第三百七十三話 引き上げ
「よーし、それじゃ、帰るとするか」
俺は目の前にいるクノゲンたちに笑顔で話しかける。そして、そのまま視線を彼らの背後に向ける。
数日前に激戦があったとは思えない程、カコナ川の流れは静かそのものだった。さらに視線を移すと、この戦いで死んだ者たちの夥しい墓標が見える。しばらくそこに視線を向けていると、クノゲンが、そろそろ……と帰還を促してくる。俺はその言葉に頷いて、視線を元に戻す。
ここに残っているのは、アガルタ軍のみだった。すでに、ラマロン軍は俺の転移によって皇国に転移させた。ニケのサンダンジ軍も転移させようとしたのだが、それはニケに断固として断られた。彼曰く、国中から兵士を徴収しているため、都まで行軍しながら順次、兵士たちを帰していきたいのだそうだ。その言葉に俺は何も言わず、ただ頷くことしかできなかった。
それに、この前日の夜にニケは、密かに俺とメイの許を訪れていた。
話の内容は、言うまでもなく、息子のシンのことだった。彼は息子がヴィエイユに心を奪われていることについて、危機感を募らせていた。シンが真名をみだりに明かしたことについて嘆き、このままでは、サンダンジ国は将来、確実にあの娘の前に膝を折ることになる……。彼はヴィエイユの意図を完全に見抜いていた。そして、その解決策として、シンをアガルタに数年間、留学させたいと言ってきたのだ。
「……留学、ですか?」
「ああ。できれば、メイリアス殿のおられる、医療研究所に留学させたい」
「……」
絶句する俺とメイの前で、ニケは体を小刻みに震わせながら、息子を甘やかしすぎてしまったこと、そして、その息子には多くの人との触れ合いを通して、王としていかに生きるべきであるのかを、自分なりに見つめ直して欲しいと思うことを切々と語ったのだった。
「本来は、倅を斬らねばならぬのだ。だが……それができぬ。どうしても、できぬのだ」
「ニケ王様」
メイが優しい口調で話しかける。彼は表情を一切変えないまま、静かにメイに視線を向ける。
「お子様を、愛していらっしゃるのですね。いいえ、わかります。子を愛さない親がどこにいるでしょうか」
その言葉に、ニケはゆっくりと項垂れた。その様子を見てメイは俺に視線を向ける。
「わかりました。息子さんをお預かりしましょう」
「……すまぬ。倅をアガルタに赴かせるについては、そちらにお任せする。ゆめゆめ、サンダンジ国の王族としての扱いはしないでいただきたい。あくまで、いち留学生として、取り扱ってほしい」
「わかりました。俺もそのつもりです。シン君にとっては、辛い時期もあるかもしれませんが……。それを乗り切ってくれると、俺は信じています」
「すまぬ……」
そう言って彼は、俺たちに何度も礼を言って本陣を後にしていった。
「ニケさんも、一人の親だったか……」
「ご主人様、よろしいのでしょうか?」
「何がだい、メイ?」
「ヴィエイユさんとの約束です。静観するはずでは……」
俺は遠くに視線を移しながら、小さな声で呟く。
「メイ、ヴィエイユが俺たちに何と言ったか、覚えているかい?」
「……はい。ヴィエイユさんは確か、ラマロン、ニザ、フラディメを始めとして、ヒーデータあたりからも色々と協力を求められるかと思いますが、それらをすべて無視し、静観していただきたい……。そう言っていたかと思います」
「さすがはメイ、抜群の記憶力だな。その中に、サンダンジからの協力という言葉はあったかな?」
メイはしばらく何かを思い出す素振りをしていたが、やがてニコリと微笑みながら、俺に視線を向けた。
「確かに、サンダンジ国のことは言っていませんね」
「だろ? だから、シン君をアガルタで預かっても、約束を破ったことにはならない。……王族を預かるのは、メインティア王以来か……果たしてシン君がどんな風に変わるのか、ちょっと楽しみではあるな。……メイ、頼んだぞ」
俺の言葉に、メイは静かに頭を下げた。
◆ ◆ ◆
俺は前日のニケとの会談を思い出しながら、ゆっくりと頭を振る。今はそれを考えるべきときではない。まずは目の前の兵士たちを無事にアガルタに転移させることが、一番優先されることなのだ。
俺は目の前に整列している兵士たちに視線を向ける。彼らの中には「呪い」が付いていた者もいたが、それらは解除しておいた。すでに、チワンたちポーセハイが俺たちの周りを囲むように整列している。準備は万端。あとは転移をするだけのようだ。
「よーし、忘れ物はないな? では……転移しようか」
俺は傍に居たドーキの肩に手を置く。それを合図に、ポーセハイたちが兵士たちに向き直る。アガルタ軍の姿が消えたのは、その直後のことだった。
