第三百七十九話 一人旅
「うん?」
アガルタの医療研究所。そこの長い廊下を歩いているのは、ローニだった。彼女は何かの気配を感じて、思わず振り向いた。だが、そこには見慣れた景色があるのみで、特に異常は感じられなかった。
「何でしょうか? 誰か、私の後を付いてきているように感じたのですが……」
ローニの耳がピクピクと動いている。彼女は耳をすませてみるが、異常な音は何も聞こえない。
「ふぅ。時間がありませんね」
そう言って彼女は体内の魔力を集中させて、転移を発動させた。
「……」
物陰からひょっこり顔を出したのは、リノスの娘であるエリルだった。彼女は茫然とした表情を浮かべながら、長く続く廊下を眺めていた。
エリルがこの医療研究所に来たのには、訳がある。彼女はどうしてもマトカルに会いたかったのだ。
戦いが終わって、リノス家はいつもの落ち着きを取り戻していた。だが、ソレイユとマトカルの姿がないことに、エリル自身、寂しさを感じていた。マミーこと、ソレイユのことはいい。食事のときなどに、折に触れて話題が出るからだ。どうやら、マミーのお腹の中にいるのは、女の子らしい。マミーの種族には女の子しか生まれないらしく、しばらくすると妹が生まれるのだと聞かされていた。同じ妹のアリリアは、マミーの歌が聞けないことに寂しさを募らせていたが、エリル自身は、どちらかと言うと、妹の誕生を楽しみにしつつ、マトカルのことが気になって仕方がなかった。
あのとき、ママは確かに言った。マトを迎えに行ってくる……と。だが、待てど暮らせどマトカルは帰ってこない。父や母に聞いてみても、大丈夫だの返事しか返ってこない。彼女の目に映る両親の表情は、これ以上、マトカルのことを聞いてはいけないと言っているように見えた。それ以降、彼女はマトカルのことを話題にするのを止めた。
実際、この研究所に運ばれたときのマトカルは、危険な状態だった。特に胎児が危険な状況であり、メイの見立てでも、子供が助かる可能性は半々という状況だった。だが、あれから二ヶ月が経った今は、マトカルの体調も回復し、お腹の子供も最悪の状況を脱しつつあった。とはいえ、彼女は一度、流産をしているために、万全を期して、メイの太鼓判がもらえるor押されるまでは入院することになっていたのだ。だが、そんなことはエリルにはわからない。彼女は情報がない中で、日々、マトカルのことを心配し続けた。そして、思い余ってアガルタの医療研究所への転移結界に乗ってしまったのだ。
帝都の屋敷にある転移結界の部屋には、いくつかの転移先がある。彼女はお見送りと称して、メイの出勤を転移結界の部屋まで見送った。それで、どの結界がアガルタの医療研究所に通じるものであるのかを把握していた。笑顔で手を振るお母さん――メイのその、優しく穏やかな表情は、エリルに良心の呵責を掻き立てたが、それでも、マトカルに会いたい一心で、彼女はその感情を必死で抑え込んだのだった。
そして、この日。エリルは思い余って転移結界に乗ってみた。パパやママ、特にママには絶対に転移結界のある建物には近づいてはいけないと厳しく言われていたが、ちょっと行って帰ってくればいい。そう自分に言い聞かせて彼女は転移結界に乗ったのだった。
着いた先は、何もない、ガランとした広い部屋だった。すぐ目の前にはドアが見え、そこから光が漏れていた。エリルは恐る恐るドアに近づき、ゆっくりとノブを廻して、扉を開けてみた。そこには、ただただ長い廊下があるのみだった。
「……ここは、何?」
呆然として廊下を眺めていると、目の前に突然、人影が現れた。彼女は思わず目の前にあった、ゴミ箱の陰に隠れた。ゆらゆらとした人影が少しずつ形作られている。よく見るとそれは、黒い毛で覆われ、ピンとした長い耳を持つポーセハイだった。エリルはその姿から、これは家によく来るローニ先生だと直感的に気づいた。
そのローニは、キョロキョロと辺りを見廻していたが、やがて再びその姿を消してしまった。エリルは、他の誰かが来ないか、全身を緊張させながら恐る恐る、廊下を一歩一歩歩いていく。彼女には、廊下を歩いた先に何かがあると直感めいた確信があった。
