第三百八話 母と娘
アガルタの迎賓館の一室で、一人の女性が浮かない顔で、手紙に目を通していた。彼女は深くため息をつくと、その手紙を丁寧に折り畳んでいった。そして、ゆっくりと立ち上がり、足早に部屋を出ていった。
「……なるほど。そういう事情ならば大変だな。いつでもアガルタに来てもらうといい。いいな、リコ?」
俺は隣に座っているリコに目配せする。彼女は力強く頷き、そして、毅然とした声で、
「ご実家にまで裏切られるとは、お気の毒ですわ。是非、ここアガルタにおいでくださいとお返事なさってくださいませ」
その言葉に、深々と頭を下げているのは、サルファーテ王国の第四王女である、ルファナだった。
彼女の許に届いていた手紙は、母親であるサルファーテ女王からのものだった。そこには、この間まで身を寄せていた屋敷が襲撃され、多くの者が殺されてしまったこと。そして、そこから命がらがら脱出し、現在はメモブールという長姉が嫁いでいる国に身を寄せていること。さらには、そこすらも安心することはできず、できれば、ルファナのいるアガルタに身を寄せたいと書かれてあったのだ。
サルファーテ王国が滅亡して約1年。母からこのような連絡が来るとは、ルファナ自身も思ってもみなかった。それもそのはずで、ルファナは母から勘当されており、おそらく二度と会うことも、連絡をもらうこともないだろうと諦めていた。そこにきての、突然の母からの手紙……。彼女が戸惑うのは無理のないことだった。
元々、魔法に対して適性のなかったルファナは、母親の愛情は注がれず、どちらかというと王国内では冷遇されていた。だがそれでも、生来生真面目な彼女は、母親を敬い続け、王国が崩壊した際、母や姉たちの無事が確認されたときなど、涙を流して喜んだのだ。
結局、母と姉たちは、脱出に成功した者たち千数百の家来と共に、母の実家であるザイフェーク帝国に向かった。ルファナ自身は、たまたま、ポーセハイのテーシが傍に居たおかげでアガルタに転移して、危ういところを脱することができたのだが、それを知った母は激怒し、敵前逃亡であるとして、絶縁を宣言したのだ。ルファナは、勘当された以後も、母との連絡は定期的に行っており、自身の近況を報告し続けていたのだった。
現在、彼女は、アガルタ王・リノスの計らいで、留学生という扱いを受けており、都で丁重な保護を受けていた。彼女はそこで、貪欲に知識を吸収し、来るべきサルファーテ王国復興のときに備えていたのだった。その中でも、リノスの妻であるメイとマトカルとはたちまちのうちに打ち解け、まさに親友と呼べる間柄になっていた。ルファナはここで、ようやく自分の居場所を見つけ、自分の人生を謳歌しようとしていた。母からの手紙が届いたのは、ちょうどそんな頃だった。
ルファナは母から頼られたことを喜びつつ、一方で、一抹の寂しさを感じていた。彼女の知る母は、絶対君主として君臨する女王であり、あらゆる高位の魔法を操りながら国を導いていく強き王の象徴のような女性だった。そのため、弱音を吐く姿などは一度も見たことはなく、ましてや、娘とはいえ、他人に弱みを見せることなど、想像すらできない人物であった。
だが、手紙に書かれている内容からは、不安と焦り、そして何より、死に対して怯える母の心境がありありと読み取ることができた。王国から逃れてきた千数百の家来が、襲撃によって数十人に激減したとはいえ、まさか母がこのような弱気な手紙を送ってくるとは思わなかった。当初は、本当に母が書いたものかと訝ったが、その筆跡はやはり母親のものであり、彼女は、何とも言えぬ感情を持ちながら、その手紙に目を通したのだった。
母親の要請を承知した彼女の行動は素早かった。すぐさまリノスに連絡を取り、事の顛末を報告し、母親たちの保護を要請した。リノスもリコも、すぐさまその許しを出してくれ、ルファナは早速、母親にその旨を認めた書状を送ったのだった。
リノスからは、数十人であれば、ポーセハイたちに頼んでアガルタまで転移させようと提案されていたのだが、母からの返事には、それを丁重に断る内容が書かれていた。あくまで、自分たちの力で、海路にてアガルタを目指す、とあった。その母の頑固さにルファナは頭を抱えつつ、ひたすらに母が無事にアガルタに到着するように祈るのだった。
