第五百四十七話 悲壮な覚悟
「おーい。ガルビーの港が見えたぞ~!」
船頭の大声でセルロイトは目を覚ました。夜、なかなか寝付くことができずに、夜明け前になってやっと休むことができたのにもかかわらず、僅かな時間で起こされてしまった。彼女はため息をつきながら、大儀そうに体を起こす。
これが、自分の寝室であったら、どんなに素晴らしいことだろう。そんなことを思いながらも、何をバカなことを考えているのだと自分を諭す。もう、後戻りはできないのだ。
頭の片隅からは、マタカのことが離れずにいる。あのお方はどうしているだろうか。そんな思いが頭をかすめる。
二人の仲は突然進展した。実際は、マタカがセルロイトに迫って、一方的にその欲望を満たしたにすぎず、お世辞にも二人に愛が通じていたとはいい難いものだった。だが、マタカは、何もできず、ただ、ベッドのシーツを固く握りしめ、目を閉じていた彼女の耳元で、まるで独り言を言うように、「素晴らしい」や「こんな女性は初めてだ」と囁いた。セルロイトにとって、その言葉は素直に嬉しいものだった。
「あなたを抱けば、心が落ち着きます。あなたは、私にとって必要なお方です」
全てのことが済み、溢れ出る涙を拭うセルロイトに、マタカはそんな言葉をかけた。子供の頃から思い描いていた恋愛とはかけ離れた結果となったショックもあった一方で、誰かに必要とされたことの嬉しさが、彼女の心の中を満たしていった。
それからセルロイトは、両親の眼を盗んで、マタカと逢瀬を重ねるようになった。会う回数に比例して、マタカの要求は増えていったが、セルロイトはその全てを受け入れた。それこそが彼女の愛だった。
「お前の体なしでは、私は生きてはいけない」
帰り際、セルロイトの細い体を抱きしめながら、マタカは耳元で必ずそう呟いた。もうあの言葉を聞くことはないのだろうか。父の手によって完全に引き離されてしまった今、マタカはどうしているだろうか。困りはしていないだろうかと考えてはみたものの、今となってはどうしようもない。セルロイトができることは、何一つなかった。
「お待たせいたしやした。到着でごぜぇやす!」
部屋の外から、船頭の威勢のいい声が聞こえた。セルロイトは慌てて荷物を準備して、船室を後にした。
「お嬢様、行ってらっしゃいやし。お早くお戻りになさってくださいやし」
髭面の船頭が、白い歯を見せて笑顔を作りながら頭を深々と下げる。セルロイトは、オドオドと一礼して、そそくさと船を降りていった。
ガルビーからアガルタの都までは、馬車での移動となる。セルロイトは車窓から見える景色を呆然と眺めながら、これからのことを考え始めた。
全てが初めてづくしだ。初めて会う人々、初めての環境……。上手くやっていける自信は全くない。きっと、すぐに部屋から出られなくなるだろう。そうなった場合、世界中に名声を轟かせているアガルタをしくじることになるのだ。そのダメージは計り知れないだろう。大公国の評判が地に落ちることは間違いない。父はもちろん、叔父の大公様にも迷惑がかかる……。
きっと、二度と故郷に戻ることはできないのだ。
そこまで考えて、セルロイトは愕然とする。もっと、父や母と語り合っておくべきだった。出港するときに、母が秘かに船室にやってきて、体だけは大事にしなさいと、自分が大事にしていたストールを肩にかけてくれた。その母に礼の一つも言わず、ただ無言で頷いてしまったことを、心から悔いた。せめて一言、ありがとうを言っておくべきだったと……。
部屋から出られなくなったときは、死ぬしかない。せめて、公爵家の娘として、大公の姪として恥ずかしくない死に様を見せねばならない。セルロイトは、体を震わせながら、窓の外に視線を向けた。山に映えた太陽の光がまぶしかった。
