第四百六十四話 愚策?
「申し上げます。西側に軍勢が展開しております。山から下りてきたところをみると、アガルタ軍のようです。攻撃が始まるようです!」
伝令の兵士が片膝をつき、早口でまくし立ててくる。その彼の視線の先には、ロイスとシャリオの姿があった。彼らは西の方向を見つめながら、無言で立ち尽くしている。
「……来たか。おそらく前回と同じように、盲目的に突撃してくるのだろう。全軍に迎え撃てと伝えろ」
「ハッ」
シャリオの命令を受けて、兵士は脱兎の如くその場を後にしていった。
「中の兄さま、私も持ち場に……」
「待て」
「兄さま?」
ロイスは先ほどから体勢を変えず、ひたすら西の方角を眺め続けている。彼は鋭い眼差しを向けていたが、やがてその表情を崩し、ニヤリとした笑みを浮かべた。
「アガルタ王らしき者はいないようだな……。しかし、何だあれは?」
ロイスの視線の先には、ゆっくりとこちらに向かって歩を進めて来る一軍があった。その軍勢は少しずつ小規模の隊に分かれていき、やがて、少しずつ隊を斜めにした格好で陣形を整えた。
「あれで、この要塞を攻撃するつもりか? うはははは。戦ってみれば、噂ほどにもないな。あの軍を指揮しているのは、かなりの凡将だぞ?」
カラカラと笑い声をあげるロイス。そんな兄の隣でシャリオは、一抹の疑問を感じていた。
……勇猛で鳴るアガルタ軍が、果たしてこのような愚策を取るのだろうか?
そんな彼女の疑問は、すぐに氷解することになった。隊列を整えたアガルタ軍はゆっくりとこちらに向かって来ていたが、弓矢や魔法が届くギリギリの位置で突然その歩みを止めた。
訝る将兵たち。だが、そのとき、アガルタ軍の隊列がぐるりと向きを変え、元来た方向に向かって突撃を始めた。
「な……何だ? 引き返していく……のか?」
兵士たちは唖然として、アガルタ軍の動向を見守った……。
◆ ◆ ◆
その頃、ヒヤマの砦では蜂の巣をつついたような騒ぎが起こっていた。
兵士たちの目の前には、目もくらむような大きな船が迫ってきていた。その船の両舷からは大砲と思われる筒が伸びており、隊列を整えながら、それらは正確にこの砦の方向を向いていた。わずか五百の兵士たちは、その大砲からの攻撃に備えるための防御態勢を構築しようとしていたが、何の手立てを講ずることもできなかった。
「兵士たちを持ち場に付かせろ! この砦の防御態勢は盤石だ! ちょっとやそっとの攻撃ではびくともしない、安心しろ!」
声を荒げているのは、この砦の守備を任されている司令官だった。安心しろと言っても、あれだけの大砲を目の前にしては、その言葉は全く説得力を持たなかった。海からの一斉射撃を食らえば、たちまちこの砦は灰燼に帰すことは明白だったからだ。そのとき、彼の前に一人の兵士が走り寄ってきた。
「司令官殿、あれを、あれをご覧ください!」
兵士の指さす方向に視線を向けると、何と、ドルガに向かったはずの軍勢が、こちらに向かって突撃を始めていたのだ。彼は悔しそうに歯を食いしばる。
「しまった! ヤツらの狙いは最初からこの砦だったのか!」
「司令官殿!」
兵士が絶叫にも似た声を上げている。山の上に陣取っていたアガルタ軍が今朝、下山して整列したときは、この砦を攻撃するものと思っていたが、彼らはその意に反して、ドルガに向かって歩を進めていった。ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、今度は海に展開していた船団が、ゆっくりとこちらに向かって来たのだ。彼は砦の守備兵全員に海からの攻撃に備えるように命令を下したところだった。
アガルタ軍は、斜めに隊列を組んでいる。これは、この砦を側面から攻撃するつもりであることは明白だった。いかに堅牢な要塞とはいえ、手薄なところを複数の場所から攻め込まれては、陥落することは目に見えていた。
