第四百八話 予想外
心臓の鼓動が速くなる。いかん、落ち着け。落ち着くのだ、俺。
ゆっくりと息を吸い、ゆっくりと吐き出す。俺の動揺を悟ってか、シディーが俺の裾を掴んでくる。ここが正念場だ。
実は、ここに来る当初から、エルフ王の謁見が叶ったときのことをシミュレートしていたのだ。サンディーユの、ミーク姫がエルフの里に行くと殺されるという意見を受けて、俺たちはそれを防止する策を考えていた。
王との謁見が終了すれば、おそらく俺たちは追い返されるだろう。だが、彼女を城に一人残すというのは危険であるし、何をされるのかわかったものではない。むざむざ殺されに行くようなものだ。そこで、謁見終了後に、ミーク姫の方から俺たちに、礼をしたいと言ってもらい、彼女の部屋もしくは俺たちだけになれる部屋に案内してもらおうと考えていたのだ。そしてそこに、ミークの緊急脱出用の転移魔方陣を作る予定だったのだ。
転移魔法陣はすでに廃れた手法だが、ヘイズとの戦いの後に手に入れたラトギスの杖。これで描かれる魔法陣を見て、メイとシディーはそれがどういうものであるのかを解明していたのだ。その上、二人はかなり簡略化した魔法陣の開発にも成功していた。俺には全く理解できないのだが、シディーが完璧にそれをマスターしているのだ。
一方、魔法陣を起動させる魔力の問題だが、それについては、ソレイユが作った「ティペットの裁き」を利用することになっていた。彼女の母であるヴィヴァルを説得し、魔法陣を起動するのに十分な魔力を注入してもらった。あとは、魔法陣にこの紙を合わせるだけでいい。
ちなみに、「ティペットの裁き」はミークが持っている。彼女の髪の毛をまとめるためのリボンがそれに当たる。あとは、魔法陣を描くだけ。それは5分あれば事が足りるのだ。
これだけ壮大な計画は、全てシディー一人が考えた。俺はそんなことでエルフたちを欺けるのかが不安だったが、彼女は自分の意見に絶対の自信があると言い切った。
「考えてもみてください。エルフ王はミーク姫に会いたいと言っているのですよ? その願いをわざわざ叶えようとしているのです。そんな私たちに、恩義を感じこそすれ、無下には扱わないと思います」
「いや、それでも……。こんなことは言いたくないが、エルフ王がクズ野郎だったら……。即座に俺たちを殺せと言うのでは……」
「その可能性も低いです」
「どうして?」
「エルフ王は数百年間、エルフ族を統治しています。エルフの里で反乱が起こったという話は聞いたことがありません。それどころか、世界各地に散らばっていたエルフを里に集結させています。相当の手腕のある王だと思いませんか? 外界との交わりを断っているとはいえ、エルフ王の悪評は全く聞こえてきません。それに、人徳のない王であれば、里から逃げ出してくるエルフもいるはずです。ですが、全くエルフの姿を見た者すらいない。これは、王に相当の人徳がある証拠だと思います」
「もしそうだとしても、ミークの要望に応えてくれるとは限らないんじゃないか?」
「いえ、長く人々を統治するために、最も大切なものは情です。無論、その他の能力も必要ですが、やはり情が一番です。そんな情のある王が、娘を取り戻してくれた恩人に礼をしないなどとは考えられません。もしかすると、家来たちは早く私たちを追い返せと言うかもしれませんが、きっとその意見は取り上げないかと思います」
彼女の自信に満ちた説得によって、結局俺はその意見を容れることにしたのだった。だが、その後は、ミークと王の前で一芝居を打たねばならないために、かなりの稽古を積まされたのだ。ミークはとても喜びながらウキウキでやっていたのだが、どうも俺のセリフ廻しがシディーは気に入らないらしい。「もっと自然に!」だとか「もっとさらりと言う!」などと、かなり厳しく叱責された。俺としては、歌舞伎の名優、十五代目市村羽左衛門のセリフ廻しを見事に真似たつもりだったのだが、どうもダメらしい。結構自信があったのだが……。
そんなこんなで稽古を重ねるのは数度に及んだが、結局、シディーの太鼓判は得られなかった。何度彼女の舌打ちを聞いたかわからず、心の中で悔し涙を流したのは一度や二度ではない。酷いのは、ここまで俺がヘコんでいるにもかかわらず、リコなどは、「どうしてもっと普通に言えないのです?」などと真顔で、真剣に心配していたことだ。こちらとしてはあくまで自然に、さらりとやっているつもりなのだが。
