第四百八十三話 処断
そこは完全な独房だった。
四方を囲む冷たい石の壁。板の台に毛布一枚のベッド。隅に辛うじて腰の周りだけを囲むトイレの柵があって、中には少し大きめな穴が開けられていた。
埃とアンモニアの形容しがたい悪臭が鼻をつく。そんな部屋の中で、眉間に皺を寄せながら鉄格子にしがみついている者がいた。シーワだ。彼女はまだ事態が把握できないでいた。
予想もしていないことの連続で思考が追い付かなかった。なぜ、自分に逆心の疑いがかかっているのか。そして、新・クリミアーナの使者として現れた妹のギギ、トーイッツ……。
それを考える間もなく、気が付くと、周囲に体格の良い軍人が二人近づいて来て、無言でシーワとゲシカナ将軍を連れ出した。よく見るとその二人は、シーワの顔見知りだった。彼女の意のままに動かず、閑職に追いやった下士官だった。その彼らに手を離せと命じたが、彼らは無言のまま二人を部屋から引きずり出した。
その様子を宰相のローゼンハイムは冷たい目のまま眺めていた。そして、妹のギギは、薄ら笑いを浮かべていたのだ。
あのギギがなぜ……。気の弱かった妹が……。いつも私を追いかけていた妹が自分を裏切るなど、考えられないことだった。
……まさか、ドルガで何かあったのでは? ギギに何か、そして、トーイッツにも。
彼女の胸の中に、激しい衝動が突き上げてきた。
「誰か! 誰かいないの! 私はシーワです! 私は、副総司令官です! 私に対して、誰もこんなことはできないはずだわ! ここから出しなさい! ギギを、ギギを呼びなさい! 誰か!」
つかつかとやって来た看守が、鉄の格子を掴んでいるシーワの掌を短い棒でぶった。
「うっ!」
苦痛に呻くシーワへ顔を近づけて、憎々し気に口を開く。
「あんた、考え違いをしちゃいかんよ。あんたは、今は副総司令官でも何でもないよ。ただの罪人だよ。これから厳しい取り調べを受けなくちゃならない犯罪者だよ。今の帝国軍の総司令官は、リガワ・イージ閣下だよ」
「りっ、リガワ?」
意外な名前だった。その男は、宰相のローゼンハイムの部下で、有能な官吏だったが、甲高い声と、女の腐ったような、陰険なものの言い方をするために、シーワは嫌悪感すら抱いていたのだ。軍務経験のない彼がなぜ、帝国軍の総司令官に任じられたのか。そんなことをしたら、軍が混乱するのは目に見えていた。シーワは掌が紫色に腫れているのも忘れて、また鉄格子につかまって怒鳴った。
「だっ、誰がそんなことを決めたのです! 私の許可なしに」
「誰って皇帝陛下だよ。それとも次の総司令官を、アンタが任命するとでも決まっているのかい?」
シーワが答えに窮して黙っていると、その看守は再び口を開いた。
「大人しくさえしていれば、ローゼンハイム閣下は、情けも慈悲もあるお方だ。寂しがり屋のアンタのことを考えて、少しは寂しさが紛れるように、寒くないようにと今、差し入れ品がご到着だよ」
鎧姿の男に、髪の毛を掴まれて引きずりまわされるようにして、老人の男が現れた。彼は後ろ手に縛られていたが、やがて、シーワの前にやって来ると、手をほどかれ、無理やり腰をかがめるような姿勢を取らされて鉄格子をくぐらされた。その瞬間、男にその腰を蹴飛ばされた。
「うっ」
つんのめるようにして老人が中に入ってきた。
「あっ、あなたは」
シーワは四つん這いになっている老人を眺めながら、呻くように口を開いた。
肩で激しく息をしているのは、つい先ほどシーワと共に連れ出されたゲシカナ将軍だった。シーワと同様、身に着けていた鎧や剣は取り上げられ、ほとんど下着姿のような格好になっていた。しかも、すでに激しい取り調べを受けたのか、顔が紫色に腫れあがっていた。
「将軍……このお姿は……」
「いきなり……部屋に放り込まれた。……取り調べも何もなしで、いきなり……殴られたのだ」
