第五百四十六話 運命の出会い?
それから三日後、大海原に一隻の船が北に向かっていた。
船の上には一人の女性が呆然と立ち尽くしていた。フォーアル大公国のハーツ公爵の娘であるセルロイトだ。げっそりとやつれた体、目の下には濃いクマを作っていて、一見すると重い病に罹っているかのように見える風貌だった。
正直、彼女は死にたかった。このままこの身を海に投げてしまいたかった。マタカ様なくしては、今の自分など生きている意味はない。
だが、その身を海に投げられない事情が彼女にはあった。叔父である大公の特使としてアガルタへ向かうことを命じられたのだ。そして、アガルタにおいて、かの国が持つ農業技術の習得を命じられたのだった。
「国民の命がかかっている」
叔父、大公の言葉に、セルロイトはイヤも応もなかった。その場で大公宮殿の一室に閉じ込められ、二日後には船に乗せられて出港したのだ。
せめて、マタカ様に一目会いたかったが、それは許されなかった。
これには、父のハーツが絡んでいることをセルロイトは察していた。父はマタカ様と関係を持つことに反対していた。この一連の動きはすべて、父が仕組んだものなのだろう。だが、セルロイトにとってマタカは、自分を理解してくれる唯一の男性だった。彼を失うことは、彼女の人生の終わりを意味していた。
正直、こんなことはやりたくはない。全く知らぬ人たちの許に行くのだ。それだけではない、新しい技術を学んでこなければならない。ということは、多くの人と接しなければならないということだ。
幼い頃から彼女は、人と話をすることが苦手だった。大公の姪として、多くの人々と接することが生まれながらに義務付けられていた身にとっては、日々の生活は地獄に似た苦痛を伴うものだった。
それでも彼女は、苦痛を必死でこらえながら、幼い頃から与えられた仕事をこなしてきた。だが、十四歳になったとき、それは限界を迎えた。部屋から一歩たりと、出ることができなくなったのだった。
心配した父や叔父が手を尽くして、あらゆる名医を呼んで治療にあたったが、彼女の症状は改善することはなかった。とはいえ、日が経つにつれて、自室からは出られるようになり、屋敷の庭までは出ることができるようになったが、門から外はどうしても出ることができなかった。
彼女自身、それではいけないという思いはあった。我が家は公爵家だ。叔父はこの国の主である大公なのだ。その一族に連なる自分が、このままではいけない。このままでは、父はもちろん、叔父様も誹りを受けることになる……。だが、そう考えて自分を鼓舞すればするほど、その体は硬直してしまうのだった。
そんな中、彼女はたまたま食事で出されたデザートの種を戯れに庭に埋めてみた。すると、それが発芽したのだ。彼女はそれに水をやり、成長を見守った。季節は春だった。
夏が過ぎ、秋になると、小さな芽は成長して、夕食で食べたデザートと同じ実をつけた。それはそれほど美味しくはなかったが、セルロイトは人生で初めて大きな達成感を感じた。それ以降、彼女は植物を育てることに夢中になった。
あれから五年。ハーツ公爵家の庭の一部は、セルロイトによって耕された畑と化していた。彼女は日焼けすることも厭わず、ただ黙々と畑の世話をやり続けた。元々勤勉で研究熱心だった彼女は書物を読み漁り、植物たちがいかにすれば効果的で効率的に育つのか、試行錯誤を繰り返したのだった。
そんな彼女を両親は、温かく見守った。すでに二十歳を超えた身。十四歳以降、家庭教師を付けて、必要最小限の読み書きや振舞い方は身に付けてはいるが、貴族としてお披露目されることもなかったため、嫁ぐことも難しいだろう。両親は彼女をこの屋敷で一生暮らすことになる覚悟を決めていたのだった。
そんな彼女に転機が訪れたのは、ちょうど一年前のことだった。
