第五百四十八話 必死の対策
マタカは、懐に手を伸ばすと、一枚の紙とペンを取り出し、そこに何やら書き始めた。まるで、殴り書きをするように乱暴な書きぶりだ。彼は一旦ペンを止めると、手許をじっと見つめる。
「よし、これでいい。あとはこの狼煙が見えてくれればいいのだが……」
煙を睨みながら、目の前に広がる大海原に目を凝らす。しばらくすると、ポツポツと雨が降ってきた。マタカは手に持っている紙を、大事そうに懐に仕舞う。
「何をしているのです!」
背後で男の声が聞こえた。振り返ってみると、同じクリミア―ナの服を着た男が、こちらに向かって走ってきていた。同じ枢機卿である、ツガキだった。
「マタカ……あなたは何ということを……。この狼煙は、緊急信号ではありませんか!」
「ツガキ枢機卿。私の独断で狼煙を上げましたことをお許しください。まさに、我々の命にかかわることが起こったのです」
「何ですって?」
「あのセルロイトが、事もあろうにアガルタに……」
「アガルタ……まさか……」
「そのまさかです。大公はおそらく、セルロイトを通じてこの国の窮状をアガルタ王に訴えて支援を得ると同時に、我々の排除も要請するでしょう」
「マタカ、あなたはどうしてもっとセルロイトを監視しておかなかったのですか!」
「そのお叱りを受けるのは、後にしたく思います。今、我々がやるべきことはひとつ。セルロイトをアガルタ王に会わせないことです」
「……」
ツガキ枢機卿は唇を噛んだ。マタカの言う通りだったからだ。彼は無言で水平線の彼方に視線を向ける。
どのくらいの時間が経っただろうか。二人の男は海を睨みつけたまま微動だにしないでいた。服はすでにビショビショになり、固く握りしめた両手の拳からは、ポタポタと滴が垂れていた。
「……来た!」
周囲は薄暗くなりかけている。水平線の彼方からは何も見えない。だが、マタカはじっと目を凝らしたまま、前につんのめるようにして歩を進める。
「私には何も見えないが……」
ツガキ枢機卿は海に向かって呟く。そのとき、何か、声が聞こえたような気がした。
「キェアッ! キェアッ!」
突然、カン高い声が空に響き渡った。気が付くと、体長二メートルはあろうかという巨大な首長鳥が空を飛んでいた。鳥は翼をはためかせながら二人の間に降りてきた。マタカは懐から小さな袋を取り出し、それを鳥の鼻先に差し出す。すると、鳥は首を地面に付けるようにして寝そべった。
マタカは鳥の足元に近づいて、何やら探し物をしている。
「よしっ!」
彼は体を起こすと、懐から先ほど書いた紙を取り出し、それを鳥の足元に近づけた。そこには、小さな瓶のようなものが括りつけられていた。マタカはその中に紙をねじ込んだ。
「さあ、急いでくれ! 事は一刻を争う!」
マタカは手を大きく振り上げる。それが合図であったかのように、首長鳥は大きな声で嘶いたと思うと、翼を大きくはためかせて空に舞い上がった。
「急げ! 急ぐのだ!」
マタカの声が、低く垂れこめた黒い雲に吸い込まれていった。
彼らの前に現れた鳥は、ナウェイと呼ばれる首長鳥で、その大きな体躯に似合わず飛行速度がかなり速い鳥だった。鳥類の中で天敵と呼べるものはほとんどいないため、クリミアーナ教国では、この鳥を緊急時の連絡手段として活用していた。この鳥は、各支部の本部で飼育されており、いつでも活用できるように準備されていたのだった。
フォーアル大公国を飛び立った首長鳥は、荒天をものともせず、自慢の翼で大空を疾駆した。そして、そこから飛び立つこと約二時間で、クリミアーナ教国南グレダフル支部の本部に到着した。
「おお! 帰ってきたぞ!」
クリミアーナの宗教服を纏った男たちが、建物の中から飛び出してくる。彼らは慣れた手つきで鳥を大人しくさせ、足元の紙を取り出した。そこには、こんな文言が書かれていた。
