第三百八十二話 姉さま、姉さま……。
真っ暗闇の中、遥か彼方に小さな光が見える。それは徐々にその数を増やしていき、どんどんと大きくなっていく。
深夜の海岸。そこに音もなく数十隻の船が次々と着岸してきていた。強風が吹きすさび、波も高いこの状況下で船を接舷させるなどは、通常ではあり得ないことだった。だが、波が高く、強風が吹いているとはいえ、それは追い風であったために船は砂浜に打ち上げることにして、接舷を強行したのだった。
次々と砂浜に打ち上げられるようにして船が到着する。その直後から、夥しい数の兵士が戦場に現れ、上陸していく。言うまでもなくこれは、カッセル自ら率いるクリミアーナ教国軍であり、その数は約7万にのぼっていた。
「……」
船上に現れたカッセルは、手で風を遮りながら、眼下に集合している兵士たちに視線を向ける。それに満足そうに頷いた彼は、スッと視線を上げ、遠くを見据える。ここはタナ王国のアーミーと呼ばれる地域で、小さな漁村がある場所だった。こんなところに7万もの兵士を上陸させたのには、理由があった。
彼はこの軍勢を以って、タナ王国の王都を急襲しようと考えていた。ヴィエイユ姉さまは間違いなく、王都にいる。その彼女を逃がさないためには、ちまちまと時間をかけるわけにはいかない。彼女が予想もしない速さで王都を急襲し、包囲する必要がある。そう考えた彼は、この嵐のような天候を利用して、軍を動かしたのだった。
元々、「チェックと改善」が得意であった彼は、タナ王国国王、ヴィルの戦術をよく研究していた。そして、その強さを電光石火の電撃戦であると正確に分析していた。だが、それはオクタこと妖狐ヘイズの転移術があればこその作戦であり、通常では、どのように力を尽くしても、行軍する兵士を隠し続けるというのは、至難の業と言えた。
そこでカッセルが思いついたのは、夜陰に紛れるという点と、行軍速度を限界まで高めるという点だった。この地域では、時期が来ると決まって暴風が吹く。それは東に向かって吹くことが多いと知っていた彼は、ちょうどタナ王国のある大陸の西側に位置する大陸に兵士を潜ませ、出撃の機会を窺っていたのだ。そして、予想通りこの二日前から風が強まり始め、前日には暴風が吹き荒れることとなった。
暴風と高波の中、しかも夜間の出航は困難を極めるかと思いきや、優秀な兵士たちは見事な操舵術でこれらの苦境を乗り切っていた。お蔭で、沈没した船は一艘のみという予想外な順調さで作戦は遂行されていた。
カッセルはゆっくりと船を降りる。そのときふと、東の方角が桃色に染まっているのが見えた。彼は船を降りてしばし、その光景を眺める。
「風は強いが、明るくなりそうだな。このような珍しい景色に出会えるとは……縁起がいい」
「あれは朝焼けです。おそらく今日は雨となりましょう」
カッセルの従者であるフランが呟いている。彼はその声に反応を示さず、周囲の兵士に向けて命令を下す。
「すぐに出陣の準備をしろ。目の前の峠を越え、王都に向かう。急げ」
カッセルは自身が立てた作戦に自信を深めていた。おそらくヴィエイユ姉さまは、クリミアーナ軍が王都の近くにあるアーミーの村に上陸しているとは予想していないだろう。現に、タナ側からの攻撃は一切なく、自分たちは無血上陸することができている。ここまでは予想通りの展開だ。あとは、王都を急襲して、蟻一匹出ることが出来ぬほどに王都を包囲して、姉さまを捕らえる。捕らえた後は……。
カッセルはそんなことを考えながら、出発準備ができるのを待った。
程なくして準備が整うと、クリミアーナ軍はゆっくりと眼前の丘に向かって進んでいく。
「カッセル様、あれを!」
