第三百五十話 絶叫
「人殺しだ! コイツは人殺しだ! コイツが俺の母親を殺したんだ!」
少し離れた場所で、一人の男がマトカルを指さしながら、狂ったように叫んでいる。ローウッドは男を窘めようと歩き出すが、マトカルはそれを止め、放っておけと言わんばかりにゆっくりと首を振る。
男はなおも叫び続けている。その声に、何事かと思った民衆が徐々に集まってくる。彼らは遠巻きにその男の姿を見ていたが、やがて、数人の男女が進み出てきて、先程の男と同じようにマトカルを指さして大声で叫び始めた。
「アイツだ! ジュカ時代にこの都の人々を殺しつくしたラマロン軍の司令官だ!」
「お前たちのせいで私の両親は殺されたわ! 返して! 父と母を返して!」
「人殺し! 人殺し!」
その声に引き寄せられる形で群衆は見る間に増えていく。その上、集まった群衆がざわめき始めていた。
「マ……マトカル様」
「放っておけ。我々の敵は外のアンデッドだ」
そう言い捨てて、マトカルは自分の許に曳かれてきた愛馬の上にひらりと跨った。その瞬間、マトカルの顔に何かが当たった。
「……ッ」
ふと見ると、足元にグチャグチャに潰れたトマトのような果実が見えた。どうやらこれが顔に当たったらしい。それが契機となったのか、群衆の中からマトカルをめがけて、石など色々なものが投げつけられる。
ローウッドをはじめとする兵士たちは、どうしてよいのか分からずに、その場に立ち尽くしてしまっている。だが、その兵士たちをマトカルが一喝する。
「放っておけ! 今、我々がやらねばならぬことは、アンデッドの討伐だ! このアガルタの都を守ることだ! その気のない者はここに居て構わん! 都を守る気のある者は、私に続け!」
マトカルはそう言って民衆に背を向け、ゆっくりと馬を西門へ進める。兵士たちは顔を見合わせていたが、やがて一人、また一人とマトカルの後を追い、やがて全員が整列して彼女の後に続いた。
民衆はなおも騒ぎ続けている。相変わらず、マトカルたちには石などが投げられているが、兵士たちは全く狼狽えることなく、整然と行進している。そのあまりに統率の取れた行動に、民衆たちは息を呑んだ。
マトカルたちが隊列を組んだまま西門を潜ろうとしたそのとき、マトカルの名を呼ぶ声が響き渡った。
「マト! おやめなさい! 今すぐ屋敷に帰るのです! マト! マト!」
声の主は、ヒーデータ帝国の屋敷にいるはずのリコレットだった。彼女は西門のすぐそばの城壁の上で、必死で声を上げていた。マトカルは馬上でその姿を確認すると、一瞬、目を見開いて驚いたが、やがてフッと笑みを漏らす。そして、右手を挙げ、心配ないという素振りを示した。
「マト! お腹に赤ちゃんがいるのです! 今すぐ屋敷に帰るのです! 子供に何かあったら、どうするのです!」
リコが必死で叫んでいるが、マトカルは微笑みを湛えたままゆっくりと首を振る。そして右手を自分の腹に当て、ゆっくりと撫でながら小さな声で呟く。
「すまんな……。でも、ありがとう……」
彼女は一瞬だけ、悲しみをこらえる表情を浮かべたが、やがていつもの表情に戻り、後ろに従う兵士たちに向けて大声で命令を下した。
「これよりアンデッドを討伐する! 私に続け!」
マトカルは馬に鞭を入れ、勢いよく馬を走らせる。そして、その後ろを兵士たちが従って行った。
「マト! おやめなさい! 子供が流れてしまいますわ! マト! マト!」
リコの叫び声が、少しずつマトカルの耳から遠ざかっていった。
一方、妖狐・ヘイズは群衆の中にいた。彼は魔法で、事前に送り込んだ人間たちの意識を操りながら、マトカルに対して憎しみを強めるよう扇動していた。だが、彼の力をもってしても、民衆はなかなか扇動されることはなく、暴れているのは、彼が送り込んだ人々のみだった。当初の計画では、都の人々を扇動して大混乱を引き起こし、その隙に女神を攫おうとしていたのだ。今回は途中までは、予想外とも言える程の出来栄えだった。何と、出てこないと踏んでいたマトカルが現れた。彼は民衆を使ってマトカルを襲わせ、その息の根を止めようとした。だが、大多数の民衆は動かず、その計画は躓きを見せていたのだった。