「ただいま」
帝都の屋敷に着いたのは、すでに陽が落ちた頃だった。転移でアガルタの都に戻ったのはいいが、その直後から、俺が留守の間にたまりにたまった仕事を処理しなければならず、俺は鎧を脱ぐ間もなく仕事に追われる羽目になった。と同時に、戦いで亡くなった兵士たちのことや、その他、戦後の残務処理も並行して行わねばならず、本当に目の回るような一日だった。
それはメイも同じであったようで、研究所に帰ってすぐさま、戦いで重傷を負った兵士たちを見舞い、その治療に当たっていたのだと言う。彼女も、留守にしていたのは数日間とはいえ、仕事は溜まりに溜まっていたらしく、それはそれは忙しかったのだそうだ。
ただ、さすがに周囲の者も、あまりに引きとどめては可哀想だと思ったのだろう。夕方近くになると、取りあえず今日は休んでくださいと言ってくれたのだ。その言葉に甘え、俺は最低限、やらねばならない仕事を終えて、家路に着いたのだった。その際、研究所に寄って、メイの身柄も確保してきた。放っておくと彼女は、本当に仕事が終わるまで徹夜し続けて、家に帰らない可能性がある。さすがにそれはいけないと考えた俺は、無理に彼女を帰らせたのだ。
屋敷に入ると、夕食の時間なのか、とても美味しそうなにおいがする。ダイニングに入ると、まさに夕食の直前だったようで、家族が全員揃っていた。皆、俺たちの姿を見て、表情がパァァっと明るくなった。それを見て俺も笑顔になる。
「おとうさん!」
「おかあさん!」
突然、エリルとアリリアが椅子から飛び跳ねるようにして俺たちのところに向かってきた。そして、エリルは俺の胸に、アリリアはメイの胸にダイブする。
「おとうさぁぁぁぁん。おとうさぁぁぁぁん」
「よしよし、エリル。偉かったね。ありがとうね」
俺はエリルを抱きしめながら、その頭をやさしく撫でる。ふと隣を見ると、メイとアリリアは抱き合ったまま泣いている。これはこれで美しい光景で、思わず俺もウルっときてしまう。
「おかえりなさいませ」
リコが笑顔で迎えてくれる。その表情に俺も、何だかホッとする。
「リコも、大変だったな」
「いいえ、私など……。それよりも、もう戦いは終わったのでしょ? その鎧を脱いで、夕食を食べましょう」
「いや、この鎧は脱ぐのに時間がかかるんだ。ちょっと、お行儀が悪いけれども、このまま夕食にしよう。子供たちもお腹がすいているだろう。それに……俺も、お腹がすいているんだ」
そういう俺に、リコは優しく微笑みながら、では、夕食にしましょうと皆に声をかける。
俺は、久しぶりに、家族と共に賑やかな夕食を楽しんだ。
……そして夜。メイとシディーに鎧を脱がせてもらい、風呂に入って疲れを癒した俺は、寝室に向かう。そこには、息子のイデアを寝かしつけたリコが待っていた。
「イデアは、寝たのか?」
「ええ。お父様が来るまで起きていると頑張っていましたけれど、寝てしまいましたわ」
そう言いながらリコは、イデアをやさしくベッドに運ぶ。そして、ゆっくりと俺に抱きついてきた。
「おかえりなさいませ」
「ただいま、リコ」
俺はリコを強く抱きしめて一旦体を離す。そして、彼女の腕を取りヘイズが付けたシミのあった部分をじっと見つめる。
「シミは……無くなっているな」
「ええ。ヘイズの許から帰って来て、しばらくして、シミは消えましたわ」
「そうか……。やっと、いつものリコに戻ったな。シミ一つない、素晴らしい肌に……」
「リノス」
リコの声に思わず彼女の目を見つめる。彼女は真剣な眼差しを俺に向けている。
「ヴィエイユのこと、聞きましたわ。あの方を……いかがするのです?」
「何もしないつもりだよ」
「でも……。リノスの前で、裸になったのでしょ? 心は……動かなかったのですか?」
「うーん」
俺は優しくリコを抱きしめる。そして、その耳元で、小さな声で呟く。
「どうも俺は、向こうからやる気満々で来られると、引いてしまうんだよな。どちらかと言えば、俺は、リコみたいなタイプが好きなんだ」
そう言いながら俺は、リコの体をゆっくりと離す。そして彼女のパジャマをゆっくりと脱がせた。
「……ううっ。……じっと……見ないで……見ないでくださいませ。明かりを……。はっ、恥ずかしい……ですわ……」
「俺は、こうして恥ずかしそうにしているリコが、一番好きだ……」
そう言って俺は、再びリコを抱きしめ、部屋の明かりを落した。
さる10/31に『結界師への転生④』が発売されました。雫綺一生先生のイラストが大変好評のようです。まだご覧になっていない方は是非一度、ご覧ください!