第四百八十九話 邪魔するな!
その頃、リノスの屋敷では、黒龍のシャリオが庭に出て空を眺めていた。
「……」
彼女の視線の先には、うろこ状の雲が広がっていた。その様子をじっと観察し続けている。
「何をしているの?」
背後から声がする。振り返ってみると、そこにはリノスの娘である、エリルの姿があった。シャリオは彼女を一瞥すると、再び空を見上げた。
「嵐に……なる」
「え?」
誰に言うともなく、シャリオが呟く。その答えがあまりにも意外だったのか、エリルが思わず声を上げた。
「お天気、いいけれど……」
「いや、この雲が出ると、近いうちに嵐になることが多い」
「すごいね。どうしてそんなことを知っているの?」
「どうして……。何度も見てきたからだ。嵐になると色々なものが飛んでくる。眠りを妨げられる。だから、嵐の前に、風や雨を凌げるところに移動せねばならない」
「すごいね、シャリオちゃんはいくつなの?」
「数えたこともない」
「ふぅ~ん」
二人の間に沈黙が流れる。シャリオは再び視線を空に向けた。そして、エリルも彼女と同じように視線を空に向ける。穏やかな時間が流れる。
「シディー母さんに聞いてくる」
そう言ってエリルは屋敷に戻っていった。その後ろ姿を見ながら、シャリオはこの娘の間合いの良さを感じていた。
しばらくすると、エリルを伴ってシディーが庭に出てきた。彼女は、右手の人差し指をあごの下に当てながら、空に視線を向けた。
「うん、確かに、嵐の予感はするかな。でもこれは……自然に起こるものではない気がするわね」
「え? どういうこと?」
「私もよくわからないけれど……。何だか人為的に……つまり、誰かが無理やり嵐を起こそうとしている気がするわね」
シディーの言葉に、エリルは目を丸くして驚いている。そこに、シャリオがやってきた。
「確かに、この冬になろうという季節に、嵐が来るというのは経験したことがない。なるほどな。魔力を使って、天候を変えている可能性はある」
「そんなこと、できるの?」
「ああ、可能だ。だが、それには途方もない魔力が必要だ。今、私は、スキルを奪われてしまって、よく把握できないが、元の状態に戻れたら、多少は天候を変える自信はある。もっとも、少し雨を降らせる程度だが」
「今のシャリオちゃんの話からすると、嵐を呼ぶとなると、相当の魔力が必要になるわね。でも……そんな巨大な魔力は一切感じないし、私の直感にも反応しないわ。ここは……リノス様が戻られたときに、一度、お話してみるのがいいかもしれないわね」
「何か、悪いことが、起こるの?」
不安そうな表情を浮かべるエリル。その彼女に、シディーはニコリと笑顔を向ける。
「心配しないで。あなたのお父さんが、何とかしてくれるわ。大丈夫よ」
その言葉に、エリルはホッとした表情を浮かべる。だが、シディーは感じていた。何とも言えぬ嫌な予感があることを。それをどうしても、エリルには伝えることができなかった。
◆ ◆ ◆
「……なるほど」
リノスが屋敷に戻ってきたのは、夕方近くになってからのことだった。リノスもゴンも何だか疲れていて、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けるなり、二人は大きなため息をついた。
彼らが戻ってくると、すぐに夕食が始まり、ワイワイといつものようなにぎやかな食事となる。シディーは天候のことをいつ、リノスに話そうかとタイミングを計っていたが、子供たちの面倒を見ながら相談することは、困難と言えた。そこで彼女は、リノスが風呂に入るタイミングを見計らって、相談することにした。
