第五百六十七話 悪夢再び
ヴィエイユは、ゆっくりと目を覚ました。喉がカラカラに乾いていて、なぜか、目を開くことができなかった。
「み……水……」
闇の中で、言葉を絞り出すのがやっとだった。口の中も乾ききってしまっている。上手くしゃべることができない。それどころか、口を閉じることすらできない。どうやら、顎が外れているようだ。
一体なぜ……? 眠っている間に顎が外れるなど聞いたことがない。だが、口を開けたまま一晩を過ごしたというのであれば、この喉の渇きは納得がいく。
……医師の、サムターン博士を呼ばねば。
そこまで考えたとき、ヴィエイユは体が全く動かないことに気付いた。まるで金縛りにあったように腕や脚がピクリとも動かない。辛うじて、首だけが少し動くだけだ。
ヴィエイユは現状を確認しようと、必死で目を開けようと試みる。しかし、彼女の両目は、まるで糊で張り付けられているかのように固まっていて、ピクリとも動かなかった。それでも彼女は、辛うじて動く首をゆっくり左右に振りながら、両目を開けようともがく。
その甲斐あってか、やっと左目が徐々に開いてきた。その目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。
何と、ヴィエイユが精魂込めて建設した都市、アフロディーテのあちこちから、火の手が上がっていた。それは徐々に燃え広がっているようにも見え、炎は少しずつこの教皇神殿へ向かってきているようにも見える。
……一体なぜ?
彼女は、はあはあと呼吸を乱しながら、ゆっくりと周囲を伺う。沖合を軍船と思われる船がびっしりと埋めていた。まさか、どこかの国がこのアフロディーテに攻め込んできたのか。いや、それはあり得ない話だ。このアフロディーテの防衛体制は完璧だ。そう考えたとき、ヴィエイユはハッと気が付く。そうだ。ラッカー率いるサブクリナー王国が、コントロールできない状態になったのだ。それで、仕方なくフォーアル大公国を隷属させようとしたのだ。あの国はどうなったのだろうか。確か、使者を向かわせたはずだが……。
そこまで考えたとき、ヴィエイユは自身の体が宙に浮いていることに気が付いた。これはどうしたことだと、さらに周囲を伺うと、何と、十字架のようなものに両手・両足を打ち付けられて、教皇神殿の壁に吊るされていることに気が付いた。よく見ると、彼女の近くには主だった家来たちが、同じように十字架にかけられて吊るされている。皆、まるで人形のように動かない。
ふと気が付くと、己の服がビリビリに破けていることに気が付いた。下着は剥ぎ取られて、形の良い乳房や、下半身が丸見えの状態だ。それに、太ももから足首にかけて、なぜか血のようなものが付いている。一体、何があったのか……。
体に痛みらしきものは感じない。というよりむしろ、体の感覚が全くない。どうやらマヒしてしまっているようだ。
「フッフフフ。ハッハッハッハッハ……」
老人の高らかな笑い声が響き渡る。一体誰の声だろう。ヴィエイユには、その声に懐かしさを感じる。声の出どころを探すと、彼女の足元に、黒い鎧を装備した兵士たちがこちらを見上げているのに気付いた。そして、その中心に、白い服を着た二人の男性の姿を見つけた。
でっぷりと肥った体。禿げあがった頭。そして、髭……。それは、ヴィエイユの祖父、ジュヴァンセル・セインだった。
「お……おじい、さま……」
必死で声を絞り出すが、彼にその声は届いていないらしい。祖父はヴィエイユを見上げながら、満足そうに頷いている。ふと、その隣に控えている、もう一人の、白い服を着た男が目に入った。
「カ……カッセル!?」
何故、カッセルがここに居るのか。彼は自らの手で討ち取ったはずだ。それに、おじい様もだ。二人とも確かに、自分がこの手で命を奪ったのだ。どうして……? ヴィエイユの頭は混乱する。
