第四百八十二話 淫夢②
顔まわりに寒さを感じて、ゆっくりと目を開ける。夜明け前のようで、部屋はまだ、薄暗い。
ゆっくりと深呼吸をすると、吐き出した息が白い。それほど、この部屋は寒いのだ。
ゆっくりと毛布で顔まわりを隠す。これで、もう少し眠れるはずだ……。部屋の寒さとは打って変わって、体はほのかな温もりに包まれている。とても心地いい。もう少し、この感覚に包まれながら眠りたい……。
そのとき、何か強い力で抱きしめられる感覚を覚えた。
「ヴィエイユ……」
耳元で男の声が聞こえる。その声を聞いて、思わず笑みが漏れるが、敢えて何も言わずに、眠ったふりをする。
「ヴィエイユ……ヴィエイユ……ヴィエイユ」
男は、まだ半分眠りについている状態なのだろう。だが、にもかかわらずその手は、ゆっくりと体の上を這い廻り始めた。
「うふっ、うふふ……」
思わず笑い声が漏れてしまった。いけないいけない。と自分に言い聞かせる。
ベッドで眠っているのはヴィエイユだった。一糸まとわぬ裸で、毛布にくるまっている。その彼女の後ろには、これも一糸まとわぬ裸の状態で、左手を伸ばして彼女に腕枕をし、右手でその体を抱きしめている男性の姿があった。
男の手が、ゆっくりと彼女の体を撫でていく。
「きれいな肌……。まるで、絹のようだ……」
「嘘ばっかり……」
「本当だ……」
男の手は止まらない。だが、ヴィエイユはゆっくりと男の手を掴んで、その動きを止めさせた。
「これ以上は、いけません」
「どうして……」
「私はまだ、寝るのです」
「俺は、我慢できない……」
「じゃあ、一つ、お願いを聞いてくれますか?」
「ああ、何でも聞こう」
「お妃さまたちを……全員、追い出してください」
「何?」
「お妃さまたちがおいでになる限り、私はいつまでたっても、あなた様の一番の女にはなれませんわ」
「世界で一番お前を愛している」
「そのお言葉は何度もいただきました。今度はその証拠を見せてくださいませ」
「わかった。お前の望むようにしよう。安心しろ」
「ありがとうございます……キャっ」
気が付くと、男がヴィエイユに覆いかぶさってきていた。彼はヴィエイユの顔をじっと見つめながら、まるで喘ぐように呟いた。
「この胸、この体……。全て俺のものだ。俺は、お前なしでは、生きていけない……」
げっそりとやつれた頬……。そして、目の下には濃い隈を作っている。その男は……アガルタ王のリノスだった。そんな彼に対し、ヴィエイユは満面の笑みを浮かべる。
「ヴィエイユ……」
リノスの唇が、ヴィエイユの体中に押し付けられていく。くすぐったいような、心地よいような、何とも言えぬ感覚に包まれながら、ヴィエイユは得も言われぬ充足感に満たされていった。
……これで、すべては私のものになった。何もかもが、私のものになるのだわ。
「うふっ、あはっ、あははっ」
心の底から湧き上がる喜びを抑えきれずに、彼女は思わず笑い声をあげる。そして、その両手をリノスの背中に廻す。彼は、我慢しきれなかったように、ヴィエイユの体をせわし気にまさぐる。
「なっ……」
リノスが驚きの声を上げる。驚いた彼の表情を見ながら、ヴィエイユはゆっくりとリノスの上にのしかかるようにして、覆いかぶさった。それはまるで、リノスを上から押さえつける形だった。
「ヴィ……ヴィエイユ……」
まるで何かを懇願するようなリノスの表情……。その情けない表情を見ながら、ヴィエイユは、心の中で満足して頷く。
……これこそが、天下を馬上で眺め渡す形だわ。あの、お爺様でも見ることが叶わなかった景色を、私だけが見ている。
ついに祖父を越えたのだ。あの祖父を……。そう考えると、彼女の心は何とも言えぬ充足感で満たされていった。彼女はゆっくりと目を閉じる……。
「ヴィエイユ様……」
突然女性の声が聞こえる。驚きながら目を開けると、女性が心配そうな表情を浮かべていた。見慣れた景色……どうやらここは、自分の寝室のようだ。
「ヴィエイユ様……お目覚めになられましたか」
心から安堵した表情を浮かべる女性。この女性は、いつも自分の身支度を手伝ってくれている下女の一人だ。名前は……思い出せない。
「……うううっ」
思わず声が漏れる。何とも言えない倦怠感があった。だが、いつものそれとは違う。よく寝たという充足感がある。
ゆっくり体を起こす。隣に寝ていたはずのリノスの姿は、すでになかった。
「……リノス様は?」
「は? 恐れ入ります、今、何と……?」
「リノス様……」
「あのっ……。アガルタ王様でございますか……?」
「……」
ゆっくりと周囲を見廻す。窓からは燦々と太陽の光が差し込んできている。見事に整頓された、いつもと変わらぬ寝室の光景だ。
……夢?
