第三百八十四話 新しい命
ちょうどヴィエイユが、タナ王国国王であるヴィルと共にクリミア―ナ教国の首都、アフロディーテに遠征している頃、アガルタのリノス家では、二つの大きな出来事が起ころうとしていた。言うまでもなく、妻であるマトカルとソレイユの出産だった。
ヒーデータ帝国にあるリノスの屋敷では今、蜂の巣を突いたような騒ぎになっていた。まず、朝方にソレイユの陣痛が始まったという報告があり、万全を期してメイがアガルタに赴いているその最中に、マトカルの陣痛も始まってしまったのだ。
特にマトカルは、一度流産を経験していると同時に、この臨月に至るまでも、なかなか体調が安定せずに入退院を繰り返していた。それだけに、母子ともにその健康状態が心配されていたのだ。
結局、ソレイユについては、彼女の母であり、サイリュースの族長でもあるヴィヴァルが、一族総出で出産に当たることを申し出てくれたお陰で、メイはマトカルの許に付きっ切りになることができた。だが、当初はサイリュースの里でソレイユの出産に立ち会うことになっていた、娘のアリリアは、どうしてもマミーと一緒にいたいと言って聞かず、彼女を宥めるのに大いに手間取ったのは、リノス家の一つの思い出として後々まで語られることになる。
一方で、マトカルの許には、もう一人の娘であるエリルが待機していた。彼女はマトカルの手を握ったまま放さず、ずっと付き添い続けていた。
二人の出産は難産だった。24時間が経過しても生まれる様子は見えなかった。特にマトカルは深刻であり、なかなか子供が下りてこないという状況に陥っていた。断続的に襲ってくる激痛と戦いながら、時おり小さな声を漏らすマトカル。エリルの小さな手にも、痛みを我慢しているためか、握る力が強くなる。エリルはその痛みに耐えながら、ひたすらマトカルに声をかけ続けていた。
そしていよいよ、マトカルが分娩室に運ばれようとしたそのとき、彼女は肌身離さずに持っていたペンダントをエリルに渡した。これは、結婚したときにリノスから贈られたもので、彼女が宝物のようにしていて、誰にも触らせなかったものだったが、それをエリルに渡したのだ。エリルの体は震えた。
「おかあさん、ローニ先生、マトちゃんを……」
目に涙をいっぱいにためて懇願するエリルを、メイは笑顔で大きく頷き、分娩室に消えていった。
「大丈夫ですわ。エリル、あなたがここにいれば、きっとマトは無事に帰って来ますわ」
そう言って、母であるリコレットはエリルの体を抱きしめてくれた。彼女は右手で母の手を握り、左手でマトカルのペンダントを握り締めながら、新しい命が生まれる瞬間を待った。
マトカルの出産が終わったのは、それから2時間後のことだった。
すでに深夜に及んでいたために、エリルはそのまま眠りについてしまった。彼女が目を覚ますと、そこは帝都の屋敷の寝室で、大きなベッドに一人、彼女は寝かされていたのだった。
いつもならばここには、父であるリノスか、母であるリコレットの姿があった。両親ともにいない目覚めは、エリルの中でほとんど経験のないことだった。彼女は慌てて部屋を見廻し、飛び起きるようにしてベッドから降りた。そのとき、寝室の扉が開いて、父であるリノスがパジャマ姿のまま部屋に入ってきた。
「おとうさん」
「ああエリル。起きちゃったか」
いつもの優しい笑顔を見せながら、リノスはエリルを抱きかかえた。そして彼女に小さな声でこう呟いた。
「無事に生まれたよ。また、お姉ちゃんになったね。おめでとう」
「マトちゃんは……?」
「ああ、元気だよ。ただ、今は疲れて眠っているから、もう少ししたらお見舞いに行こうね」
父のその言葉に、何故か涙が溢れてきた。彼女は父の首に手を廻して、しばらくの間泣き続けた。
エリルがマトカルに会えたのは、その日の昼過ぎのことだった。そのときの光景を、エリルは生涯、忘れることはなかった。
