまで根が伸びているわ。焼き切るにしろ、溶かすにしろ、相当深いところまでやらないと根絶は難しいわね」
「そう、ですか……」
メイの視線が珍しく左斜め下を向いている。これは、彼女が打開策を考えつかないときに見せる仕草だ。いつもは即断で決断してく彼女にとって、この姿を見せるのは、数年ぶりのことだった。きっと、いくつかの方策は頭の中にあるのだろう。だが、それが果たして成功するかどうかの確証がないのだ。いや、おそらく失敗するだろうと考えているのだ。そんなものを果たして実行するべきかどうかを迷っているのだ。しかし一方でこれは、フォーアル大公国、ひいては世界の危機を表していた。この問題が解決できなければ、世界はクリミアーナ教国の膝下に置かれる可能性が大きく高まるのだ。
だが、シディーは意外にも不安を感じてはいなかった。最初から直感的に感じていた、この問題は解決に導かれるだろうという気配は全く変わっていなかったからだ。むしろ、解決までの距離は近い。あと一つ、何らかの事柄がわかれば、この問題は解決するだろうとさえ思っていた。ただ、その足りないもう一つの事柄が何であるのか……。シディーの心の中は、何とも言えぬもどかしさで満たされていた。
「そういえば、セルロイトさんの様子は……」
メイから不意に質問が飛んできた。聡明なこの人をして、まだ判断がつきかねているのだ。そこで、一旦話題を変えて、もう一度この問題を考えようとしているのだ。シディーにはメイの心の動きが、手に取るようにわかった。
「昨日は結構な熱が出ていたけれど、今日は出てくるんじゃないかな」
「そうですか。それでは、セルロイトさんのご意見も聞いたうえで、今後の対策を立てましょうか」
メイのその言葉に、シディーはゆっくりと頷いた。
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