第四百五十四話 偵察
「すげぇな……」
目の前の光景に、俺は思わず声を漏らしていた。それほど、ドルガという街の防衛体制は、完ぺきなものだった。見事に配置された堀と城壁……。これを打ち破るのは至難の業と言えるだろう。
今、俺はイリモの背に跨り、上空からドルガの街を見下ろしていた。当然、周囲には結界を張ってあるし、そこには空の色と同化する効果を付与しているために、敵が俺たちを発見する心配はないと言ってよかった。
それにしても、見れば見るほど、立派な要塞だ。敵はこれを一週間で作り上げたのだという。まさしく、敵ながら天晴と言った仕事ぶりだ。そんな有能な魔術師がいること自体、かなりの脅威であるはずなのだが、なぜか俺の心の中は、そうした感情よりも、一度、そんな優秀な魔術師に会ってみたいという思いが湧き上がっていた。
いやいや、今は戦いの最中だ……。そうやって自分に言い聞かせながら湧き上がる感情を押し殺す。
「ちょっ……くすぐったい……」
突然声が聞こえる。これは、マトカルだ。彼女は俺の前に座り、カリカリとペンを走らせている。
当初、このドルガの偵察には、俺一人で行くつもりだった。だが、俺がイリモに跨ったのを見たマトカルが、自分も行くと言い出したのだ。
「ただ、ドルガを見るだけ……なのか?」
「何だマト、他に何かあるのか?」
「その情報を皆に共有しないのか?」
「うん? どういうことだ?」
聞けばマトカルは、軍人時代に斥候の訓練を受けたことがあり、実戦でも何度も経験しているのだという。その際に、自分が見た情報を正確に上官たちに報告することを徹底的に教えられたのだそうだ。
「一人だと、その者の感情や価値観が入ってしまい、正確な情報が伝わらないことがあるのだ。そのために、偵察は複数人で行くのが基本なのだ」
確かに、マトカルの言うことにも一理あると考えた俺は、彼女もイリモの背中に乗せ、ドルガの街に向けて飛び立ったのだった。
「落ちるなよ、マト」
「大丈夫だ」
彼女を背中から抱きしめながら呟く。マトカルは手に持っていた板に紙を載せ、そこにペンでドルガの街を写生しているのだ。
「……上手いな」
「見たものをそのまま書き取るスキルは、軍人として必須だ」
そんなことを言いながら、彼女は手際よく街の風景を描いていく。最初はラフに描いていたが、そこから少しずつ手を加えていく。すると、まるで写真に写したかのような、見事な絵ができあがっていく。
「……すまない。揺らさないで欲しい」
誰に言うともなく呟くマトカル。その声を聞いてイリモは翼を調整したのだろうか。上下に揺れていたのが、ピタリとやんだ。俺も思わず彼女をギュッと抱きしめる。
「リノス様、それは、大丈夫だ」
そんなことを言いながら彼女は苦笑いを浮かべている。俺は彼女の写生を邪魔しないように、ゆっくりと彼女の肩に顎を載せ、目の前のドルガの街を観察し始めた。
……見れば見るほどに、見事な要塞だ。俺ならば、どう攻めるだろう。いや、攻められないな。あの堀と城壁の位置だ。あそこに弓矢と魔術師を配置すると、十字砲火を食らうことになる。余程の軍勢をもって攻めかからないと、突破は難しい。そう言った意味で、ライッセンが十万の援軍を要請したのはある意味で正解だ。数を頼んで全方向から攻めかかり、中の兵士たちの疲労を待つというのも作戦の一つではあるだろう。ライッセンはそこまで考えていなかっただろうが。ただそれは、あまりにも犠牲が大きすぎる。その作戦を取るべきではない。と、すれば、どう攻めればいいだろうか。
何と言うか、この要塞を見ていると、不思議な感覚にとらわれる。何としても、この要塞を攻め落としたいという感覚になる、何とも言えない魅力があるのだ。できれば俺が先頭を切ってこの要塞に切り込みたい。そして、何としてもここを陥落させてみたいと思わせるのだ。
「恐ろしいな」
俺の興奮を窘めるかのように、マトカルが静かに呟く。俺は彼女を抱きしめたまま、目だけを動かして彼女を見つめる。
