第四百八十七話 察する
「う、う、う」
シャリオの前で、エリルは困った表情を浮かべながら答えに窮していた。彼女の質問があまりにも素直すぎたからだ。
それは唐突だった。食事が終わり、部屋に戻ろうとしたエリルにシャリオが近づいて来た。
「ちょっといいか?」
「え?」
「さっきは、何を聞きたかったのだ?」
「それは……」
「わからないことがあれば聞けばいいと言っていた。聞けばいいではないか。どうして聞かないのだ?」
「う、う、う」
戸惑うエリルに、リコレットが心配そうな表情で近づいて来た。
「どうしたのです、エリル?」
「……何でも、ない」
「何か、聞きたいことがあるのではなくて?」
「……大丈夫、です」
シャリオはリコレットと思わず顔を見合わせる。そんなとき、リノスの声が聞こえた。
「エリル、いいよ。すまないけれど、ファルコ君の着替えを手伝ってくれないか」
その声に、彼女はコクリと頷き、パタパタと走りながらダイニングを後にした。
「マト、すまない」
「わかった」
リノスに促されるようにマトカルが立ち上がる。その腕には、小さな男の子が抱かれていた。
「一体何なのだ、今のは?」
「うん?」
シャリオの言葉に、リノスはキョトンとした表情を浮かべる。
「どうして、あの人に謝ったのだ? 何か悪い事でもしたのか?」
「いや、そうじゃない」
リノスの言葉が全く飲みこめないシャリオは、首をかしげる。
「マトカルにエリルのことをお願いしたんだよ」
「何?」
「エリルは、聞きたいことがあったのだろう。でも、リコや俺には言い出せなかったのだよ。でも、マトなら言いやすいだろう。そう思って、お願いしたんだ」
「お願いする、などとは言っていなかったではないか」
「そこは、阿吽の呼吸というやつだ」
「アウンノコキュウ?」
リノスは、困った表情を浮かべながら、ポリポリと頬を掻いている。
「つまりはだな、関係が深まれば、自ずと伝えたいことがわかると言うやつだ」
「ふぅん?」
「お前たち黒龍は、相手のことを察する……みたいなものはないのか? 例えば、機嫌が悪そうだ、とか、体調が悪そうだ、とか」
「機嫌が悪そうだ、というのはわかる。怒っているからな」
「いや、そうじゃなくてだな……」
リノスは腕組みをしながら天を仰いでしまった。その様子を横目で見ながら、リコレットが口を開く。
「あなた方黒龍にはわからないかもしれませんわね。ただ、我々人間の世界では、暮らしを共にすればするほど、言葉ではなく、雰囲気や感覚で相手の考えていることがわかるものなのですわ」
「え?」
「言葉にするのは難しいのですけれど……。知らない人には、すべてを説明しなければなりませんが、気心が知れてくると、何となくわかり合えて来るのですわ。例えば……あれを取って下さいな、と言っても、あなたには何のことだかわかりませんわよね? しかし、暮らしを長い間共にしていれば、それが何であるのかがわかるようになるのですわ。あなたも、同じ種族同士で、そういうことはなかったかしら?」
「スキルを使えば、大体わかる」
「スキルは必要ないのですわ」
シャリオは、スキルを使わずに相手のことがわかるなどということが信じられなかった。だが、実際目の前では、リノスがエリルの様子を見て、マトカルに指示を与えていた。後にこれが「察する」ということをシャリオは教えてもらった。このとき以降、彼女は相手を察することに注力するようになったのだった。
一方、エリルの母親であるリコレットは、娘が何を聞きたかったのか、なぜ、そのことを自分に言ってこなかったのか、一抹の寂しさを覚えながら、思いを馳せるのだった。
同じ頃、マトカルの部屋では、エリルとマトカルが短い会話を交わしていた。
「シャリオちゃんのスキル、高い?」
「ああ」
「どのくらい?」
「おそらく、フェリス殿を超える」
「……わかった」
エリルは慣れた手つきで、ファルコのおむつを替えている。
「ありがとう、助かった」
「ん」
エリルにとって、マトカルは一番話しやすい相手だった。あまり多くは語らない母――。それが、彼女にとって最も居心地がよかった。
物心ついた頃から彼女は、鋭い感性を身に着けていた。そのために、相手の考えていること、感情の起伏などを敏感に読み取ることができた。さらには、優秀な頭脳を持っていた彼女は、いわゆる『一を聞いて十を知る』ことのできる女性だった。そのために、少し話を聞けば、相手が言わんとしていることを理解することができたのだ。
だが、その優れたスキルのために、生みの母であるリコレットについては、苦手意識を持っていた。ママ――リコレットは、一つの事柄を聞くと、その全ての情報を伝えようとする。それが、彼女にとっては苦痛だった。――そこまで言わなくても、わかる、と。
例えば、父、リノスが持ち込んだ「箸」という道具。これの使い方を説明するのに、リコレットとマトカルでは、全く異なるのだ。
リコレットの場合、箸という道具はどのように使えばよいのかという説明から、それを使うことの意味、上手な使い方……そうしたことが次々と説明されていく。そして、幼い子供については、わざわざ膝の上に乗せ、手を取って使い方を教えるのだ。これは、エリル以下、子供たち全員に行われたことで、いわばリコの行儀作法の教え方は、この家の名物となりつつあった。
彼女の教え方は辛抱強かった。できるまで、何度でも膝の上に子供を乗せ、手を取って教え続ける。そして、できれば満面の笑みで褒めるというものだ。こうしたやり方は、どちらかと言えば不器用な子供たち――イデアやピアトリス――たちにとっては、とても心に響くものだった。また、フォークや箸など、食べ物を扱う道具で遊んだり、いたずらをしたりしたとき――主に、アリリアがそれをするのだが――なども、ママのお膝に座らされて、もう一度、その使い方を教えられる。だが、生来器用なエリルは、ママのお膝に乗る前に、ある程度の使い方を習得することができていた。彼女にとっては、手取り足取りの説明は必要なく、ただ、悪かった点を指摘して、どうすれば改善できるのかを教えてもらうだけでよかったのだ。
対してマトカルの場合、まずは自分が使って見せて、相手に使わせる。そして、上手くいかない場合は、どうすればうまくいくのかを端的に教えてくれるのだ。
リコレットの説明も、単に長いだけではなく、的を射た内容で、説明を受ける側がとても分かりやすいものなのだが、如何せん、エリルにとっては、その説明の半分も聞かないうちに内容が把握できてしまい、あとの説明については、単に自分が思った内容を確認するだけの作業となるのだ。幼い彼女に、それを心の中で上手に処理していくだけの手法は、まだないといってよかった。母、リコレットの振る舞いが、深い愛情のものであることを彼女が悟るのは、まだ先のことだった。
とはいえ、リコレットの懇切丁寧な話し方は、他の子供たちには好評だった。とりわけ、弟のイデアとピアトリスは、母の話を興味深そうに聞いていた。彼らにとってリコレットは、とても丁寧に説明してくれる、なくてはならない、やさしいママだった。
しばらくして、シャリオはマトカルから呼び止められた。
いつもの鎧姿に身を包み、帯剣したマトカル。これからアガルタに出勤するその直前に、彼女はシャリオの前で足を止めた。
「エリルに、色々教えてやってくれ」
「え?」
それだけ言うと、マトカルはスタスタと屋敷を出て行ってしまった。
……教えるって、何をだ?
シャリオは戸惑いの表情を浮かべる。しかしこれが、シャリオとエリルの仲を急速に結び付け、二人は大親友になるきっかけとなるのだが……。そんな未来は、誰も想像すらしていないことだった。