第四百六十九話 挑発
三つに分かれた軍勢はドルガに向かって進軍していく。その途中、突然チャンとワーカの二人が指揮する部隊が、それぞれ北と南に進路を変えた。残るマトカルが率いるアガルタ軍一千だけが、ドルガの正門を目指して真っすぐに進んでいく。
この光景は、バーリアル側にとって、奇異な動きに見えた。
正門を指揮する司令官であるデンザはこの動きを見て、正面の部隊は罠であると認識した。小勢だが、一糸乱れぬ歩調でこちらに向かって来ているのを見ると、おそらくかなりの練度を持つ部隊なのだろう。敵は、この部隊に攻撃を集中させ、その隙に北と南に展開した軍勢が、ドルガを攻撃すると考えた。
そうきたか。だが、この規模の軍勢では、ドルガの堀と城壁は越えられない。とはいえ、決死隊であれば、死に物狂いで向かって来るだろう。兵士たちが油断せねばよいが……。
そんなことを考えていると、正面に向かってきた軍勢が、弓矢や魔法が届くギリギリのところで、その動きを止めた。そして、中から一騎の騎士がゆっくりと進み出てきた。
その騎士は兜を身に着けておらず、近づいて来るにつれ、その顔がはっきりと認識することができた。
……あれは、女?
ドルガの兵士たちから、声にならない声が漏れていく。一体、何をしようとしているのか、彼らにはわかりかねていた。
実際、北と南に展開している軍勢は、その規模の大きさもあってか、まだ移動中であり、戦闘態勢が完了していないように見えた。そんな中で、ただ一人、しかも、女性の騎士がやって来るということは、戦いの常識に照らしてみても、あり得ないことだった。
……もしや、使者か?
そんなことをデンザが考えたとき、女性の騎士が声を上げた。
「私は、アガルタ王、バーサーム・ダーケ・リノスの妻であるマトカルと言う者だ。バーリアル軍の総司令官であるエルサック公爵殿下と、一対一の果し合いを申し入れたい!」
よく通る、美しい声だった。デンザは兵士たちに攻撃を仕掛けてくるまで、こちらから攻撃してはならぬと命令して、エルサックの許に向かった。
「……何? 女?」
報告を聞いたエルサックは、視線を宙に浮かせた。彼の後ろには、ロイスとシャリオが控えていて、相変わらずシャリオは無表情だが、ロイスは、何やら面白そうだと言った表情を浮かべている。
「その女は何と言っておるのだ?」
「総司令官殿と一対一の果し合いを行いたいと言っております」
デンザはてっきりエルサックは一笑に付すと思っていた。だが、彼の予想に反してエルサックの顔はみるみると青ざめていった。
「……その女、捕らえよ」
「は?」
「捕らえるのだ。余、自ら捕えてくれる。敵兵の規模は?」
「お、おそらく一千程度かと」
「ならば余は、それに倍する五千の兵をもって女を囲み、捕らえてくれる」
「お、お待ちください。このドルガを出ると仰せですか」
「奴らを囲んで、すぐにこの砦に引っ張り込めば、問題あるまい」
「し、しかし!」
「馬を曳け!」
そういうや否や、エルサックは立ち上がって部屋を出て行こうとする。デンザは後ろに控えていた二人に、総司令官殿を止めてくれと目で合図をする。
「ハッハッハ、公爵殿。五千などと中途半端なことはせずに、一万の軍勢で囲みなされ。そうすれば、女の一人や二人、すぐに捕らえられるだろう」
そう言って彼は立ち上がり、驚いた表情を浮かべるシャリオを促して、エルサックの後に続いた。彼らの後姿をデンザは、呆然とした表情で見送った。
しばらくすると、ドルガの正門付近が俄かに騒がしくなった。いよいよ来るか? と思いつつ、マトカルは気を引き締める。不思議なくらいに恐怖心はない。これまでは死を覚悟して戦場に赴くことが多かったが、今回に限って言えば、死の予感が全くない。むしろ、絶対に今回の作戦を成功させねばならないという自負と、成功に導く自信が漲っていた。
一方のエルサックも、気持ちを高揚させていた。彼は正門に向かいながら、本国への帰還の可能性が生まれたことに、心を躍らせていたのだった。