声のした方向を見ると、近習の一人が正面を指さしている。それを追うように視線を向けると、丘の上に軍勢が展開しているのが見えた。カッセルは思わず笑みを浮かべる。
「さすが姉さま、僕の作戦に気が付いた……か?」
彼はそんなことを呟きながら、素早く周囲の者に命令を下す。
「行軍を停止して、あの丘の上の軍勢を調べろ。おそらく、タナ軍……。いや、確実に姉さまの軍だろう。おい、あの丘の周囲はどうなっている?」
命令を受けたカッセルの周囲が俄かに騒がしくなる。そして、煌びやかな鎧を装備した若武者が、彼の馬前に進み出て片膝をついた。
「申し上げます。あの丘……ブルガラルの丘までの道のりには、すすき野原が広がるばかりでございます。あの丘の麓には、リエンスと呼ばれる小さな湖があるのみでございます」
その言葉にカッセルは大きく頷く。しばらくすると、斥候部隊が戻り、正面の軍勢はやはり、ヴィエイユ本人が率いている軍であると報告してきた。
「やはり、姉さまか……」
カッセルが予想した通り、丘の上に陣を張っているのは新・クリミアーナ教の軍勢であり、それを率いているのは、ヴィエイユだった。しかも敵は、クリミアーナ軍のおよそ半分の兵力でありながら、陣形を左右に展開させていて、まるでカッセルたちを囲むような陣形を取っていた。
……正面突破を敢行する。
カッセルの決断は早かった。彼が選択した作戦は、敢えて敵の包囲の真ん中に軍勢を入れる危険な行為だったが、カッセルには勝算があった。
僕には、攻撃は通用しない。
彼には、一つの確信があった。それは、自分は絶対に死なないのだという自信……。これまでカッセルは、何度も襲われてきた過去があった。あるときは剣で刺され、あるときは弓矢で射抜かれたこともある。だが、その度にこの体は治癒され、命を保ってきた。それはアガルタ王・リノスが張った結界のお陰であり、それを知らないカッセルではなかったのだが、これまで何度も命の危機を切り抜けてきた彼には、死への恐怖心が希薄になっていた。
彼は丘の上に陣を敷くヴィエイユの部隊を睨みながら、大声で命令を下す。
「正面の敵を突け、突撃せよ!」
その声を受けて、クリミアーナ軍が動き出した。その様子を見ながらカッセルは勝利を確信し、頭の中では早くも、ヴィエイユを捕らえた後のことを考え始めていた。
「うん? 何だ? 何故進まないんだ?」
本陣からは敵に突撃していった部隊が、突然その動きを止めたかに見えた。そのとき、伝令が彼の許に到着して、膝をついた。
「申し上げます! あの丘の手前には、深い泥池が広がっています!」
ヴィエイユの本陣のある丘の手前は、一面のすすき野原だったが、その下は、深い泥の池が広がっていた。兵士たちはそこに足を取られ、腰まで泥に浸かるなどして、身動きが取れなくなっているのだという。その報告を聞いたカッセルは舌打ちをすると、すぐに近習たちに命令を下す。
「残る兵力すべてを、姉さまの陣に向けろ」
「カッセル様、それは……」
「あの泥の池を兵士たちで埋めれば、進めるだろう。なあに、1万の兵を失う程度で、すぐに進めるようになるだろう。何としても、姉さまを捕らえるのだ」
近習たちはカッセルの言葉に息を呑んでいたが、やがてハッと返事をして、その場を去っていった。それを見届けた彼は、ひらりと愛馬の上に跨り、進軍の命令を下したのだった。
だが、カッセルの予想とは裏腹に、クリミアーナ軍は攻めても攻めても、ヴィエイユの本陣には、なかなかたどり着けなかった。彼らが本陣を突こうとすれば、ヴィエイユの軍は彼らの側面を突いて陣形を崩しにかかるため、カッセルらはそれらの敵と戦いながら前進しなければならなかった。
