第四百三十六話 善意の第三者
アガルタの都の北東に位置するルノアの森。その奥深くに、一匹のドラゴンが羽を休めている。漆黒の体躯を持ち、二枚の大きな羽を持っていて、その姿は不気味さを感じさせる。
これは言うまでもなく、はぐれ黒龍のシャリオだった。彼女はグッタリと地面に倒れこむ。
……一体、何なのだ、あそこは。……こんなに疲れるなど、いつ以来だろう。
正直、手も足も出なかった。アガルタの都に入ることが全く出来なかったのだ。それどころか、城門から兵士が飛び出してきて、攻撃される始末だったのだ。
自分では完璧に運んだつもりだった。ドラゴンの姿ではいけないことはわかっていた。そのため、人化して都に侵入しようとしたのだ。とある女性に目を付け、それと同じように作り上げたのだ。どこからどう見てもひとりの少女……。だが、西の門を潜ろうとしたそのとき、体中に激しい痛みを感じて、前に進むことができなかった。生まれて初めて感じる痛み……。まるで、鱗の中を鋭い刃物で激しくえぐられるような痛みが体中を貫くのだ。これにはさすがのシャリオも悲鳴を上げてしまった。
一体何事かと集まる都の人々。そして、兵士たち。彼女はそんな人々を全く無視する形で、門の中に進もうとするが……。やはりすさまじい痛みがその体を襲い、再び彼女は絶叫とともにその場に蹲った。
「おい、何かあの女、おかしいぞ」
「結界に阻まれている……ということは、邪悪な心を持っているということか」
「うむ、かなり高位の魔物かもしれん。マトカル様を呼ぼう」
知らせを受けたマトカルは、すぐさま精鋭部隊を率いて西門に向かった。
「……ただの少女ではないか?」
その少女を一目見たマトカルの、正直な感想がそれだった。禍々しさは一切感じず、褐色の、どこにでもいそうな少女だった。だが、自分と目が合ったとき、彼女の目から発せられる異様な光とその威圧感はタダ者ではなく、マトカルは瞬時に討伐を決意したのだった。
「油断するな、訓練通りせよ!」
兵士たちは訓練通りに槍を繰り出していく。まずは足元を重点的に攻撃する。もし、魔物が人化しているならば、翼を出すなどして空に飛び上がるからだ。だが、少女はそんなことは全くせず、流れる動きでその槍を見事に躱していく。
……やはり、タダ者ではない。
少女の体裁きを見たマトカルは、瞬時にこの個体が人間ではないことを察した。
「囲め!」
理想を言えば、気絶させて捕らえることだが、どうもそうも言っていられないようだ。彼女は、少女の命を奪う覚悟で攻撃命令を出す。だが、少女は脱兎の如くその場から逃亡を図った。
……速い。まるで風のような速さだった。それでもマトカルは馬を駆り、少女を追いかけてはみたが、その速さに馬の脚では追いつくことはできなかった。
シャリオは走った。人化を解けばさらに攻撃されるであろうことは、本能的に感じ取ることができていた。そのため彼女は、慣れぬ人族の体を駆使して、必死で駆けた。そして、気が付けば森の中にいた。彼女は周囲に気配がないのを確認して、人化を解いた。
シャリオは、自身の能力に自信を持っていた。兄たちよりも優れたスキルを持っていると思っていた。この世の中は、上には上がいるという兄、ツネの言葉が、ここに来てようやく理解することができた。
彼女は考える。何故、あのような痛みを感じたのかと。
ドラゴンは固い鱗に覆われているため、物理的攻撃はもちろん、魔法での攻撃も通じないというのが、彼女の考えだった。例外的に、兄たちドラゴンの力であれば、その鱗は砕かれる。彼女も兄たちの牙で、何度鱗を割られたのかわからない。だが今回は、鱗については全くの無傷であったにもかかわらず、その体に痛みを感じた。まだ、その痛みは体に残っている。
……どうやって、私に攻撃を加えたのか。
彼女は思考する。おそらく、鱗と鱗の間から魔力が入って、直接肉体に攻撃を加えたのか。
考えても答えは出ない。そのとき、彼女は何かの気配を感じ取った。これは……?