……アガルタ王の妻を捕らえることができれば、それを人質にして、交渉することができる。ワーロフとアガルタは縁続きだ。決して粗略には扱えない。それに、勇猛で鳴るアガルタ軍の司令官を捕らえたとなれば、我がバーリアル軍の威信も上がる。本国に帰ればきっと、名将と呼ばれるのではないか。少なくとも、無駄飯ぐらいなどという蔭口は叩かれぬようになるだろう。バーリアル王家の中での地位向上には、大きく役立つことは確実だ。そんなことを考えながら、彼は足早に正門に向かう。
彼は到着するとすぐに門の上に上り、状況を確認した。なるほど、一人の騎士がポツンと佇んでいて、その後方に一軍が控えている。規模もかなり少ない。これはすぐに捕らえられるだろう。そう確信した彼の耳に、マトカルからこんな声が聞こえてきた。
「総司令官のエルサック公爵は、バーリアル王家の中でも、不肖の王族と噂に聞くが、やはり左様か?」
エルサックの中で、何かがはじけた。それは事実ではあったが、彼の前では言ってはならぬ一言だった。
「敵は寡兵だ! 今だ! 今のうちに攻め立てろ! あの女を捕えるのだ!」
エルサックは声を枯らしながら叫んだ。彼にとって、目の前の戦いは負ける要素のない、勝つものだと決め込んでいた。彼にはこの戦いは、遊びのように思われた。エルサックの下知に従って、バーリアル軍は門を開き、そこを守っていた兵士たちが次々とマトカルに向かって出撃していく。それを見届けた彼女は馬首を返して後退していく。そして、それと入れ替わるように、後方に控えていた軍勢が、彼女の前に繰り出してきた。彼らは見事に統率の取れた動きでマトカルの周囲を囲み、迫り来るバーリアル軍を迎え撃ちながらゆっくりと後退していく。
「攻めよ! 攻め立てよ!」
エルサックはそう言いながら自らも馬に乗り、城門の外に駆け出して行った。それを見たデンザはすぐさま自分も馬に乗り、エルサックを追いかけた。彼は追いかけながら必死で兵を退いて陣を整頓するように進言した。だが、エルサックはその言葉を上の空で聞いていた。目の前の敵を追うのに夢中で、デンザの言葉は耳に入らなかった。
彼はエルサックの馬の轡を抑えて、大声で叫ぶ。
「お退き下さい! ドルガを出てはなりません! 総司令官殿!」
エルサックはデンザを睨みつけた。わかったような顔をして、自分に退けと命令してくる彼が憎らしかった。家来のくせに、バーリアル王家の王族たる自分に向かって……。エルサックは怒鳴り返した。
「誰の命令であろうと余は退かぬ。戦場には応変の処置というものがあるはずだ。今だ、今を置いて勝利はないのだ!」
エルサックは馬に鞭を当てるが、デンザに轡を取られている馬は走ることができず、デンザを中心にして円を描いた。
「馬の轡を放せ! 放さぬか!」
エルサックは鞭を振り上げてデンザを殴ろうとした。
敵の中から反撃のどよめきが上がったのは、そのときだった。
ちょうどその頃、ロイスとシャリオは馬に乗って、ドルガの外に駆け出していた。
「中の兄さま、一体何を」
「決まっているだろう。引き上げるのだ」
「あのドルガはどうするのだ?」
「先ほども言っただろう。守るも放棄するも、奴ら次第だ。まあ、ドルガを出てしまった以上、ヤツらに勝ちはないがな。とはいえ、あの公爵殿には、精神魔法で少しばかり、己への高揚感を高めておいた。あとはあの公爵殿が何とかするだろうし、最早、俺の知ったことではない。本当はもっと派手にいきたかったのだけれどな。まあ、この辺が潮時だろう」
「我々はこれからどこに向かうのだ?」
「決まっているだろう。アガルタ王、リノスの所だ」
「……」
「どうやらヤツはあの軍勢の中にはいないようだ。となれば、ヒヤマにいるに違いない。ヤツを攫って、俺たちのパーティーの総仕上げといこうじゃないか」
不敵に笑うロイスを、シャリオは不安そうな面持ちで眺めていた。
空はすでに、晴れ渡っていた。