相変わらず倦怠感が体を包んでいる。喉が渇いている。水……と言おうとしたとき、彼女の目の前に、水の入ったコップが差し出された。
「……」
無言でそれを受け取り、グイっと飲み干す。冷たい水が喉を潤していく。
「……美味しい」
「よろしゅうございました。お目覚めにならないので、本当に心配いたしました」
女性は、今にも泣きだしそうな顔をしている。そうだ。アガルタに行った帰りに、大学に立ち寄ったのだ。そこで、メイリアスに軽い診察を受けた。そして、睡眠不足を指摘されたのだ……。
「この薬を飲めば、ぐっすりと休めると思います」
優しい笑みを浮かべながら、メイリアスは小さな紙包みを手渡したのだった。
正直言ってヴィエイユは、メイリアスが差し出した薬の効果を信用していなかった。彼女自身も、八方手を尽くして眠りの効果のある薬を探させていたのだ。だが、そのどれも効くことがなかった。
彼女には一つの悪癖があった。一旦、深く集中してしまうと、眠れなくなってしまうのだ。それはそれで、彼女にとってはメリットもあるのだが、眠れない日々が続くことによる体調の悪化は、諸刃の刃と言えた。
きっとこの薬も効きはすまい……。そんなことを思いながら、半信半疑でメイリアスの薬を口にしたヴィエイユだったが、どうやら思った以上に熟睡できたようだ。
「今、何時ですか?」
「11時25分でございます」
「11時?」
12時間以上寝たことになる……。これだけの睡眠時間を取ったのは、これまでの彼女の中で、なかったと言ってよかった。
ゆっくりと体を起こして、ベッドから降りる。薬のためか、体がフラフラする。
「お危のうございます」
侍女が思わずヴィエイユの腕を取って支える。その瞬間、彼女はハッとした表情を浮かべながら、恭しく畏まる。
「ご無礼を」
「いえ、いいのです。助かりました」
そう言いながらヴィエイユは浴槽に向かう。そこには、いつでも湯浴みができるように用意が整えられていた。彼女はいつもの通りそこで湯を浴び、冷水でその肌を磨き上げる。
「……」
自分の姿を鏡で写してみて、ヴィエイユは息を呑んだ。まるで、輝くような白い肌がそこにあったのだ。一瞬、彼女は自分の姿に見惚れた。
浴槽から出てきたヴィエイユを見て、侍女は目を見開いて固まってしまった。
「下着を、用意してもらえるかしら?」
「えっ? あっ、はい……ご無礼を……」
顔を真っ赤にしながら、侍女はその場を立ち去る。そして、用意された下着と衣装を身に着けたヴィエイユは、再び鏡の前に立つ。
「きれい……」
背後で侍女の声が聞こえる。
「あなた、名前は?」
鑑越しにヴィエイユに話しかけられた侍女は、一瞬、体を震わせる。
「この部屋を掃除してくれているのは、あなたですね? これだけ清潔にしてもらっている人の名前を知らないのは、失礼になります。お名前を聞かせてください」
「サ……サリエラでございます」
「サリエラさんね。これからも、よろしくお願いしますね」
「かっ……畏まりました」
顔を真っ赤にしながら頭を下げるサリエラ。その姿を鏡越しで眺めながら、もし、この肌を男たちが見たらば、どうなることだろうか。きっと、全員が息を呑むに違いない。
そんなことを考えていると、空腹感が襲ってきた。ヴィエイユは、部屋を出て、執務室に向かう。今日はそこで、食事を摂りながら、これからのことを考えてみよう……。
何となく、ではあるけれど、今日は何かいいことがありそうな予感がしていた……。