第四百十話 臭い?
イヤな記憶が蘇る。そう、あれは前世の頃の話だ。
当時の上司に、社会経験だと言われて無理やりオカマバーに連れて行かれた。そこで俺は約2時間、お姉さまから口説かれたのだ。
「アンタ、かわいいわね」
「ありがとうございます」
「仕事は何をしているの?」
「プログラマーをしています」
「昼も夜も働く仕事じゃない。大変ねぇ」
「はあ……」
「辞めちゃいなさいよ」
「えっ!? イヤ、でも、生活が……」
「アタシが面倒見てあげるわよ」
「え?」
「一緒に暮らしましょ。アンタ一人くらい、どうにでもなるわ」
「いやいや、それは……ハハハ」
「アタシと付き合ったら、人生変わるわよ」
「いっ、今の人生が気に入っています……」
ガッチリと腕をロックされ、それこそ、唇が触れるのではないかと思われるくらいの至近距離でひたすらに口説かれたのだ。うん。見た目は、とてもきれいなお姉さまだったが、自〇隊にいたらしく、その力はかなり強いものだった……。
そのときのことを思い出しながら俺は、自然に体が震えてくるのを止めることができなかった。
「お迎えに上がりました」
突然声が聞こえて、俺はビクッと体を震わせる。見ると、扉が開かれて、そこにレイラが相変わらず不機嫌そうな様子で立ち尽くしていた。
「えっ……その……」
「仕方がない。妾も一緒に行こうぞ」
「えっ!?」
ミークが立ち上がってそんな言葉を宣う。彼女はしばらく無言でレイラを見つめ続けていたが、やがて彼女は無言のままスタスタとその場を後にしていった。
「……やっぱり扉は閉めないんだな」
「リノス様、そこですか?」
シディーが呆れたような表情で突っ込んでくる。確かにそうなのだが、でも、気にならない? 結局あの扉は誰が閉めるのだろうか? 自動で閉まるのだろうか? そんなことを考えている俺の表情をシディーがじっと見つめてくる。
「……オホン。ミークも一緒に行ってくれるのか?」
「問題あるまい?」
「そ……そうなのか? いざとなったら、助けてね」
焼け石に水であるのはわかっている。だが、魔法が封じられているこの城で、これから何が起こるのかがわからない。そんな一抹の不安が、こんな弱気なセリフを言わせたのかもしれない。そんな俺をミークは怪訝な顔で眺めている。
「まずは、この水で体を清めよ。そなたもじゃ」
そう言って彼女は、シディーに視線を移す。
「私も一緒に……?」
「よいじゃろう」
「……」
シディーがホッとしたような顔になる。彼女も彼女で心配してくれていたのだと思うと、ちょっと嬉しくなった。これで、襲われる心配は半減したと言っていい。俺たちはミークの指示に従って、満々と湛えられているロスサの水に手を浸した。この水は抜群の殺菌効果があり、口に含むと、虫歯なども治ってしまうらしい。
「本来は体を漬けるのじゃが……。まあそのくらいでよいじゃろう」
「えらく詳しいんだな」
「数百年ぶりとはいえ、戻ってくれば色々と思い出すこともある。ここでよく着替えたものじゃ。懐かしいわぇ」
「え? ここはミークの部屋じゃないの?」
「妾の部屋ではない。ここは着替えるための部屋じゃ」
「はああ」
ミークの話によると、この部屋で色々と着替えを行うのだという。クローゼットの中には、そのときに着るべき服が収められていて、この部屋に入ると、無条件にクローゼットを開け、着替えるのが常だったそうだ。
「ということは、もしかして、この中に服が?」
「開けて見よ」
俺はミークの言葉に促されるようにして、ゆっくりとクローゼットの中を開けて見た。
「何にもない。……あれ? 何だこれは?」
クローゼットの床に、何やらビニールのような透明な物が置かれている。それを拾って開いてみると、レインコートのようなものが現れた。しかもそれは一枚しかなかった。
「それを着て行くのじゃ」
「誰が?」
「そなたに決まっておろう!」
何で俺がこんなものを着なければならないのか。そもそもこれは一体何なのか。鑑定スキルを発動してみるが、やはり何も見えない。シディーに視線を向けてみると、彼女も興味深そうにそれを眺めている。そして、俺に視線を向けると、コクリと大きく頷いた。どうやら彼女の直感では、着用して問題のないものらしい。
