第四百九十五話 アリリア視点
体の震えが止まらなかった。体も思ったように動かない。何より、顔を上げることができなかった。
今、目の前では、シディー母さんとペーリスお姉ちゃんが忙しそうに動き回っている。いつもなら屋敷の中を飛び回り、何かあると慰めてくれるフェアリの姿はここにはなかった。彼女はアガルタやクルムファルにいる家族に、先ほど起こった事柄を伝えるために、転移していったのだ。
フェアリが屋敷を出る……。アリリアのこれまでの人生の中で、一切なかったことだ。いくらアリリアや姉のエリルが誘っても、頑として屋敷の敷地内から出なかった彼女が、出ていったのだ。
……大変なことをしてしまった。
彼女は、自らが起こしてしまった事の重大性に押しつぶされそうになっていた。目の前で、ママとマミーが黒龍に飲み込まれた。自分が外に出さえしなければ、ママの言うことを聞いてさえいれば、こんなことは起こらなかったのだ。
……これから、もっと大変なことが起こるかもしれない。
きっと、ものすごく怒られるに違いない。そして、下手をすれば、この屋敷を追い出されるかもしれない。そうなれば、一人で生きていくしかなくなる。一人では生きてはいけない。
そんなことを自問自答していると、震えが止まらなかった。
「アリリア……」
先ほどから、傍でじっと見守ってくれているエリルお姉ちゃんが声をかけてくれたが、アリリアは反応することができなかった。何より、エリルお姉ちゃんのママがいなくなってしまったのだ。お姉ちゃんにも申し訳ないし、何より、ママが大好きだった弟のイデアに申し訳がない。彼は今、ドワーフ工房に行っているが、帰ってきたらきっと、悲しむに違いない。そして……自分を恨むに違いない。
アリリアは押し寄せる不安に、頭が爆発しそうだった。今の彼女には、頭を抱えながら、ただ震えるしかなかった。
フッと顔をあげてみる。目の前には、テーブルに呆然と腰かける父・リノスの姿があった。いつもは陽気な優しい父――おとうさんが、こんな表情を浮かべる姿も初めてだった。彼はあらぬ方向に視線を向けたまま、微動だにしない。
「りゅーおーくん……」
アリリアは小さな声で呟く。りゅーおーくんならば、今の状況を解決できるかもしれない。もしかすると、家を追い出されても、彼がいれば何とかなるかもしれない。だが、彼を呼び出すのには、マミーから習った歌を歌わねばならなかった。
彼女はその歌を歌ってみようと口を開いた。だが、歌うことはできなかった。声が……出ないのだ。それに、仮に彼がここに来たとしたら、おとうさんが怒ってしまうのは目に見えていた。今のお父さんを怒らせると、とんでもないことになる……。アリリアは直感的にそれを感じ取っていた。
彼女が龍王の姿を思い浮かべるとき、まず頭をよぎるのは、彼の鱗がこすれる音だった。アリリアには人間には聞き取れない音を聞き分けるスキルが備わっていた。彼女のその鋭敏な聴覚は、ドラゴンの鱗がこすれる音さえ聞き取ることができたのだ。
彼女はその音を聞くのが好きだった。フェリス姉ちゃん、ラース君、フェアリ、サダキチ……。彼女の周囲にいるドラゴンたちは皆、たとえ人化をしていても、耳を澄ませるとカリカリと小気味いい音が鳴っていた。アリリアはその音を聞くのが大好きだった。そして、その中でも、最も美しい音を奏でていたのが、龍王だった。
龍王の鱗の音は、キィーン、キィーンというまるで鈴のような美しい響きがする。アリリアはその音を聞いた瞬間、このドラゴンは信用できると無条件に思えたのだ。だが、先ほど、ママとマミーを飲み込んだドラゴンは違った。ジャリッ、ジャリッという、なんとも不快で不気味な音だった。ドラゴンとは、心地の良い音を出すものだと思い込んでいたアリリアにとって、黒龍――ロイスの音は衝撃以外の何物でもなかった。