子供たちを風呂から上げ、ピアトリスたちの体を拭き、パジャマに着替えさせる。この一連の作業はリノスの妻たちが行ってきたが、今ではエリルとアリリアが手伝ってくれるようになって、その労力は大幅に少なくなっていた。マトカルはファルコを抱っこしたまま部屋に戻り、着替えを終えた子供たちは、パタパタとリコの部屋に走っていく。今夜はリコが絵本を読んで寝かしつける日なのだ。
風呂の中では、リノスとソレイユが入っている。シディーはいそいそと服を脱ぎ、取っ手に手をかけた。そのとき、中から艶めかしい声が聞こえてきた。
「ハッ、ウフッ、アーッ。アッアッアッアー」
……え? お風呂の中で? いや、ソレイユなら、可能性はなくはない。……てゆうか、声が外まで丸聞こえだけれど。
さすがに、二人の時間を邪魔するのは憚られる。彼女はゆっくりと扉から離れようとする。
「うわっ!」
自分が脱いだ服に足を取られて、シディーは思わず尻もちをつく。そのとき、風呂の扉が開いて、一糸まとわぬソレイユの裸体が現れた。
「シディー。どうしたの?」
「え、あ、う、ごめんなさい。邪魔する気は、ないの」
「何のこと?」
「ううう……」
「一緒に入りたいのなら、入ってくればいいじゃない。さ、入りましょ」
ソレイユに促される形で、シディーは顔を真っ赤にしながら、風呂場に入った。
「ハッハッハ! シディーとしたことが、とんだ早とちりだな」
リノスは湯船につかりながら、大爆笑していた。何と、艶めかしい声だと思っていたのは、ソレイユの歌声だったのだ。彼女はリノスの疲れが癒える歌を少しばかり歌っていたのだと言う。
「誰だって、あんな声を聞いたら……」
「私は、いつでもどこでも、大丈夫ですよ」
顔を半分まで湯船に着けているシディーを横目に、ソレイユはリノスに腕を絡ませて、その豊満な胸を押し付けている。リノスは少し戸惑った表情を浮かべながら、シディーに視線を向ける。
「リノス様、実は、相談がありまして」
「相談?」
「私は、外したほうがいいかしら?」
「いえ、居てもらって大丈夫。実は今日のお昼に……」
シディーはその日あったことをリノスに説明する。彼は顎に手を当てながらそれを聞いていたが、やがてゆっくりと立ち上がり、空の様子を見てみようと言った。
リノスは着替えを済ませると、シディーとソレイユを伴って庭に出た。空に視線を向けるが、星は見えない。おそらく薄い雲が空を覆っているせいなのかもしれない。
リノスはじっと空を眺め続けている。ときおり、首を左右にゆっくり振りながら、まるで空に何かを探しているかのようにじっと視線を向け続けた。
「……確かに、感じるな」
誰に言うともなく、リノスが呟く。その首筋には汗が光っていた。彼は空を眺めたまま、さらに言葉をつづける。
「……とても微弱だが、空全体に、魔力を感じる。待てよ? 一種類じゃないな? ……二つ……イヤ、三つか? 複数の魔力が混ざり合っている……か? これは……どこから……うん? 結構遠い……か?」
「ウワッハッハッハ」
突然、笑い声が響き渡る。驚いて視線を向けてみると、そこには何と、龍王が立っていた。
「我を阻む結界が張られておらんと思っていたら、皆で我を出迎えるとは、殊勝ではないか。褒めてやるぞ」
その言葉に、リノスは舌打ちをしながら、龍王をにらみつける。
「馬鹿野郎、邪魔すんじゃねぇよ!」
「何だと?」
「せっかく空を覆う魔力を辿っていたのに、わからなくなっちまったじゃねぇか。それに一体何だ、こんな夜更けに! お前、まさか、夜這いでもかけに来たんじゃないだろうな」
「よばい? 何だそれは? 今日は話があってきたのだ」
「話だぁ? 言っておくが、娘はやらんからな」
「何を言っているのだ!」
彼は腕を組みながら、長い尻尾をするりと動かしたかと思うと、勢いよくそれを地面に叩きつけた。バシン、といい音が響き渡る。そして、リノスに鋭い視線を向けながら、ゆっくりと口を開いた。
「黒龍の、ツネたち兄弟全員の姿が消えたのだ」