◆ ◆ ◆
「……何ということだ」
表情を歪ませながら、舌打ちをしているのは、新・クリミアーナ教国の枢機卿であるマタカだった。彼はセルロイトの行方を捜していたが、その行き先がアガルタと知って愕然としていたのだった。
完璧に事を運んだつもりだった。すでに、支配下に置いたと思っていたセルロイトだったが、まさか父の公爵や叔父の大公が、彼女を避難させるとは思いもよらなかった。
全てが計画通りに進んでいた。マタカ自身、ここまで上手くコトが運んだのは、初めてのことだった。それだけに、セルロイトのアガルタ行きを知ったときの衝撃は大きいものがあった。
彼女の姿態が頭をよぎる。どのような命令も、彼女は唯々諾々として受け入れた。眉毛をハの字にしながら、恥ずかしそうに身をくねらす姿が、鮮やかに思い出される。マタカにとって彼女は実に優秀な奴隷だったのだ。
だが、事態は彼を窮地に追い込んでいた。セルロイトを篭絡したという事実は、大公の心証を著しく害しているのは、火を見るよりも明らかだった。間違いなく、大公はクリミアーナ教の排除に動くだろう。そうなった場合の対策を考えねばならない。
それと同時に、セルロイトがアガルタに向かったという事実にも対応しなければならない。単に物見遊山に出かけたというわけではない。大公の特使として赴いているのだ。当然、この国での自分たちクリミアーナの活動が記され、アガルタから支援を乞う書状を携えていることだろう。そうなれば、マタカは完全に追い詰められることになるのだ。
……アガルタ王から、教皇聖下に、間違いなくこの事実が告げられることになる。
ヴィエイユ教皇聖下のことだ。きっと、フォーアル大公国にいる枢機卿全員を更迭するだろう。それが一番手っ取り早い解決方法だからだ。そして、新しい枢機卿を送り込むのだ。そうなれば、自分は世界の最果ての国に飛ばされることになる。教都・アフロディーテに帰ることは、二度となくなるのだ……。
マタカは首を振りながら、これまでの考えていたことを忘れようとする。そのようなことにならないためには、どうするべきか。彼は頭の中を切り替えようとする。
……セルロイトだ。ヤツさえ何とかなれば。
マタカの心の中に、どす黒い思いがムクムクと溢れてくる。セルロイトさえアガルタ王に会わなければ、何とかなるのだ。大公は我々を排除しにかかるだろうが、この首都には楔を打ち込んである。クリミアーナ教を信仰する者と力を合わせれば、ひと月やふた月程度持ちこたえることは可能だ。その間に本国に連絡を取り、援軍を頼めば、逆にこの国を支配することも可能になってくる。
マタカはゆっくりと立ち上がると、部屋の隅に行き、そこで蹲るようにして腰を下ろした。床の板を外すと、床下から瓶を取り出した。中には小さな黒い球体がいくつも詰められている。彼は中からその一粒を取り出すと、瓶を再び戻し、床の板を元通りに直した。
外に出ると、黒い雲が空を覆っていた。今にも雨が降り出しそうな空模様だ。マタカは忌々しそうに空を眺めていたが、やがて、靴で地面を掘り始めた。
やがて、地面にこぶし大くらいの穴が掘られた。彼は手に持っていた黒い球をその中に入れ、人差し指を出して、詠唱を始めた。
……ボウッ。
マタカの人差し指から炎が地面に向かっていく。すると、彼の掘った穴から、黒々とした煙が立ち昇った。これは、赴任地において何か緊急の事柄が起こったことを示すシグナルだった。ただこれは、己の解決能力の低さを表す行為として捉えられることが多く、教国内では評価の下がる行為として認知されているものだった。
「……背に腹は代えられない」
マタカはモクモクと立ち昇る煙を睨みつけながら、小さな声で呟いた。彼自身も、悲壮な覚悟を腹の中で固めていた……。




