第四百五十二話 ウエスギケンシン
低く垂れこめた雲が空を覆いつくしている。何やら天変地異が起こりそうな気分になるような空模様だが、ワーロフ帝国軍副総司令官であるシーワの表情は、明るかった。
彼女は手元の報告書を満足げに眺めていた。一枚一枚の報告書に目を通しながら大きく頷いている。
彼女の許には、援軍要請を出した国々から続々と援軍を送る旨の返答が寄せられていた。帝国の西側の国々に片っ端から送ったのが功を奏したのか、すでに、七か国から要請を受けるという返事が届き、続々と到着していたのだった。
各国は、彼女が出した、最低三千の規模の軍勢という条件も呑んでくれていた。現在のところ二万を超える規模の援軍を得ることができている……。彼女の頭の中で、その軍勢をどう使おうか……そんなことを考え始めたそのとき、空から一通の書簡が落ちて来た。
そこにいた全員が、あまりの予想外のことに固まる。シーワは周囲の幕僚たちに視線を向けるが、誰も反応を示さない。彼女はトーイッツに視線を向けると、無言のまま顎をしゃくった。彼はビクンと体を震わせたが、やがてオドオドとした様子で立ち上がり、まるで熱いものを触るかのように、注意深くその書簡を手に取った。彼はシーワにそれを渡そうとするが、彼女は再び顎をしゃくる。その意図を察して彼は、ゆっくりと書簡を開き、中身を確認し始めた。
「ア……アガルタ軍一千が、到着したようです」
「アガルタからの書簡ですか?」
「だと……思われます」
「見せて」
シーワはトーイッツの手から書簡をひったくると、無表情のままそれに視線を向ける。
「オランザルタ山の麓に、アガルタ軍が到着したようです。すぐに伝令を遣わせてください」
彼女は周囲の幕僚たちを一瞥すると、無表情のまま言葉を続ける。
「来援いただいた各国の皆様と軍議を行います。皆さん、準備をして下さい」
その表情には、先ほどまでの機嫌の良さそうな雰囲気は、微塵もなかった。
◆ ◆ ◆
ちょうどその頃、リノスたちはワーロフ帝国内に到着していた。彼はしばらく周囲を伺うと、マップを展開させて周辺の地形を調査した。そして、近くにある海を望む山の頂上に陣を張ることにしたのだった。
「……意外と波が静かな海だな」
「そうですな。晴れた日には対岸の大陸が見えますからな。海自体が狭いので、波も高くなりにくいのでしょうな」
水平線を眺めるリノスの後ろで口を開いているのは、クノゲンだった。彼はゆっくりと周囲を見廻している。
「それにしても、さすがですな。ここからですと、遥か彼方にドルガの街を望むことができますし、新しく作られた砦も、ここからなら一望できます。陣を張るにこれ以上ふさわしい場所はありませんな」
「いや、たまたまだ。そういう意味では、俺たちはツイているな」
そう言って二人は笑みを交わし合う。
「ところで、ここまでの道中は楽しかったか?」
「ええ。妻もあまり多くは語りませんが、それなりに満足しているようです」
「まあ、夫婦の思い出を増やせたのなら、今回の出陣の目的の半分は達成できたも同然だ」
「ハハハ、ご冗談を」
「ハハハ」
「冗談はそのくらいにして、今後のことを話し合いましょう」
笑い合う二人に割って入ってきたのは、ルファナだ。彼女は顔を真っ赤にしながら、二人に視線を向けている。その後ろにはマトカルも控えていた。リノスはにっこりと笑うと、二人に向かって声をかける。
「そうだな。今後のこと……といっても、今のところは待機だ。敵の出方を待つ」
そのとき、兵士の一人が彼らの前に現れ、片膝をついた。
「申し上げます。ワーロフ帝国側より、軍議を開くので本陣にお越しいただきたいとの使者が参りました」
「何と……ワーロフはもう、我々の動きを察知したのか。かなり優秀な情報網を持っているのだな」
「いいやマト、俺が知らせたんだよ」
「リノス様が?」