それに、アガルタ軍が突撃してきたということは、昨夜、この砦の前方に展開しているワーロフ軍も突撃してくることは容易に想像できる。さらには、他の軍勢までも……。そう考えると、この砦が蹂躙された挙句、自分を含めた、ここを守る兵士全員が全滅することは、誰の目から見ても明らかなことだった。
司令官である自分はもちろん、真っ先に血祭りにあげられるだろう……。そう考えると、彼の体は無意識のうちに震えていた。
そのとき、頭上から一枚の紙が落ちてきた。訝りながらそれを拾い上げて、中身を見てみると、こんなことが書かれてあった。
『降伏すれば、兵士全員の命を助けます。 ――アガルタ王・リノス
追伸:降伏の際は、全員に美味しい食事をご馳走します。皆さんに、口福という幸福を約束します』
司令官の男は一瞬眉間に皺を寄せたが、やがて、傍に控えていた兵士に早口で指示を与えた。
◆ ◆ ◆
アガルタ軍のこの動きを、ワーロフ軍側は、理解することができないでいた。
てっきりドルガに向かって突撃すると思い込んでいたギギは、その動きを、目を丸くしたまま、無言でじっと見据えていた。同時に、彼女の傍に控えていたチャンとワーカの司令官も、その動きをただ見守るしかなかった。
「え? う? あ?」
ギギの口から頓狂な声が上がる。彼女らの目の前では、信じられない光景が広がっていた。何と、アガルタ軍が隊列を整えながら、ヒヤマの砦に入っていったのだ。
「入って……行きましたやね?」
不思議そうな表情を浮かべながらワーカが呟いている。だが、彼の言葉に反応する者はいない。一体何が起こったのか……。ただ茫然とヒヤマの砦を眺める他はなかった。
しばらくすると、砦から数人の騎士が現れ、ゆっくりとギギたちのいる陣所に向かってきた。彼らは近くまで来ると、大音声を上げて、こんなことを伝えてきた。
「アガルタ軍総司令官のクノゲンと申します。ヒヤマの砦は先ほど、我々に降伏いたしました。現在、特に大きな問題は発生しておりませんので、援軍の類は不要です。まずは取り急ぎ、ご報告いたします。それでは!」
そう言うと彼は踵を返し、従えていた兵士たちを伴って、砦に戻っていった。
「えっと……あの砦は、アガルタ軍が落とした……。それで、よごさんずか? よござんすね? それでは、あっしらは……帰陣しやしょうか?」
ワーカがチャンに促す。それを受けて、チャンは巨体をゆすりながら馬の轡に手をかけた。
「ヒヤマの砦をアガルタ軍が抑えたとならば、戦いの展開も変わってくるだろう。ここは一旦本陣に帰って、作戦を練り直さねばならないだろう。ワーカ、お前の言う通り、帰陣するとしよう」
彼は馬に乗りながら、まだ信じられないという表情を浮かべたままのギギに向かって声をかける。
「おいギギ、何をしている。置いていくぞ」
「受け取りましょう」
「何?」
「あの砦を……受け取るんです」
「何を言っているのだ、お前は?」
「あの砦に、我が帝国の兵を入れるのです。それに……アガルタは命令違反を犯しています。突撃を……敢行していませぇん。今すぐアガルタ軍を詰問しなければなりませぇん!」
少しずつ現実を理解し始めたのか、ギギの口調が少しずつ荒くなっていく。そんな彼女を、チャンは忌々しそうに眺めながら、ゆっくりと口を開く。
「そんなことは後だ。今、そんなことをしてみろ。アガルタがあの砦を放棄して帰国でもされたらどうするのだ。我々は三百の兵士しか連れて来ておらぬのだぞ? それだけの手勢であの砦が守り切れるか? 中にはバーリアルの兵士たちも多くいるのだぞ。我々だけの手勢で押さえきれる数ではないぞ。あの砦はアガルタに任せておけ。百戦錬磨の兵士たちだ、十分にあの砦を守り切るだろう。それよりも先に帰陣して、報告をするべきだろう。違うか?」
チャンの言葉に、ギギは鋭い視線を向けていたが、やがて無言のまま馬に跨り、そのままワーロフ軍本陣に向かって行った。
「全く、子供か、アイツは!」
忌々しそうに呟きながら、チャンは馬に鞭を入れる。その様子を、ワーカは苦笑いを浮かべながら眺めていたが、やがて彼も、兵士たちに引き上げの命令を出しながら自分の馬に鞭を入れ、本陣に向かって行った。