それでも、カッセルらはヴィエイユがいる陣まであと一歩と迫った。矢と魔法が雨あられと降り注ぐ中、カッセルの眼に一人の女性が映った。
「姉さま……」
確かに、確かに、ヴィエイユだった。カッセルらから数十メートル離れたところに、彼女はいた。カッセルと同じ白いローブを身に着け、頭には細いティアラのようなものを身に着けている。彼女はじっとカッセルを眺めているように見えた。
「姉さまぁ!」
近習の制止を無視して、カッセルは馬を駆った。足元には夥しい兵士の亡骸がある。馬はその上を走っていく。少しずつ大きくなってくるヴィエイユの姿……。そうだ、やっぱり、姉さまだ。僕の姉さまだ。
子供の頃から憧れ、その背中を追い続けてきた姉さま。聡明で優しく、美しい姉さま。姉さまがラマロン皇国のケーニッヒ公爵に嫁ぎ、カッセル自身が皇国の皇帝の養子になることが決まった夜、ずっと二人で一緒にクリミアーナ教を盛り立てていこうと約束した姉さま。あのときの姉さまは本当に美しかった。それがなぜ、こんなことに……。すべてはあの、アガルタ王のせいだ。あの邪神の手先が、姉さまをあのように……。もう一度、姉さまを取り戻さねばならない。もう一度、あのときの姉さまを……。
そんなことを考えていたそのとき、ヴィエイユが弓を構えていることに気が付いた。その矢は自身に向けられていて、ヴィエイユの目は、これまで見たこともない程の、冷たい、侮蔑に満ちた目をしていた。
「お前は、誰だ? 僕の知っている姉さまじゃ……」
カッセルがそこまで呟いたとき、ヴィエイユの手から矢が放たれた。まるで、スローモーションのように矢がカッセルの額に向かって来る。そして、頭に衝撃を受けたと同時に、彼の許に弓矢が雨あられの如く降り注ぎ、彼は全身を射抜かれて、そのまま泥の中に体を投げ出した。
……空が見える。透き通るような青空だ。……耳がキーンと鳴っている。これは、襲われたときに聞く音だ。これが聞こえなくなったとき、僕の体は治癒されているんだ。……きっと今回も。……今回も。傷が治ったらすぐに立ち上がって姉さまの許に……。すぐそこに姉さまはいる。姉さまを僕の腕に抱くんだ……。絶対に離しはしない……。そのまま姉さまを連れて船に戻るんだ……。そして裸にして、心から僕の僕になるまで責め続けるんだ……。休まず、眠らずに責め続けるんだ……。姉さまを……僕だけの姉さまに……。姉さま……。
ヴィエイユの放った矢は、正確にカッセルの眉間を貫いていた。彼女はゆっくりと持っていた弓を兵士の一人に渡し、そして、周囲の兵士に向けて無言で顎をしゃくる。すると、丘の上に布陣していた部隊から、さらに弓矢と魔法の攻撃が、クリミアーナ軍に向かって降り注いだ。
「ヴィエイユ様、敵の大将首を獲りに参りましょう」
兵士の声に、ヴィエイユはゆっくりと首を振る。
「必要ありません。カッセルが射抜かれたのを皆も見たでしょう? それだけで十分です。まずは、クリミアーナ軍を殲滅させることです。敵の軍団を潰すのです。そしてその後に……すぐに、軍勢をアフロディーテに向けるのです」
彼女のその言葉に、兵士たちはゆっくりと頭を下げた。
深い泥に足を取られたクリミアーナ軍の兵士たちは、なす術もなく倒されている。その様子を満足そうな表情を浮かべていたヴィエイユは、ふと、先程討ったカッセルが倒れていた場所に視線を向けた。彼は目を見開いたままヴィエイユを睨み続けている。だが、その目には既に光がなかった。
「さようなら、カッセル。そして、ありがとう」
ヴィエイユは、クスリと笑みを浮かべたが、やがていつもの表情に戻り、再び戦場に視線を戻した……。




