第三百八十三話 ラストメッセージ
クリミアーナ教国の名誉教皇であるジュヴァンセル・セインは、目を見開いたまま絶句していた。おそらく彼が信徒や部下に、このような表情を見せたのは初めてのことだろう。彼にとって目の前に広がる光景は、それほど想像さえしなかったものだった。
確かに、彼の目の前には、これまで忠誠をつくし続けてくれた優秀な部下たちの顔があった。そしてさらに、彼が軍神と頼むタナ王国国王、タナ・カーシ・ヴィルの姿さえもあった。だがその一方で、ヴィルの後ろには、意外な人物が控えていた。名誉教皇の孫である、ヴィエイユの姿があったのだ。
ジュヴァンセル・セインは、ヴィエイユがタナ王国にいるという知らせを受けて、彼女を捕らえるべく大軍を派遣していた。その司令官には、同じ彼の孫であり、現・教皇であるカッセルを据えて送り出していた。彼の許には、タナ王国に上陸したものの、頑強な抵抗に遭い、王都までの進軍が遅れているという報告が上がってきていた。そして、ほんのひと月前に、ようやく王都を陥落させてヴィエイユを捕え、それと同時に、幽閉されていた国王、ヴィルを救いだしたという報告があったばかりだった。
早速彼は、タナ王国に数名の枢機卿を使者として派遣して、その状況を確認させた。そして、枢機卿たちからカッセルの報告に間違いはないという報告を受けていた。その上で、タナ軍からは早速、ヴィエイユを首都・アフロディーテに護送するという報告を受けていたのだ。
ジュヴァンセル・セインは、帰還したカッセル以下の兵士たちに労いの言葉をかけ、さらに、タナ軍に対して祝福を与えようと考え、その上でヴィエイユを引見し、その処分を言い渡そうと考えていた。だが、彼らは突然現れた。名誉教皇の執務室に、ヴィルとその数名の家来、使者を命じた枢機卿、そして、ヴィエイユの姿が現れたのだった。
驚きと混乱で固まる名誉教皇。その彼に、目の前にいる者たちは冷ややかな視線を投げかけている。
「年を取りましたね」
若い女性の声が聞こえる。これは言うまでもなく、ヴィエイユの声だ。
「まだ、何が起こっているのかがお分かりにならないようですね。少なくとも、私の知っている教皇様は、お爺様は、そのような呆けた顔はなさいませんでした」
「な……は……う……」
名誉教皇は必死で声を絞り出そうとするが、言葉にならない声しか出すことができない。そんな彼をヴィエイユは哀れみの目で見ている。
「あなたに味方はいません。あなたは一人なのです、お爺様」
ヴィエイユのその声が、まるで合図であったかのように、名誉教皇の前に控えていた枢機卿たちが彼を拘束する。
「待て、待ちなさい! クレホシル、レインダック、あなた方は……ぐっ」
あっという間に彼は後ろ手に縛られて、自由を奪われた。彼は机の上にうつ伏せにされていたが、それでも必死で首をもたげて、目の前のヴィエイユたちを睨みつける。
「まだ、何が起こったのか、理解できないようですね、お爺様?」
「ヴ……ヴィエイユ……あなたは……」
「お爺様、今、目の前にいる方々のすべては、私の僕でございますわ」
「な……に?」
「今、あなたを捕らえているクレホシル枢機卿、レインダック枢機卿は私に絶対の忠誠を誓っております。そして、ヴィル様をはじめ、ここにおいでの方々も、すべて私の命令に忠実に従う者たちですわ。そして、ここアフロディーテは我が軍が完全に占領しておりますわ」
「バカな! お前はカッセルに捕らわれたのではないのか! カッセルは、カッセルはどうした!」
「うふふ。ようやく本性が出て参りましたね、お爺様。いいですわ。せっかくですから全てをお話致しましょう。カッセルは死にました。私が、彼をクリミアーナ様の御許に送ったのです」
「な……。では、カッセルからの報告書は……」
「あれは全て、私が書いたものです」
「バカな! あの字はカッセルの字だったはず! ヴィエイユ、お前にカッセルの字を真似ることなど……」
「お忘れですか? カッセルに字を教えたのは、私です。彼の字の癖は私が一番よく知っています。その字を真似ることなど、簡単なことですわ」
「タナ王国から帰還した者たちからそんなことは……」
「その者たちも全員、私に絶対の忠誠を誓っておりますわ」
「バ……バカな……」
「クリミアーナ教国軍の2万もの捕虜全員の心を支配するには、なかなか骨が折れましたが、何とかうまくいきました。自分を褒めてやりたいと思います」
そう言ってヴィエイユは満面の笑みを浮かべる。その屈託のない、まるで子供のような無垢な笑顔に、ジュヴァンセル・セインは無意識に体を震わせた。
「お爺様」
天使のような笑顔のまま、彼女はじっと名誉教皇を見据える。
「あなたの孫に生まれて、本当によかったと思います。父も母も、あなたに命を奪われましたし、私自身も、何度も命の危機にさらされましたけれども、あなたの傍にいて、人の心を掴む術を学べたお陰で、私は多くの人々の心を支配することができるようになりました。そして、あなたを越えた……。これ以上の喜びがありましょうか。それもこれも、お爺様、あなたのお陰です。感謝申しますわ」