彼女の周囲には、不気味なほどに生き物の気配がない。この森にいる魔物は、彼女がドラゴン、しかも高位の黒龍であることを本能的に感じ取っていた。言わば、食物連鎖の最上位に位置する個体がいるのだ。その近くにいることは即ち、自身の死を意味する。そのために、森の魔物は、彼女から遠く離れた位置に避難していたのだった。
彼女は、注意深く気配探知のスキルを駆使して、近づいて来る者を探る。どうやら、馬と人間が近づいて来ているようだ。大抵の生き物は、自分の気配を察して距離を置いている。にもかかわらず近づいて来ているこの者たちは、相当のスキルを持っているか、ドラゴンの気配すら察することの出来ぬほどの低スキルかのどちらかだろう。気配探知からは、高いスキルは感じ取ることができない。だが彼女は、最悪の状況を想定して、ひとまず人化してその姿を隠すようにした。
しばらくすると、彼女の前に一台の馬車が現れた。そして、その馬車は、彼女のすぐ前まで来ると、ぴたりとその動きを止めた。
「あれ? おい、どうした? 何だ?」
御者台で馬を操っている男が、頓狂な声を上げる。彼は御者台から飛び降りて、止まっている二頭の馬に声をかける。
「おい、早くこの森を抜けなきゃならないんだ。こんなところで休んでいる暇はないんだよ」
「どうした、兄弟?」
馬車の中からもう一人の男が顔を出す。彼もまた、馬車から降りてきて、二頭の馬を優しく撫でる。
「俺たちゃ早くアガルタの都に着きたいんだ。あと少しでこの森を抜ける……。もう少し頑張ってくれろ」
「あれ……何だ、あれは?」
男の一人が、何かを発見したように、足早に歩き出す。そこには、褐色の少女が横たわっていた。
「どうしたんだ、兄弟?」
慌てて後を追ってきた男が声をかける。二人の目の前には、ワンピースのような服を着た、一人の少女が倒れていた。
「……女の子だ」
「そのまんまじゃねえか」
「何で、こんな森の中に?」
「知るもんか」
「どうする?」
「どうするって……あ、目が開いているぞ。おい、どうしたんだ? 何でこんなところで倒れているんだ?」
シャリオは何と答えていいのかわからない。まさか、これまでの経緯を語って聞かせるわけにもいかないし、話したところで、彼らに通じるとは思えなかった。
「きっと……奴隷として売られる途中に捨てられたのかもな」
「いや、冒険者かもしれねぇぞ」
「それにしちゃ、装備が全くお粗末だ」
「とりあえず、都に連れて行くべ。このまんまじゃ魔物の餌食になっちまう」
「……そうだな」
そう言って二人はシャリオを抱き起して、馬車の中に連れて行く。
「そーら、コイツを纏ってな」
男の一人が、馬車に積まれた箱の中から一枚の薄い布を差し出した。
「こいつはな、『ハイドのマント』と言って、魔力や気配を消してくれる優れもんだ。俺はシーバ。んで、こっちが、ダーオだ。二人で冒険者をやりながら、色んなところでいろんな物を売っているんだ」
「まあ、冒険者って言うのは自称だ。ギルドに登録はしているが、最低ランクのFランクだ。実際は、こうやって魔物たちから身を隠しながら、色んな場所で仕入れたものを別の場所で売っている……言ってみりゃ商人みたいなものさ」
「お前さん、名前は? ……まあ、言いたくなければ言わなくていい。取りあえず、都まで送ってやっから、そこから先のことは、着いてから考えな」
そう言ってシーバは御者台の上に上がり、再び馬を走らせた。
この二人の善意が後に、世界を巻き込む大騒動に発展するなど、このときの二人には、知る由もなかった……。