そんな彼女の耳に、聞きなれた音が聞こえてきた。これは……フェリス姉ちゃんだ。そう思ったとき、屋敷の勝手口が勢いよく開かれた。
「リノス様!」
フェリスはリノスの前に畏まり、何やら話しかけている。その後ろではルアラが蒼白の表情で控えている。リノスは、呆然とした表情を崩そうともしないまま、フェリスにボソボソと何事かを話している。
突然、フェリスが屋敷を出ていった。しばらくすると、アリリアの耳に、ギリッギリッと、何だか苦しみを連想させるような音が聞こえてきた。彼女は思わず耳をふさぐ。
「ええいっ!」
今まで聞いたことのない、憎しみがこもったフェリスの声が聞こえた。気が付くと、アリリアのすぐ目の前に、一人の少年が床に叩きつけられているのが見えた。フェリスはその少年に馬乗りになり、彼の髪の毛をつかみながら憎々しげに口を開いた。
「あんた達、何てことするのよ! 一体、何の恨みがあるっていうの! 帰しなさいよ! リコ姉さまと……ソレイユ姉さまを……帰しなさいよ……帰しなさいよ……」
フェリスの声がどんどんと涙声になっていく。少年は、すでに両手を失っているにもかかわらず、その眼は爛々と輝き、体の上のフェリスを睨みつけていた。そして、その傍らには、同じ黒龍のシャリオが呆然とした表情で立ち尽くしていた。
しばらくすると、どんどん家族の者が帰って来て、屋敷内は騒然となった。ママとマミーがいなくなったと聞いて、弟のイデアや妹のピアトリスは泣くかと思いきや、二人とも気丈にも冷静にその事実を受け入れようとしていた。だが、やはりショックは隠しきれずに、二人とも体を小刻みに震わせていた。
シディー母さんが皆にこれまでのことを説明し、これからのことを話し出すと、屋敷の中はさらに騒然とした雰囲気に包まれた。アリリアは椅子に座ったままさらに頭を抱えてうずくまり、小さな体をさらに小さくする。
……誰も、彼女に声をかける者はいなかった。実際は、アリリアの姿があまりにも気の毒すぎて、声をかけるのが憚られていたのだが、アリリアにとっては、今の状況は孤独以外の何物でもなかった。
突然、騒然としていた屋敷内が静寂に包まれた。ふと顔をあげてみると、皆が同じ方向に視線を向けている。
コツ……コツ……コツ……。
足音がゆっくりとアリリアの許に近づいてくる。
「アリリア……」
声のした方向に視線を向ける。目の前には母であるメイリアスがいた。いつもと変わらぬ表情を浮かべている母……。その顔を見たとき、初めて彼女の眼から涙が溢れだした。
「お母さん……ごめん……なさい。ごめん……なさい……」
そのとき、メイが無言のまま優しく、アリリアを抱きしめた。その途端、アリリアは堰を切ったように号泣し始めた。何度も何度も謝るアリリアを、メイは優しく抱きしめ続けた。
メイはアリリアを抱っこすると、ゆっくりとリノスの許に向かっていく。そして、彼の前に神妙に畏まった。
「ご主人様……申し訳……ございません」
リノスはメイに全く視線を向けず、相変わらず、あらぬ方向に視線を泳がせている。
「アリリアのことは……ご主人……様?」
リノスが視線を泳がせたままゆっくりと立ち上がっていた。彼はゆっくりと目を閉じると、まるで耳を澄ませるようにゆっくりと首を傾けた。
「ごしゅじ……」
メイが言葉を発しようとした瞬間、リノスがスッと右手を挙げて言葉を遮った。彼の厳しい表情に全員が注目している。屋敷内が緊張感に包まれる……。
「メイ」
どのくらいの時間がたっただろうか。リノスがゆっくりと口を開く。そして、眼を開けて、周囲を見回し、最後にアリリアに視線を向けた。
「アリリア。安心しろ。リコとソレイユは……。ママとマミーは、生きている……」
屋敷内の雰囲気が、今までとは別の緊張感に包まれていく……。