名誉教皇の顔が小刻みに震えている。その様子を、ヴィエイユは満足そうに眺めていたが、やがて顎をしゃくると、名誉教皇を取り押さえていた二人の枢機卿が、彼を執務室の窓に引きずっていった。
「な……ばっ……バカな……」
ジュヴァンセルの目には信じられない光景が飛び込んできた。何と、白で統一された美しい都であったアフロディーテが炎に包まれていたのだ。彼は目を見開いたまま固まり、そのまま部屋の外に引きづられていった。
「クレホシルさん、レインダックさん、あとでご褒美をあげますわね」
ヴィエイユのその声に振り向いた二人の枢機卿は、まるで何かに陶然としているような表情を浮かべている。その姿を見ながらヴィエイユはポケットから真っ赤で小さい丸薬を取り出して、それを眺める。
「さすが、お爺様が作った薬は、よく効きますね。素晴らしいわ……」
「……強気じゃな」
クスリと笑いながら、引き立てられていく名誉教皇を眺めていたヴィエイユの耳に、そんな声が聞こえる。彼女はゆっくりと声の主であるヴィルに視線を向ける。
「我らはそなたに心酔しているわけではないのだがな。まあ、名誉教皇の前で虚勢を張りたい気持ちはわからぬではないから、これ以上は何も言わぬがな」
ヴィエイユはフッと笑みを浮かべると、そのまま踵を返してスタスタと部屋を出ていった。
必死で笑顔を取り繕ったものの、ヴィエイユの心は穏やかではなかった。このヴィルらタナ王国の者たちは、アガルタ王・リノスの影響のためか、必ずしもヴィエイユの思い通りにはならず、いつもすんでの所で意見を翻したり、行動しなかったりするのだ。
……まあ、今回はお爺様を捕らえることができた。上出来だと思うことにしましょう。
彼女は見慣れた教皇神殿の廊下を歩きながら、自分にそう言い聞かせた。
翌日の朝、教皇神殿に一本の巨大な十字架が建った。通常は小高い丘の上に、高い壁に囲まれているために、その中を伺い知ることはできない場所に、まるで壁の上に十字架が建っているかのように見えるその光景は、アフロディーテに住む人々を驚愕させた。そこには、名誉教皇であるジュヴァンセル・セインが掛けられており、彼は裸にされ、両手両足を十字架に縛られた状態で民衆にその姿を晒していた。
「私を殺したところで、何が変わる?」
ジュヴァンセル・セインは、苦しい息の中、足元で自身を見上げているヴィエイユらに向けて、必死で話しかける。
「私はこれまで……クリミアーナ教国を率いてきた……。私に成り代わって教国を治めたいのであれば……治めるがいいでしょう。私を殺せば……この国は……世界は混乱する……。それがわからぬ、あなた方では、ないでしょう?」
ヴィエイユはその声がまるで聞こえないかのように、ただ優しげな微笑みを彼に投げかけていた。彼女の傍には、槍を携えた兵士が控えていて、彼女の命令を待っている。
「ヴィエイユ、私を殺しても、この世は変わりません。私を殺しても、私に代わる者が必ず現れます。今、私を殺しても、何の得にも、なりません。ヴィエイユ……ヴィエイユ!」
名誉教皇は、必死で言葉を絞り出すが、ヴィエイユは相変わらず笑みを浮かべたままだ。その表情のまま彼女は控えている兵士にチラリと視線を向ける。兵士はスッと一礼をしたかと思うと、スタスタと十字架の許に歩いて行き、そこに掛けられている名誉教皇の腹を槍で突き刺した。
断末魔の絶叫とともに、十字架の一部が彼の血で染まる。
「ガッ……ヴ……ヴィエイユ……ヴィエイユ……ヴ……」
口を開け、必死で呼吸をしようと喘ぐ名誉教皇。その様子をヴィエイユは、表情を崩すことなく、笑顔のまま眺め続けている。その彼に兵士がさらに槍を突き出し、再び男の絶叫が響き渡る。
兵士は名誉教皇の腹に深々と突き刺さった槍をゆっくりと引き抜き、ヴィエイユの傍に戻る。その様子を十字架の上の男は、歪み切った表情で眺めている。
「な……なにを……している……。と……とどめを……とどめを……刺さないか……」
彼の声に反応する者はいない。男の苦しい息遣いだけが聞こえてくる。
「ヴィエイユ……はやく……とどめを……」
「まだまだ」
「ヴィエイユ……ヴィエイユ……」
「あなたに殺された方々は、やすらかな死を迎えることは皆無だったでしょう?」
「ガッ……ガアアア……」
「餓死させられた者……。生きたまま火にあぶられて殺された者……。縛られたまま海に放り込まれた者……。あなたの命令で殺された者たち……私の父も母も、皆、苦しんで死に至りました。その人たちを差し置いて、あなたが安らかな死を迎えるなど、神が許しませんわ」
「かっ……神……」
名誉教皇の顔が歪み切り、醜悪な表情になっている。それをヴィエイユは満足そうな表情で眺めている。
「人間は、裸になれば、一人になれば、何もできない弱いものなのです。あなたも、そして、私も……」
ヴィエイユはそんな言葉を呟きながら、傍に控えていた兵士の槍をその手に持ち、ゆっくりと十字架の許に歩いていく。そして、ニコリと満面の笑みを浮かべたかと思うと、手に持っていた槍を、男の体に深々と突き立てた。
「醜悪な、顔……」
彼女はそう言い捨てたかと思うと、スッと踵を返して、その場を後にした。
この瞬間、クリミアーナ教国の歴史は、幕を閉じた。