今回、俺としては完璧に運んだつもりだった。それを証拠に、シディーの舌打ちは聞こえてこなかった。リハーサルでは、このまま大儀であった、下がって休むがよいという流れだったのだ。まさか、俺たちに聞きたいことがあると王が言ってくるなど、思いもよらなかった。まさか、芝居がバレたのだろうか。いや、そんなことはない、断じてそんなことはない。
誰が見ても自然な流れだった。「そのまま引き取られよ」と言われる、もしくは、そうした言葉がない場合は、俺たちからお暇しますと言って、その場を離れようとする。ミークがそれを止めて礼をしたいと言う。好きにすればいいという流れになる。ミークの部屋か別室に通されるという流れになるはずなのだ。
俺はじっとエルフ王を凝視する。実に整った顔立ちの青年だ。髪の毛がエメラルドグリーンで実に美しい。年齢不詳だが、20歳と言っても信じてしまうだろう。そのくらい若々しくも見える。
彼は全く表情を変えず、俺に視線を向け続けている。
「アガルタ王様、我が王は、そちらの女性は、本当に貴殿の妻かとお尋ねです」
オルトーが口を開く。予想していなかった質問だ。俺は思わずシディーに視線を向け、二人で顔を見合わせる。
「はい。これに控えますのは、我が妻の、コンシディーです」
ダン!
俺が言い終わらないうちに、エルフ王が右足で地面を踏み鳴らした。一体何なのだ?
「……お……王は、そのような年端もいかぬ子供を、妻にしたのかと言っておいでです」
オルトーが戸惑いながら必死で通訳してくれている。
「い……いえ、妻は幼く見えますが、ドワーフなのです。彼女はドワーフ公王の息女なのです。ドワーフは外見的には幼く見えますが、これでも彼女は40年の歳月を生きております」
「……チッ、38年と9ケ月と10日です」
「あ……う……妻は、38年の歳月を生きております。エルフ族から見ればまだまだ幼く見えるかもしれませんが、妻は私よりも長く生きております。従いまして、決して幼い女性を妻に迎えたわけではありません。私は、妻を愛しております。妻も、私を愛していると信じております。……ね?」
思わずシディーに視線を移す。彼女は何とも言えぬ表情を浮かべていたが、俺の視線に気が付くと、顔をポッと赤らめて、ゆっくりと頷いた。そして、よく通る声で、エルフ王に向かって口を開いた。
「アガルタ王の妻、コンシディーでございます。夫からもございました通り、ニザ公国公王、ニザ・デューク・エイモンの息女でございます。我々ドワーフは成人しますと、男性は髭を生やし、女性はこのように髪を伸ばしてその外見を区別できるようにしております。先に夫は、私の方が長く生きていると申しましたが、年齢的にはそうは変わりません」
変わりません、という言葉を何故かシディーは強調している。これ以上は怖いので、敢えて何も言わないことにする。
オルトーはじっとエルフ王を凝視していたが、やがて、ゆっくりと息を吐くと、ヤレヤレといった表情を浮かべながら俺たちに向き直った。
「王は、ヘイズの出来事が忘れられないのです。アガルタ王の奥方をご覧になって、あなたをヘイズと同類ではないかと思ったのです」
「あの……一緒にしないでいただきたいです」
「うむ。失礼した。許していただきたい。その点は、私から王に説明申し上げた。王は……」
突然オルトーが絶句した。見ると、後ろに鎮座していたエルフ王が左手をスッと上げて、彼を制するようなポーズを取っている。王はゆっくりと立ち上がり、こちらに向かって歩き出した。
オルトーとレイラが顔を見合わせている。そして、慌てて二人が王の後ろを付いて来る。
コツ……コツ……コツ……。
一切表情を変えないまま、エルフ王が俺たちに近づいて来る。不気味だ。実に不気味だ。
俺たちとの距離が、約5メートルにまでなっただろうか。王は突然その歩みを止めた。そして、じっと俺たちを見据える。
「……よい」
若々しい声が聞こえた。王が喋ったのか?? 俺は
彼の顔を見つめる。すると、その口がゆっくりと開かれた。
「これより、寝所に参れ。我の夜伽をせよ」
……何? お前、今、何て言った??