マトカルは、生まれたばかりの赤ん坊に授乳している最中だった。今まで見たこともないほどの穏やかな笑みを浮かべながら、腕に抱いている赤ん坊を愛おしそうに眺めていた。昼下がりの日差しが窓から差し込むその中で、我が子に乳を与えるマトカルの姿は、とても神々しいものに見えた。私も、こんな顔をした女性になりたい……。この日以来、エリルはマトカルへのあこがれをさらに強くしていった。そして、彼女の周りを取り囲む、幸せそうな表情を浮かべた父・リノスと母・リコレットやコンシディー。弟や妹たち……。いつの日か、自分もこんな家族を作りたい……。このときの光景と思い出は、彼女の脳裏に深く刻み込まれたのだった。
マトカルが産んだのは、男の子だった。長男のイデアに続く、第二王子の誕生に、リノス家は大きな喜びに包まれたのだった。
一方で、サイリュースの里からは、ソレイユの出産が終わったという報告は未だになかった。陣痛開始からすでに40時間を経過していて、ソレイユの体力が持つかどうかが心配だった。
マトカルの出産のお祝いもそこそこに、メイは不眠不休のままアガルタにあるサイリュースの里に向かった。その後ろをアリリアが追いかけていく。俺たちはその背中をただ、静かに眺めているしかなかった。
だが、予想に反してメイは、1時間もしないうちに屋敷に帰ってきた。しかも、一緒に行ったアリリアは泣きじゃくりながら帰ってきたのだ。一体どうしたのかと聞く俺たちに、メイは力なく首を振った。
「わかりません」
「わからないって、どういうことだ?」
「サイリュースの里に入れなかったのです」
「え? 入れなかったって……?」
「外から何度も呼びかけてみたのですが、全く反応はありませんでした。アリリアは森の中をうろつき廻ろうとしますし、何とかこの子を宥めて帰ってきたのです……」
申し訳なさそうな表情を浮かべながら、メイは深々と頭を下げた。俺はそんなことをしないでくれと言って、彼女を椅子に座らせる。そして、泣きじゃくるアリリアを抱っこして、優しく話しかける。
「じゃあアリリア。とうたんと一緒に、マミーのところに行ってみようか?」
「私、嫌われちゃったの?」
「マミーがアリリアのことを嫌いになんかなるもんか」
「いい子になるから、いい子になるから……」
「大丈夫だ、アリリア」
そう言って俺は彼女の頭を撫でた。そのとき、リコと目が合った。彼女は目で早くソレイユの許に行ってあげて欲しいと訴えてきた。そして、メイをチラリと見て、メイも一緒に連れて行くようにと、目で合図をしてきた。俺はゆっくりと頷く。
「じゃあメイ、もう一度、俺と一緒に行こうか」
「ハイ……」
メイはゆっくりと立ち上がる。こんなに落ち込んだメイも久しぶりに見た。俺はアリリアを抱っこしながら、屋敷を出て、転移結界のある部屋に向かった。
「……」
「……」
「……」
サイリュースの里の入り口。俺たち三人は重苦しい沈黙に包まれていた。何度呼んでも、里からは何の反応もなく、ソレイユ自身に念話を飛ばしてみても、何の反応もなかったのだ。そして、メイが呼びだした土の精霊であるノームでさえも、強力な森の精霊たちの妨害に遭って、中に進むことはできなかったのだ。俺はただ、アリリアを抱っこしながら、呆然と生い茂る森の木々を眺めるしかなかった。
その頃、サイリュースの里では、リノスたちが思いもよらないことが起ころうとしていた。
「お母さん、やめて……。お願いだからやめて……」
目からとめどなく流れ出る涙を拭おうともせず、ソレイユは必死で懇願し続けていた。その腕の中には、すやすやと眠る赤ん坊の姿があった。夫であるリノスによく似た顔立ちの赤ん坊……。だが、その子の頭には、サイリュースの特徴である角が生えていなかった。そして、彼女の目の前には、短剣を構えた母、ヴィヴァルの姿があった。
「ごめんなさい、ソレイユ。これも、一族の掟なのよ……。ごめんなさい……」
ヴィヴァルの瞳からも、大粒の涙がこぼれ落ちていた……。