「それは着用すると、体の汚れを取るものです」
再び女性の声が聞こえる。驚いて声のした方向に視線を向けると、そこにはレイラが立っていた。彼女は面倒くさそうな表情を浮かべたまま、ゆっくりと口を開いた。
「王に謁見する際には、それを着ていただきます。先ほどはオルトー様が直接王の御前に案内してしまいましたが、本来はそれを着用していただくのが仕来りとなっております」
「それは……私たちが汚いから……ですか?」
シディーが遠慮がちに尋ねる。レイラはコクリと頷く。
「人族、とりわけ男は汚れています。その体から発する臭いは不快そのものです。久しぶりに人族の男を見ましたが、やはりその不快さは変わりません。早くそのウエイ・ローブを着用ください」
まるで汚いものを見るかのような視線を投げかけてくる。俺は渋々ながらレインコートを羽織ろうとする。
「……なあシディー。俺、臭い?」
「えっ!? そ、そんな、ことは、ありません、よ?」
「……臭いんだ」
シディーはブンブンと首を振っている。だが、その様子は「お前、臭いけれど我慢できるレベルだよ」と言っているように見える。俺は居た堪れなくなって、ミークに視線を向ける。
「妾は全く気にならんがの。人族の生活に慣れすぎたのかもな」
そう言って彼女はケラケラと笑う。気にならない、ってことは、やっぱり臭うんだ。おかしい。毎日風呂に入っているのだ。それなりに身だしなみには気を遣っているのだ。もしかして加齢臭? まだ20代のはずなのだが。いや、前世の頃から考えると、すでに40を超えているから、加齢臭が出てくるのも当たり前か。うん? いや、肉体は20代だから加齢臭は……。いやいや、それじゃないかもしれない。足が臭いのだろうか? 口臭? 一体俺の何が臭いのだろうか??
俺は思いっきり落ち込みながらレインコートを羽織る。するとレイラはふう―と息を吐き出して、じっと俺を眺め、やがてコクリと頷いた。
「臭いは消えたによって、父上の許に案内すると言っておる。さ、行こうぞ」
ミークの言葉が言い終わると同時に、レイラはクルリと踵を返した。
「……どこが臭いの?」
王の寝所に向かいながら俺は、シディーに小さな声で話しかける。彼女は小刻みに顔を振っている。臭くないよと言っているらしいが、どう見ても不自然だ。いや、臭いならそれでいい。ただ、改善できるのであれば改善していきたいだけなのだ。まあ、エルフが人族の臭いを嫌うのがわかっただけでも成果だ。それに、このレインコートを脱げば、最悪、エルフ王から体を求められたときの防衛策が取れる。
そんなことを考えながら俺はシディーを眺める。彼女は俺に視線を合わせなかったが、やがて、ゆっくりと顔を上げた。
「強いて言うなら……」
「何だい?」
「服に付けられている香りです」
「へ?」
「その服……独特の臭いがします」
「もしかして、防虫剤の臭いか……」
この世界でも洋服の虫食いというのは発生する。そのため俺もクローゼットに仕舞ってある服、とりわけ、余所行きの服に関しては、防虫剤を仕込んでいる。ちなみに、この世界で防虫剤は存在しない。俺がソレイユと共に開発したのだ。ただ、その防虫剤は虫が嫌う臭いを付けているだけという簡単なものだ。基本的に香りのしないように注意をしていたのだが、シディーには鼻をつく香りになっているらしい。
「あの……普段のリノス様は臭くないです。大丈夫です。むしろ私は好きです。その……お風呂上りなどはとてもいい匂いですし、その香りと一緒に寝るときは本当に……」
そこまで言うと彼女は顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「お待ちください」
そのとき、レイラの声が聞こえて、俺たちは我に返る。見ると、白い扉の前に俺たちは来ていた。どうやらここが王の寝室らしい。
俺はフッと深呼吸をして、気持ちを落ち着かせた。