彼の魔力をもってすれば、数千の民衆を扇動することは可能だった。だが彼は、リコレットを手に入れるために万全を期したいと考えていた。相手は自分の計画を何度も潰してきたアガルタ王・リノス。いつも予想外の行動を取る彼のことだ。今回も何があるか分からない。最悪の状況を想定した場合、いたずらに魔力を使うことは避けたかった。
だが、その扇動が功を奏したのか、マトカルが出発しようとしたそのとき、彼の耳に、忘れようにも忘れられないあの声が聞こえてきた。
「……ついに見つけたぞ、僕の女神!」
彼は素早く群衆から離れると、懐からラトギスの杖を取り出し、地面に向けた。
「マト……マト……」
リコはマトカルが去った方角をじっと見つめていた。彼女は、西側の城壁から放たれている魔法に当たらないように、一旦北の方角に移動しているようだった。それでも、彼女を見つけたアンデッドの一部が、わらわらと向かっている。軍勢は襲ってきたアンデッドを斬り伏せているのか、一切スピードを落とすことなく、進軍を続けている。
何とか彼女を止めなければ……。だが、今の自分には足がない。そのときふと、彼女の頭に閃くものがあった。
「ローニ……ローニに頼めば……」
ポーセハイは相手の魔力を辿って転移することができる。マトカルとも何度も接しているローニならば、彼女の魔力を辿ってそこに転移することはできるだろう。そう考えた彼女は、ローニに向けて念話を送ろうとした。だが、その瞬間に、彼女の呼吸が止まった。
「リコレット」
突然自分の名を呼ばれ、思わず振り返った先には、何と、妖狐・ヘイズの姿があったのだ。
「やっと会えたね。会いたかったよ」
彼は優しそうな笑みを湛えながら口を開いている。だが、その体中から発せられるただならぬ雰囲気に、リコは無意識のうちに体を震わせた。ヘイズはそんな彼女にスッと近づき、右手を彼女のあごの下に添える。
「……やはり、美しい」
その言葉に、リコは顔をそむける。
「あっ! オクタ!」
ヘイズの背後で女性の声が聞こえた。彼は忌々しそうに振り返ると、そこには、二人の女性が立っていた。彼にはその二人に見覚えがあった。
「ハーギ? もう一人は……まさかゼザか?」
二人とはミーダイ国の一件以来会っていなかったが、ハーギの姿はそのときと変わりはなかったが、ゼザは著しく成長して、女性としての色気を放っていたのだ。
「ほう、あのゼザが……変われば変わるものだな」
妙に感心する彼に、ハーギは素早く剣を抜き、斬りかかってきた。
「ふんっ!」
まるで虫を払いのけるように右手を払うと、ハーギが無言のままゆっくりと崩れ落ちた。その様子にゼザは目を丸くして驚いている。
「ゼザ、お前もか? だが、あいにくと私は、お前の相手をしている暇はない」
その言葉を聞くや、ゼザはフッと息を吸い込んだ。
「こっ、こんなところで~お前に会うとはな~♪ ひっひっひーさまのぉ~♪ 仇であるお前だぁ~♪ この私がぁ~この私がぁ~何としてもぉ~♪ お前を~お前を~討ち果たすぅ~♪」
「え?」
ゼザの振る舞いがヘイズには理解できなかった。ゼザと言えば、焦り出すと言葉が擬音だらけになり、何を言っているのか分からない女だったのだが、今、目の前にいるゼザは、まるで踊り子のように歌を歌っている。この全く予想していなかった展開に、ヘイズは一瞬混乱した。その彼の様子を見て、ゼザはさらに口を開く。
「私のぉ~心はぁ~歌で~歌で伝えるのだ~♪ Oh Year! 目の前にいる敵ぃ、アタシの仇ぃ、今流行りの正義を振りかざす場合じゃねぇぜイエスっ! 正直者の正義依存症アタマ割りなよジーザス! まき散らした怒りはヤツの命を奪うだろう!」
「ふんっ!」
ゼザがラップのような歌い終わらないうちに、ヘイズの杖が振り下ろされ、その瞬間にゼザの姿が消えた。
「さあ、これで邪魔者はいなくなった。来るんだ、僕の女神!」
リコに振り返った彼の顔には、赤黒い筋隈が浮かんでいた。