余程悔しかったのか、将軍の肩が震えている。そして、ポタポタと雫が落ちる音が聞こえてくる。尊大だが若々しく、元気に動き回る壮年の男の姿はどこにもなく、ただの老人がそこにいた。
そのとき、向こうからローゼンハイムが、五、六人の男に護衛されてやって来た。故意か偶然か、牢の鉄格子の扉があいていた。ゲシカナはズボンとシャツだけの姿でいきなり飛び出した。
「おいっ……ローゼンハイム、これはどうしたことだ」
飛びつくようにしてまくし立てるゲシカナだったが、しかしそれよりも先、筋骨隆々の大男に首のところを押さえられ、うちわのような大きな手で両頬をびしゃんびしゃんと張られた。
「こら、ゲシカナ。宰相閣下に乱暴を働いちゃいかん」
ゲシカナの唇は切れ、歯は折れ、鼻からは二筋の血が出た。相当に強力なビンタだった。
その様子を、軽蔑の眼差しで見つめていたローゼンハイムは、冷静に口を開いた。
「ゲシカナ殿、おめでとう」
拳で血を拭いながら、ゲシカナは返答する。
「何がおめでとうだ。こんな目にあわせておいて」
「しかし、あなたには死刑が予定されていたのだよ。しかし、新・クリミアーナ教国からまたしても圧力がかかった。教皇から親書が届き、あなたとそこにいるシーワを助命するように頼んできたので、それをのむことにした」
意外な話だった。どうして新・クリミアーナ教国が自分たちの命を助けようとするのか。その厚意はありがたいとは思うが、だからと言っていい顔もできず、ゲシカナがむーっとしていると、ローゼンハイムはゆっくりと口を開く。
「教皇の助命要請がなければ、あなたらのような、何ら国家の役に立たない悪徳軍人は、即刻打ち首が適当と思っていたのだがね」
冷たい目のまま、ローゼンハイムはさらに言葉を続ける。
「その代り、今日中に帝国を出てもらう。そこにいるシーワと夫婦となってな」
「何ですって? ……宰相様、私とゲシカナ将軍を国外に追放して、軍の実権を握るおつもりですか。あなたは、この帝国を自分の思うままに操ろうと考えているのですか!」
「君たち二人が夫婦となり、以後、新・クリミアーナ教国における指定地で一切の公的活動をしないという誓約を行えば、刑を免除されて、出国を許される」
ローゼンハイムは、無表情のまま答えた。その表情は彼女らに速やかな決断を促しているように見えた。シーワはただ、項垂れるしかなかった。
「受け入れるようです」
「はぁい、わかりましたぁ」
ローゼンハイムの声に続いて、聞きなれた声が聞こえた。見るとそこには、いつの間にか妹のギギとトーイッツの姿があった。
「ギギ! ギギ! あなたは……ぐっ」
思わず飛び出して、ギギに飛びつこうとしたシーワだったが、やはりローゼンハイムを警護する男に取り押さえられてしまった。そんな姉の様子を、ギギは薄ら笑いを浮かべながら眺めている。
「ギギ……あなたは……どうしたと言うの? トーイッツ、トーイッツ!」
シーワの呼びかけに二人は全く反応しない。トーイッツは、何度も瞬きをしながら、呆然とシーワを眺めている。
「ギギ……ドルガで、何があったの?」
「私はぁ、選ばれたのですぅ」
「選……ばれた?」
「この世の生き神様であらせられるぅ、教皇聖下からぁ、祝福をうけぇ。こんな私にぃ、聖下わぁ、お側に仕えることぉ、お許しくだされたのですぅ」
「教皇……聖下? あの……ヴィエイユとかいう……」
「無礼者っ!」
信じられないことだった。ギギがものすごい剣幕で叫んだかと思うと、突然シーワの頬を打った。親にさえ手をあげられたことのなかった彼女にとって、妹のその行為は、激しく心を傷つけるものだった。
「あなたのようなぁ、下賤な者がぁ、教皇聖下の御名を呼ぶなど……不敬なっ! 神を冒涜することわぁ、許しませんからっ!」
「ギギ……」
もはや目の前にいる女性は、シーワが知っている従順な妹ではなかった。ありありと軽蔑の視線を向けているギギの姿を見ながら、シーワはただ、涙を流すしかなかった……。




