第五百五十話 木こり 実ハ……
……さま。……たさま。……お館様。
ボンイサオ男爵は顔を歪めながら目を覚ました。部屋は暗い。まだ、夜が明けていないようだ。
こんな時間に何事だと思いながら体を起こす。ふと、寝室の扉から小さな音が鳴っていることに気づいた。おそらく、執事のルルエンが遠慮しながらノックしているのだろう。
彼はベッドから出ようとする。そのとき、ギリギリと歯ぎしりをする音が聞こえる。相変わらず行儀の悪い女だと舌打ちをしながら、思わずベッドに視線を向ける。薄暗い中、仰向けに寝ている女性が目に入った。前夜に戯れに屋敷に呼んだ女性だった。
以前ならば、もっと若い女を侍らせることができたのだ。一つ命令を下せば、領地内から選りすぐりの生娘が送られてきたのだ。それが今は、こんな商売女しか呼ぶことが許されない。それもこれも、あの、奴隷上がりの国王のせいだ。
ボンイサオは忌々しそうに舌打ちをしながら、扉を開ける。そこには、さも困ったような表情を浮かべたルルエンが立っていた。
「何だ、こんな夜更けに」
「クリミアーナの……フリーマン支部長から緊急連絡が参りました」
「フリーマン支部長!?」
思わず大声を出してしまった自分に驚きながら、男爵は素早く寝室を出て、ダイニングに向かう。広い屋敷だが、使用人らしき者の姿は見えない。ジュカ王国時代は、行儀見習いという名目で、領地から美しい娘をメイドとして雇っていたが、ジュカが滅びて以来は貧苦を極めていた。そのため、今では古くから仕えている年寄りの女中が二人と、執事のルルエンのみとなっていた。
領地から多くの者が逃げ出してしまったため、年貢が取れないと同時に、この男爵のプライドの高さから、新しく即位した奴隷上がりの国王、リノスに頭を下げることができず、国からの支援も受けられない状況下で、ボンイサオ男爵家は急速に没落していった。日々の糧にまで事欠く有様にまで追い詰められたそのとき、救いの手を差し伸べたのがクリミアーナ教国だった。
旅人に扮した男が現れたのは、数年前のことだった。男は男爵に多くは求めないことを告げ、教国からの要請に応えさえしてくれれば、最低限の資金を提供すると持ち掛けたのだ。男爵は、多くは求めないというその言葉を信じて、彼は協力を約束したのだった。
男の言葉通り、クリミアーナ教国側からは無理難題を押し付けられることは全くなかった。聞かれるとすれば、アガルタの作物の生育状況であるとか、世界で流行っている病の罹患状況といった、情報の質としては外部に漏らして何の問題もない事柄のみだった。
とはいえ、折に触れて、フリーマンと名乗る教国の支部長から届けられる書簡には、冷や汗をかくことが多かった。男爵の行動がつぶさに調べられており、それに対して遠回しの注意が添えられ、改善されなければ、支援の打ち切りと国王リノスに報告する旨のやんわりとした脅迫も添えられているのだった。
教国の情報収集能力の高さに驚愕した男爵は、しぶしぶその行動を改めていった。教国からの支援が打ち切られれば、彼は破滅する。従わざるを得なかった。
そんな教国から緊急連絡が来たという。そういうものがあるというのは聞いてはいたが、まさか自分の許に送られてくるというのは、全く想定外だった。男爵は心に湧き上がる不安を押し殺しながら、ルルエンが差し出した紙を受け取る。
そこには、この手紙を受け取ったらば、男爵の屋敷からおよそ十分の距離にある木こりのエデボに渡すように書かれてあった。そして、その後はエデボの指示に従うようにと書かれてあった。
「エデボ……? あの偏屈なエデボか?」
男爵が驚くのも無理はない。エデボは偏屈な男で、領内では有名だった。細身の体でありながら、切り出した大木を一人で小屋まで引きずっていく。話しかけても、必要最低限の返答しかせず、周辺の住民とほとんど交流を持たない男だった。領主である男爵にも、対応を変えることはなく、それどころか、彼の度重なる増税命令も無視するほどの男だった。