「見事な要塞だ。難攻不落と言っていいだろう。これは、軍人としての血が騒ぐ」
「やっぱり、マトもそうか?」
「いや、以前の私ならば、全知能、全能力を駆使してこの要塞を落そうとしただろう。だが、今はそんな気持ちになれない」
「ほう、そうか……」
「子供を産んでしまったから……か。血は騒ぐが、今はむしろ、攻めるべきではないという思いの方が強い」
そう言いながら彼女は、描いていたドルガの絵を丁寧に懐に仕舞った。
「あの要塞に手を出すべきではない。地味だが、大軍をもって要塞を囲み、海を封鎖して食料を断って日干しにする他はないだろう。その上で、敵に内通者が出るように仕向けて行くのが、一番の策だ」
「なるほどな。確かにそうだ」
「ただ、もう一つ策がある」
「ほう、何だ?」
俺の質問に彼女は応えず、ゆっくりと視線を俺に向け、じっと俺の目を眺める。
「リノス様のスキルを……全力を出せば、あの街を一瞬で灰燼に帰すこともできるだろう」
「あー」
確かに。例えば今、俺がこうしてイリモの背中から全力で攻撃をかければ、あの街は一瞬で何もなくなるだろうし、そうする自信もある。だが、直感的にそれをするべきではないという考えも、俺の頭の中にはよぎるのだ。
「それは、あんまりやらない方がいいな」
「私もそう思う。今回は、リノス様のスキルは徹底的に秘匿した方がいいと思う」
「どうしてだ?」
「女の、カンと言うやつだ」
「うふふ。実は、俺も同じことを考えていたんだ。マトも同じ考えでいてくれて、うれしいよ」
そう言って俺は、彼女の頬にキスをする。マトカルは顔を真っ赤にしながら、俯いてしまった。その表情が、実にかわいい。
「さあ、帰ろうか」
「いや、ちょっと待ってくれ」
「どうした?」
「その……もう一つ、砦ができているだろう? そこも一度、見ておくべきだと思うのだ」
「ああ。一夜でできたという、アレか」
「せっかくここまで来たのだ。見ておくに越したことはないだろう」
「そうだな」
俺はイリモに西に向かうように伝える。彼女は俺の意図をすぐさま察して、翼を西の方向に向けた。
「すっ、すまない。リノス様も色々とやりたいことがあったのだろうが……」
「いいや構わないよ。俺も、しばらくこうしてマトを抱きしめていたいと思っていたところだったんだ」
「ううう……」
マトカルは再び顔を真っ赤にしながら俯いた。そして、自身の腹に当てられているリノスの手に、やさしく手を添えた。
イリモの翼は高速で上空を移動する。二人の甘い時間は長くは続かず、マトカルは再び顔を上げて目の前に広がる光景を眺めた。
「……ここも、大変な要塞だな」
マトカルは心の中で唸っていた。先ほど見たドルガの街に勝るとも劣らない防衛態勢が敷かれていたからだ。彼女はそのあまりの見事さに一瞬、我を忘れた。
「予想以上だな。ここも、完璧な作りだな」
誰に言うともなくリノスが呟く。その声と共に耳にかかる彼の息遣いをくすぐったいと思いながらマトカルはゆっくりと頷く。
「これだけの要塞を二つも持つ国と戦わねばならんとは……厄介だな」
「ドルガを攻めれば、この要塞の兵から背後を突かれる。この要塞を攻めれば、ドルガから攻められる……。意外と、大軍をもって一気にドルガを抜くのも、逆に効果的かもしれないな」
「リノス様……」
「わかっている。力攻めは、不幸にしかならないからな。さて、どうするかな……」
「リノス様……その……息が耳に……くすぐったい……」
「ごめんごめん。すまないついでに、この要塞も写生してくれるかな」
「わ……わかった。もとより、そのつもりだ。ただ……耳に息をかけるのは、やめてくれ。集中できなくなる」
彼女は再び懐から紙を取り出し、目の前の砦を描き始めた。やめてくれと言ったのにもかかわらず、やはり耳に当たるリノスの息遣いをくすぐったいと思いながら、彼女はペンを走らせるのだった。