そして、メモブールを出立して三週間後、真夏の暑い盛りに、女王一行はようやくの思いで、港町であるガルビーに到着したのだった。ルファナは数日前からガルビーに滞在して、母と姉たちが入港するのを待っていた。そして、約1年半ぶりに再会を果たした。
「母上……」
「ルファナ……」
たった1年半会わないだけで、人はこれほど年を取るものなのかと、ルファナは息を呑んだ。豊かで美しかった母の黒髪は真っ白になっており、その顔には、苦労の後がにじみ出ていた。特に、眉間に刻まれた数本のシワは、彼女が常に他人を警戒し続けてきたことがよく見て取れた。母の足取りは重く、船から降りるとすぐに長年側に仕えてきた侍従武官のレアルに手を取られているほどだった。そんな、老いた母の様子は、ルファナの胸を痛いほどに締め付けた。
彼女は早速、母と姉たち一行をガルビーにある屋敷の一つに案内した。母は倒れ込むようにして椅子に腰かける。そして、姉たちが椅子に腰を下ろしたのを見計らって、ルファナも椅子に腰を掛けた。
「母上……お久しぶりでございます」
彼女の言葉に、女王は無言で頷いている。その様子を見ていたレアルが、母に替わって口を開く。
「女王様はご覧の通り、疲れ切っておいでになります。まずはルファナ様、ご健勝なる体を拝し、お慶び申し上げます。また、アガルタ王様に女王様、王女様の保護を要請いただき、心から御礼を申し上げます」
「レアル、いいのよ、そんな。お礼は私ではなく、アガルタ王様に言ってちょうだい。あなたも……苦労をしたのね。それに、姉上たちも……」
彼女はゆっくりと姉たちを見廻す。二人の姉は、目を合わせようともせず、俯いたままだ。彼女たちも、ルファナに対しては冷淡な対応を取り続けていたため、別段珍しい光景ではなかった。
「……ルファナ」
不意に母の声が聞こえる。思わず視線を向けると、彼女は手を震わせながら、たどたどしく言葉を絞り出した。
「この……アガルタは……どうなのじゃ」
「どう……と仰いますと?」
「我の命は、守られるのか? アガルタ王は、我を守ろうという意思はあるのか?」
母の言葉の意味がいまいち飲み込めず、ルファナは姉たちに視線を向ける。すると彼女たちはヤレヤレといううんざりとした表情を浮かべている。そして、二番目の姉がゆっくりと、諭すように口を開く。
「母上、アガルタは、あの……クリミアーナの干渉を退けた国です。隣国のヒーデータ帝国、ラマロン皇国、ニザ公国と同盟関係にあり、しかも、それらの国と婚姻……」
「我が聞きたいのは、そこではない!」
突然母が激高する。先ほどの疲れ切った老婆とは別人のような表情を浮かべている。これは、ルファナが知っている母ではなかった。あまりの変貌ぶりに、彼女は言葉を失う。
「我は……もう……あのような思いは……しとうはないのじゃ……」
肩で息をしながら母はゆっくりと椅子に座る。そしてさらに言葉を続ける。
「魔法が……通じぬ……。我が生涯をかけて磨いてきた魔法が……。魔法使いが、魔導士が死んでいくのじゃ……なす術もなく……死んで……。あの弓矢に貫かれて……」
「母上!」
突然女王の話が遮られた。慌てて声のした方向に視線を向けると、そこには三番目の姉が強張った表情を浮かべながら、女王である母親を睨みつけていた。母の、女王の話を遮るなど、王国にいるときには許されることではなかった。たとえ血のつながった娘とはいえ、そんな振舞いは考えたこともなかった。だが姉は、そんなことは日常茶飯事であるかのように、母に向かってさらに言葉を続ける。
「そのようなことを、行く先々で仰るから、せっかく我々をお助けいただいた国々が、タナ王国に恐れをなして……最後には、裏切るのですわ」
その言葉に母は、一瞬ぎくりとした表情を浮かべ、やがてオロオロと首を振りながら、俯いた。
「母上、アガルタは、アガルタ王様は、必ずや母上、姉上をお守りくださいます。まずは……都に参りましょう」
ルファナのその言葉に答えるものは、誰も居なかった。重苦しい沈黙が、部屋を包んでいた……。