「ああ。この山に登る前にサダキチに手紙を持たせたんだ」
「……それで、か」
「ワーロフ側は驚いているだろうな」
「……」
「せっかくだから、軍議に行くとするか」
「承知しました」
「待ってくれ」
「どうした、マト」
「私を連れて行ってくれ」
「クノゲンではなく、か?」
「一応、この軍の総司令官は私だからな。それに……」
「それに、何だ?」
「……」
マトカルは顔を真っ赤にして俯いている。その様子を見てリノスは、もうしばらく二人っきりの時間を過ごしたいのだろうなと解釈した。そんなことを考えると、目の前のマトカルがたまらなく可愛らしく思えてくるのだった。彼はゆっくりと頷くと、マトカルと共にワーロフの陣に向かおうと促す。
「さてと、その前に準備をしないとな」
彼はそう言いながら懐から一枚の布を取り出した。
「マト、この端っこを持ってくれ。……じゃ、行くぞ」
リノスが布の端を持って引っ張ると、それがスルスルと広がっていく。すると、薄いわりに意外と大きな布が広がった。彼はそれを丁寧に二つ折りにしたかと思うと、ゆっくりと布を頭に巻き付け始めた。そして、目の部分だけを残して、その顔をすっぽりと布で覆ってしまった。
「リノス様……なぜこんなことを……」
「一応、俺の存在を秘匿するためだ。ソレイユとメイが作ってくれたものでな。魔力感知のスキルで俺を捉えることができにくくなるそうなんだ。上杉謙信みたいで、カッコイイだろう?」
「ウエスギケンシン?」
「ああ、知らないよね。軍神って呼ばれた武将なんだけどな。いや、こっちの話だ。あ、謙信は顔まで覆っていなかったっけな。このスタイルはどちらかと言うと、大谷吉継か? まあいいや。謙信と言うことにしておこう」
そんなことを言いながら、リノスは腰に差しているホーリーソードをゆっくりと抜き、切っ先を天に向けた。
「運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり。死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり。その決意を以て二心無きことを神に向かって誓うは、不要なり。我こそが……我こそが、軍神なり。……なんてね。あれ? どうした?」
周囲の兵士たちが彼を見て固まっている。マトカルもルファナもクノゲンも、目を丸くして驚いている。リノスはそんな周囲に視線を向けながら、戸惑った様子を見せる。
「うっ……うおおお!」
「うおおおおお~~!」
「うおおおおおおお!!」
突然兵士たちから声が上がる。その声はすぐに大きくなっていき、リノスの周囲は大歓声に包まれた。彼は戸惑いながらも兵士たちを抑えようと、剣を鞘に仕舞い、両手を挙げて応える。だが、兵士たちの興奮は収まらず、彼らは両手を突き上げて大声を上げている。
「「「リノス! リノス! リノス! リノス! リノス!!」」」
「おい、クノゲン、マト、ルファナちゃん。黙って見ていないで、何とかしてくれ」
焦ったリノスの声を受けて、我に返ったクノゲンたちが大声で兵士たちを宥めているが、なかなかその興奮は収まらない。
「おいマト、お前も何とかしてくれよ」
「ううう……」
「どうしたんだ? 俯いて……。体調でも悪いのか? ……マト?」
「う、う、う……」
「大丈夫か?」
心配そうな表情を浮かべながら、リノスはマトカルの顔を覗き込む。彼女は顔を真っ赤にしながら、右手を胸の前で握り締めている。
「……した」
「え? 何だって? 兵士たちの声がうるさすぎて聞こえないんだ」
「……なおしたのだ」
「なおした? 何をだ?」
マトカルは真っ赤な顔のまま顔を上げ、リノスをキッと睨みつけた。
「ほっ、惚れ……惚れ直したのだ! 何度も言わせないでくれ!」
再び俯くマトカル。その様子を見てリノスは、嬉しそうに笑い声をあげるのだった……。