新・クリミアーナ教国の使者がハーツ公爵の許を訪れ、彼の兄である大公に目通りを願った。教国は、何年も前から大公への面会を求めていたが、もともと他国との交流を是としていない大公は、クリミアーナと積極的に交流を持つことを嫌った。とはいえ、新年の挨拶だけは使者を引見するなど、必要最低限の交流は保っていた。
この日も、使者の男は、新年の挨拶をする上での打ち合わせがしたいと言って、公爵の許を訪れていた。新年と言っても、まだ三ヶ月も前のことであり、公爵は訝りながらも男たちを引見した。そんなことは知らず、セルロイトは畑に実をつけた植物たちを見て、達成感を感じていたところだった。
「おお、メルモリの実がなっている」
突然、男性の声が聞こえて、セルロイトは思わず声のした方向に視線を向けた。そこには、見慣れない服を着た若い男が立っていた。
男はマタカと名乗り、笑顔を見せたかと思うと、ゆっくりと畑に近づいてきた。
「クラワサン……メガオ……グーホイ……。素晴らしい、よくこれだけのものを育てたものだ。これはすべて、あなたが育てられたのですか?」
マタカは笑顔で話しかけてくるが、突然のことで動揺しているセルロイトは、返答することができない。マタカはそんな彼女に頷きながら、再び畑に視線を向ける。
「素晴らしい……。特にこのメガオの成長ぶりはどうだ。これが大きくなるためには、丁寧に芽を間引いてやらねばならない。種がたくさんあるために、たくさん発芽するのですが、一番成長している芽だけを残して間引いてやらねば成長しないのですよね。よく知っていましたね。それに……常に新芽を間引き、葉についている虫を丁寧に取り除かねば、ここまで大きく成長させることは難しい。毎日丁寧に世話をされたのですね」
「私……の……畑……ですから」
セルロイトは必死で答える。まさに、この男の言うとおりだったからだ。メガオという植物……これは、とても濃厚な甘みを持つ果物だ。市場に出回ることはほとんどない。栽培が難しいということもあるが、見た目がグロテスクであるために、誰も食べようとはしないのだ。
だが、セルロイトは乱読した書物の中から、この果物がとても美味で、その昔はこの果物を巡って国同士が争いになったことを知っていた。
あるとき、大公にたまたまこのメガオが献上された。だが、彼はそれには手をつけず、父であるハーツ公爵に下げ渡された。父もこの果実には興味を示さず、ゴミとして捨てようとさえしていたのだった。だが、セルロイトは父に頼み込み、この果実を引き取った。実自体はすでに腐食が始まっていたため、とても食べられたものではなかったが、彼女は種を丁寧に取りだして、庭の畑に撒いたのだった。そして、苦労して育てること数年、やっと大きな実をつけたばかりだったのだ。
誰も興味も持たず、理解もしてくれなかったことを理解してくれる人が現れた……。セルロイトの心に何か温かいものが溢れた。
「よっ、よっ、よく、ご存じ……なのですね」
「私も、こうした植物を育てることが好きなのです」
「そ……そうなの、ですか」
「色々な植物を育ててまいりましたが、こちら様のように、丁寧に世話をすることができずに枯らせてしまうことも多いのです。いや、ここまでおやりになっているのを見ると、何だか心が躍ります」
マタカは満面の笑みを浮かべながら、口を開く。端正な顔立ちだ。どこかの国の王子や貴族の子弟と言っても差し支えない程の美貌だ。セルロイトは思わず目を背ける。
「こちらのお屋敷には、大公様への新年のご挨拶の打ち合わせで、よく足を運びます。そのときには、また、こちらの畑にお邪魔させてください。それに……育てている植物に少し、わからないことがあるのです。次に参りました際には、是非、ご教授いただけると嬉しいです」
そう言って、マタカはその場を後にしていった。セルロイトはその後ろ姿を見送りながら、何か、運命的なものを感じていた。