一方のマトカルは、医療研究所の庭で、日光浴の最中だった。ひと月ほど前までは、歩くことも極端に制限され、スタッフに付きっ切りで介護されていたため、少々体力や筋力が落ちてしまっていた。ここ最近は、激しい運動は禁じられていたものの、外に出て散歩することはできるようになっていた。お腹の子供も落ち着いてきたようで、あと一週間ほど様子を見て、帝都の屋敷に一時帰宅しましょうと、先程メイから言われたばかりだった。
庭をゆっくりと歩きながら、マトカルは少し大きくなってきたお腹をゆっくりと撫でる。まだ、男か女かはわからないが、よく流れないでいてくれた。果たして、どんな子供が生まれてくるのか。男でも女でも剣術を習わせよう。先に、エリルにある程度の剣術を教えて、あの子からこの、生まれてくる子供に剣術を教えさせるのも悪くはないな。そんなことを考えながら彼女は、お腹の子供に向かって、お前には優しい姉と兄がいるのだぞと小さな声で話しかけた。
そんな自分の姿にマトカルはふと苦笑する。まさか、自分がこんなことになるとは思いもしなかったからだ。女性として生きるのを捨て、ひたすらに男性の、軍人として生きてきたし、それを覚悟していた。だが、どうしたことか、リノス様の妻となり、そして、その彼の子供を身籠っている。数年前の自分からは考えられないことだ。そんなことを思いながら彼女はふと、目の前に建つ、ポーセハイ専用の宿直室に視線を向けた。ここはただ、長い廊下があるだけだが、実はその壁の向こう側には簡単なベッドと机が供えられた部屋がいくつかあり、ポーセハイたちは、転移能力を駆使してその部屋を使っているのだ。その廊下の先には帝都の屋敷に通じる転移結界がある。いつもメイ様はこの廊下を歩いて出勤してくるが、特に退勤する際は、ポーセハイと話をしながら歩き、どんどんとポーセハイが消えていって最後にメイ様一人になるというシュールな光景が毎日繰り返されている。これはおそらく、リノス様もリコ様も知らないだろう。あの光景を見たら、二人は肝をつぶすだろう……そんなことを考えていると、思わず笑い声が込み上げてくる。
「マト……ちゃん?」
聞き覚えのある声がした、思わず顔を上げると、廊下の入り口に小さな女の子が立っているのが見えた。
「エリル……」
「マトちゃん!」
エリルの声を聞くと同時に、マトカルは走り出していた。そして、エリルも彼女に向かって全力で走ってくる。マトカルはその小さな体を思いっきり受け止める。
「エリル……来てくれたのか……」
「マトちゃん、体、痛くない? 苦しくない?」
「……大丈夫だ」
なんと愛おしい子供なのだろう。果たしてこれが4歳の子供だろうか。そんなことを思いながらマトカルは、エリルの頭を愛おしそうに撫でる。
「一人で……来たのか?」
「ママにはナイショ! あと、パパにも」
「……わかった。私はもうすぐしたら屋敷に帰る。それまで、大人しく待っているのだ」
「え? 帰ってくるの?」
エリルの顔がぱああっと明るくなる。とてもかわいらしい笑顔だ。それだけで、マトカルの心は癒されていく。
「あと7回夜を数えたら、帰る。それまで、大人しく屋敷で待っていてくれ」
その声にエリルは大きく頷く。
「さ、早く帰れ。そうしないと、ママに怒られるぞ」
その声にエリルの体がビクンと震える。マトカルはエリルの手を握り、優しく微笑みかける。
「転移結界のある部屋まで、一緒に行こう」
「うん」
こうして二人は、研究所の長い廊下を歩き出した。
幸いにして、転移結界のある場所までは、誰にも見つからずにたどり着くことができた。そして、名残惜しそうに手に結界に乗ったエリルの顔を、マトカルはその姿が消えるまで見つめ続けた。
「リコ様に怒られなければいいのだがな……。これで怒られてしまっては、あの子が可哀想だ。神よ……幼き子を、導き給え……」
生まれて初めてマトカルは、心の底から神に祈りを捧げた……。