『フォーアル大公国のセルロイト女史が、アガルタの都に向かった。至急、この女を消されたし。主神様を冒とくし、教皇聖下を冒とくし、クリミアーナ教国を滅亡に導こうとする者なり』
さらにその紙片の裏側には、セルロイトがいつ頃フォーアル大公国を船で出港したのかといった情報や、セルロイト本人の特徴や似顔絵が記されていたのだった。
「大変だ。これは、支部長様に報告せねば」
男たちはマタカから送られた紙を携えて、急いで建物の中に向かった。
「……フム。これは由々しきことですね」
すでに頭頂部の髪の毛が薄くなり、口ひげと顎ひげを蓄えた、初老の男性が、小さく頷きながら口を開いた。彼の眼は左右に激しく動き、何かを考えている様子がうかがえる。
「支部長様……」
部下たちの不安そうな表情をチラリと見たが、やがて、スッと視線を手元に向けると、誰に言うともなく呟いた。
「船で出港したとなると、ここ数日は晴天でしたし、波も穏やか。南から強い風が吹いていたことを考えると、大体速度は……。フォーアルからガルビーまでの距離は……。そして、ガルビーからアガルタの都までは……馬車で移動でしょうか。となると、馬車の速さは……。出発した日付で考えると……。すでに、ガルビーには到着しているとみてよさそうですね。最悪の状況を想定すると……。すでにガルビーを立って都に向かっている可能性がありますね。ただ……ガルビーから都まで向かうためには、一旦どこかで野営する必要があります。マタカの手紙から察すると、女の一人旅。夜を徹しての移動はやらないでしょう。とすれば、最短で明日の昼には都に着くという計算になりますね」
支部長の言葉に、部下たちは息を呑んでいる。この男は複雑な計算をすべて暗算で行っているのだ。その明晰な頭脳は、恐るべき正確さでセルロイトの動きを読んでいた。
「ちょっと待っていなさい」
彼は机の引き出しを開け、紙とペンを取り出したかと思うと、一切の迷いなくペンを走らせた。そして、ものの一分も経たないうちに書き上げたかと思うと、それを小さく折りたたんだ。
「これをすぐにアガルタのボンイサオ男爵の許に送りなさい。男爵の屋敷には、一晩あれば十分に着くことができるでしょう。問題は、男爵が私の意図を理解できるかという点と、間に合うかどうかという点ですね……」
男は誰に言うともなく、小さな声で呟きながら、紙を部下に差し出す。それを受け取った部下たちは足早にその場を後にしていった。
「ああ、ジアエ。お待ちなさい」
名前を呼ばれた若い男が、踵を返して男の許にやって来る。
「あなたに一つ、頼みたいことがあります」
「はい」
男は再び引き出しから紙を取り出し、そこにサラサラと何かを書き始めた。
「これを、アフロディーテの教皇聖下の許に届けてください。あ、あとは、このマタカの書簡も一緒に送ってください」
「はい、承知しました支部長様。明日中に教皇聖下の許に届きますよう、手配いたします」
「お願いします」
ジアエと呼ばれた男が、足早に部屋を出ていった。支部長は立ち上がり、アフロディーテの方向に向かって、静かに祈りを捧げた。
「……主神様、教皇聖下。天道に背く者に、死を」
男は大きなため息をついた。
同じ頃、とある屋敷の一室で、若い女性がスヤスヤと寝息を立てていた。隣には、夫とみられる男が、同じように静かに寝息を立てている。女性は、男の掌に顔を載せた状態で、眠りについていた。
不意に、女性の眼が開いた。彼女はムクリと起き上がり、息をひそめて周囲を窺っている。
「……邪悪な、邪悪な気配がする」
闇の中で一人呟いているのは、アガルタ王リノスの妻である、コンシディーだった。




