第四百八十六話 聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥
一方その頃、リノスの屋敷では、アリリアが喜びの声をあげていた。
「うわぁ! かわいい!」
目をキラキラと輝かせながら、パチパチと手を叩くアリリア。その視線の先には、小型のドラゴンがいた。
大人の腰の高さほどの大きさで、その体は漆黒の鱗に覆われている。これは言うまでもなく、先日、リノスによって捕らえられた黒龍のシャリオだった。
彼女は、久しぶりに人化を解除してみて、驚いた。まさか、自分の体が十分の一の大きさになっているとは、思いもよらなかったからだ。
いつもとは違う視点……。目の前の子供が、大きく見える。あまりの予想外の光景に、シャリオはしばらく現実を受け入れることができなかった。
「まるで生まれたての仔竜みたいだ」
腹を抱えて笑っているのは、ラースだ。そんな彼の頭を、姉のフェリスが思いっきり叩いている。
「いい加減にしなさいよ! バカ笑いはやめなさいっていつも言っているじゃない!」
「いってぇな!」
「何よ」
「二人とも、ケンカしちゃだめよ」
フェリスとラースに、アリリアが両手を腰に当てながら胸を張る。その様子にフェリスは苦笑いを浮かべる。
「最近特にお姉ちゃんらしくなったわね」
「エヘヘ」
ちょっと照れくさそうに笑いながら、アリリアはシャリオに向き直る。
「……」
シャリオは茫然と目の前に並ぶ人々に視線を向ける。正直、この屋敷に来てからというもの、毎日が信じられないことの連続で、未だにその状況を理解するのに、思考が追い付かないのだ。その中でも、もっとも彼女を戸惑わせているのが、情報不足だ。相手のことが、全くわからないのだ。
元々シャリオには、優れた魔力探知、気配探知能力に加えて、優秀な鑑定スキルを持っていた。それらを駆使することで、彼女は目の前に現れるモノや生き物が何であるのか、自分に害のあるものかどうかを的確に把握することができていた。それどころか、次から次へと入ってくる情報をいかに処理するかに、注力せねばならなかったほどだ。
それが、今は、何もわからなかった。頭の中に、何の情報も浮かび上がってこないのだ。
この状況に、シャリオは戸惑いを通り越して、うっすらと恐怖に似た感情を抱いていた。目の前に現れる者たちの情報がわからないために、直感に頼る彼女の予想は、ことごとく外れていたのだ。
例えば、フェリスに小突かれているラース。彼女は彼を最初見たとき、愚鈍な少年であると断じた。だが、実際の彼は、恐ろしい腕力を持っていて、巨大な岩などを片手で軽々と持ち上げることができていた。それもそのはずで、彼は、黒龍一族が唯一勝てなかった相手である、クルルカンだったのだ。その事実を知ったとき、シャリオは愕然としたのだった。
一対一の戦いであれば、シャリオはこのラースに勝つ自信があった。だが、一族の力を結集した戦いとなれば、この力は脅威だ。優秀な指揮能力を持った者に導かれれば、彼は恐ろしい戦力となるのは、明らかだった。実際、彼はドルガとヒヤマに赴き、先の戦いで破損した城壁や堀を、その腕力で瞬く間に修復してしまったのだ。彼がクルルカンと知っていれば驚くことはなかったが、その話を聞いた当初は、なかなか信じることはできなかった。
今のシャリオは、ある意味では目が見えず、力もないという状態と言ってよかった。彼女の周囲を囲む者たちの中で、一人でも、その気になれば簡単に彼女を瀕死の状態にすることができると言ってよかった。
「エヘヘ」
シャリオの心境をよそに、アリリアが嬉しそうにシャリオの背中に乗り、その手を首に廻して抱きついてきた。この小さな娘を振り落とすことは難しくはないだろう。だが、それをすると、どんな目に合わされるのかわからない。そんな不安が頭をかすめる。
「何をしているのです」