「姉さま。いい姿ですね。それに、そんな哀れな姿になっても、やはり姉さまは美しい。こんなことなら、もっともっと楽しめばよかった……」
カッセルの言葉を聞きながら、ヴィエイユは徐々に記憶を取り戻していく。そうだ。執務室で報告書に目を通していたとき、突然兵士たちに乱入されたのだ。その兵士を率いていたのがカッセルだったのだ。カッセルはニヤニヤと下卑た笑みを浮かべながらヴィエイユの髪の毛を掴んだかと思うと、いきなり彼女をその場に引き倒したのだ。そして、有無を言わせずに衣服を剥ぎ取り、彼自身も裸になったのだ。
それから先は、断片的な記憶しかないが、ヴィエイユは確かに、カッセル以下、そこにいた兵士たち全員の慰みものになった。そして、兵士たちに蹂躙され続けるヴィエイユの姿を、カッセルは満面の笑みで眺め続けていたのだった。
「姉さま」
カッセルの声で、我に返る。相変わらず彼はニヤニヤといやらしい笑みを浮かべている。
「さあ、これからが本当のお楽しみの時間です。もう、放しませんよ、姉さま」
イヤだ。誰があなたなどと。私は、まだまだやらねばならぬことがあるのです。まだまだ。まだまだ……。
その瞬間、体が軽くなり、景色が変わった。全身が汗に濡れていた。いつもの、寝室だ。夢だったのか……。
ヴィエイユはゆっくりと、注意深く両手を握って、体が動くことを確認する。足も動かしてみる。ちゃんと、自由に動かすことができる。
彼女は息を整えながら、自分の体に異常がないか、ペタペタと体中を触っていく。
「お目覚めでございますか?」
突然の女性の声に、ヴィエイユは思わず体を震わせる。ふと見ると、そこには侍女であるサリエラの姿があった。
「水を……」
言葉が言い終わらないうちにサリエラは動いて、水を差しだす。ヴィエイユは起き上がってそれを受け取り、グイッと一気に飲み干した。
「ふぅ……」
サリエラの手がスッと伸びてくる。ヴィエイユは彼女に持っていたコップを渡す。すぐに、再び水を湛えたコップが差し出される。それをゆっくりと飲み干す。
「ありがとう」
「はい……」
サリエラは恭しくコップを受け取ると、次の指示を待つように、その場に控えた。だがヴィエイユはその彼女にチラリと視線を向けただけで、いつものようにベッドから降りたかと思うと、窓に向かって歩き出し、そして、勢いよく開ける。
朝日がまぶしい。手で光を遮るようにして、眼下に広がる教都の姿を眺める。いつものように、整然と配置された美しい街並みが広がっている。
ヴィエイユは大きく深呼吸をする。風の流れに乗ってきた潮の香りが、何とも清々しい。
「湯浴みをします」
「はい。準備はできております」
サリエラの声に頷くと、ヴィエイユは足早にバスルームに向かう。すぐさま服を脱ぎ、一糸まとわぬ姿になる。
自分の体を鏡に映して、隅から隅までを確認する。汚れや穢れは見当たらない。いつもの自分の体だ。ヴィエイユはゆっくりと頷くと、手に持っていたタオルで、自分の体を擦り始めた。まるで、何か汚れたものを落とすかのように、いつも以上に丹念に、その体を清め始めた。
それが終わると彼女は、朝食も摂らずに、執務室に向かった。朝のあいさつに訪れた秘書のオーレリーや枢機卿たちを制して、彼女は少し強めの口調で命じる。
「ロン・エスロテル卿を呼んでください。すぐにです」
「はっ、ははっ」
いつもとは違う教皇の様子に、皆、戸惑いながら部屋を後にしていく。誰も居なくなった部屋で一人、ヴィエイユは小さな声で呟く。
「何か……イヤな予感がする。私は……負けられない。おじい様やカッセルのように、負けるわけには、いかない……」
ヴィエイユの眼差しに、鋭さが増していった……。