確かにこの男は、ジュカが滅びた直後に住み着いた男だった。てっきり、他の土地から逃れてきたのだろうと考えていたのだが、この文面を見る限り、彼はクリミアーナ教国とつながりを持っているのは間違いなさそうだった。男爵は、目の前に控えているルルエンに視線を向ける。
「緊急連絡でございますから、一刻を争うことかと思います。お館様、すぐにエデボの許に行かれた方がよろしいかと」
男爵は手元の書簡とルルエンを交互に眺めていたが、やがて、面倒くさそうな表情を浮かべながら、服を着替えるとルルエンに命じた。
馬を飛ばしてエデボの許に向かう。外はまだ、真っ暗だ。こんな時間にあの男は起きているのだろうかと思いながら馬を駆っていると、遠くの方に明かりが見えてきた。まさかとは思ったが、そこはまさしく、エデボの小屋だった。
「領主のボンイサオだ。入るぞ!」
男爵はそう言って乱暴に扉を開ける。中には、エデボがベッドの上で体を起こしていた。男爵はエデボの鼻先に、クリミアーナから届いた書簡を突き出す。男は一切表情を変えずにそれを受け取ると、中を検め始めた。
「一体何なのだ。お前も、クリミアーナの者だったのか? まったく……どいつもこいつも儂をコケにしおって……」
「黙れ」
低く、ドスの効いた声だった。驚いてエデボに視線を向けると、彼はゆっくりとベッドから降り、天井から吊り下げているランプの許に、書簡を近づけた。
男爵には、彼の行動が全く理解できなかった。その一方で、彼のただならぬ雰囲気は、男爵をして声をかけさせるのを躊躇わせた。
「よく来た。誉めてやろう」
不意にエデボが口を開いた。目だけをギョロリと男爵に向けている。その不気味さに、男爵の体は震えた。
「フリーマン支部長の緊急連絡を受けて来たのだな? しかし何故だ。私に直接送ればよいものを。……なるほどな。だから、お前を寄こしたのか。さすがはフリーマン支部長だ」
そう言ってエデボはニヤリと笑みを漏らす。
「よく来たな。お陰でお前は命拾いをした。あと五分遅かったら、お前の命はなかった」
「エッ……エデボ……」
「今、目の前にいるのは、新・クリミアーナ教国ヴィエイユ教皇聖下の親衛隊副隊長、ジゴロ・ジレットだ。今からお前は私の指揮下に入った。私の命令は教皇聖下の命令と思うことだ。命令に背けば、殺す」
男の全身から発せられる殺気が尋常ではなかった。その迫力に男爵は思わず頷いた。
「私がここに戻るまで、ここを動くな。心配するな。夜明けまでには帰ってくる。私が帰ってきたとき、お前の姿が見えなければ、殺す。簡単なことだ、わかったな?」
ジレットの言葉に、男爵はコクコクと頷く。ジレットは、手に持っていた書簡をランプの中に差し込んだ。すぐにそこには火がついて、書簡は勢いよく燃え出した。彼は燃えている紙を無造作に床に放り投げた。そして、片膝をついて座ったかと思うと、床の板を剥がし、中から細い剣を取り出した。まるで、儀式で使う装飾用の剣のような、金細工が施された鞘だ。それを腰に差すと、彼は無言のまま小屋を出ていった。
突然、外から馬の嘶く声が聞こえた。そして、蹄の音が聞こえる。どうやら、ジレットは男爵が乗ってきた馬に跨り、どこかに出かけたようだ。
まるで狐につままれたように男爵は呆然とその場に立ち尽くす。ガランとした、必要最低限のものしか用意されていない部屋……。こんな粗末な小屋で、数年にわたりあの男はここに住んでいたのだ。彼はここでこの領内のことをつぶさに調べて、クリミアーナに報告していたのだ。その精神力は、尋常ではない。
男爵の顔が徐々に青ざめていく。彼はなす術もなく、そこに立ち尽くすしかなかったのだった……。