突然、女性の声が聞こえる。その声を聞いた途端、背中に乗っていた少女が慌てて地面に降りて、直立不動の姿勢を取った。
「さあ、朝食ができましたわ。食べましょう」
一人の美しい女性がにこやかな笑みを浮かべながら近づいて来た。この人は、アガルタ王リノスの第一夫人であるリコレットだ。ここに来た当初から、この屋敷にいる者たちは、なぜかこの女性の言うことをよく聞く。自分を捕えたアガルタ王、リノスでさえ、この女性の言うことには唯々諾々として従う。
別に、巨大な魔力を感じるわけではない。ラースのように恐ろしい腕力があるわけでもない。ただの、小柄な人間の女性にしか見えない。それこそ、今の自分でも、倒せてしまうのではないかと思うくらいだ。そんな女性に、龍王と対等に渡り合うことのできる、アガルタ王、リノスが従うのか。シャリオは不思議でならなかった。
「まあ、かわいいドラゴンですこと」
リコレットは、人化を解いたシャリオを見て、優しい笑みを浮かべている。そんなリコレットの瞳を、シャリオはじっと見つめる。
「その姿では、食事も不便でしょう。人化しなさいな。それとも、体調でも悪いのかしら?」
「……」
シャリオはリコレットを見つめたまま、人化を開始する。
「さて、食事にしましょう」
人化を見届けたリコレットは、ゆっくりと踵を返して、屋敷に向かって歩いていく。その後ろを、アリリアたちが付いていく。シャリオも、仕方なく彼女らの後に付いて行った。
「では、いただきます」
アガルタ王、リノスの声で朝食が始まる。この屋敷では、食事を摂るときには必ずリノスの声で始められる。たまに、彼がいないときには、先のリコレットが食事の合図を出す。こんな光景すらも、シャリオには信じられないことだった。
なぜ、皆で揃って食事を摂らねばならないのか。腹が減ればそのときに食事を摂ればいいではないか。にもかかわらず、時間を決めて、その通りに皆が集まり、料理に手をつけずに、ただ、大人しく声がかかるのを待ち、食事を始める。これに何の意味があるのか、彼女にはわからなかった。
加えて、この屋敷で出される食事はとても美味しいもので、シャリオとしては早く口の中に放り込みたい衝動に駆られるのだ。最初はその欲望を押し殺すのが大変で、いつも隣に座るフェリスに手を掴まれ、窘められていたのだ。
さらには、目の前の料理を不思議な道具を使って食べるという行為も、彼女を戸惑わせた。手があるのに、なぜわざわざこんな使いにくいものを使って食べねばならないのか。見よう見まねで道具を使って食べてはいるが、それが何を意味するのか、彼女にはわからなかった。
「わからないことは、聞けばいいのですわ」
不意にそんな声が聞こえた。話をしているのは、リコレットだった。彼女は娘のエリルに視線を向けている。
「わからないことを、わからないままで進めてしまうと、とんでもない間違いを犯すことにもつながるのです。わからないことは、すぐその場で解決するべきですわ。たとえ、人様に笑われてもいいのです。笑われるのは、一時のことですわ」
「そうだな。『聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥』と言うからな。わからないことがあれば、ドンドン聞けばいい」
そう言ってリノスも頷いている。二人の様子を見ながら、エリルは無言のままゆっくりと頭を下げた。
……そうか。わからなければ、聞けばいいのだ。
何か、シャリオの胸に、閃くものがあった。その一方で、また、一つの疑問が生まれた。
……この娘は、なぜ、黙っているのだ?
シャリオの視線の先には、黙々と食事を口に運ぶエリルの姿があった。何か、わからないことがあるのではないのか。にもかかわらず、彼女はどうして何も聞こうとしないのか?
……よし、彼女に聞いてみよう。
シャリオの眼が、キラリと光った。




