第二百二十三話 ヴィエイユ、覚醒
アガルタの都にある執務室。リノスは、その椅子に腰かけながら両腕を頭の後ろに組み、物思いにふけっていた。その机の上には二通の書簡が置かれており、その前には、書簡を届けてきた二人の男が、リノスの顔色を窺うように立っていた。
「あの……お断りしましょうか?」
沈黙に耐えきれず、男の一人が口を開く。その言葉にリノスは、ちょっと驚いたような顔をしながら、あわてて手を振りながら返答を返す。
「すまないすまない。いや、まさか示し合わせたようなタイミングだったのでな。何か裏があるんじゃないかと勘ぐっていたんだ。そうだな……。やっぱり最初はこっちだな。正式にお話ししたいと書いてあるしな。あとのは……。もう少し待たせておけ。コイツはどうせロクなことじゃないだろう。……しばらく待っていてくれ」
そう言ってリノスは、執務室を後にした。
「まさかヴィエイユとカッセルから、同じタイミングで俺に会いたいと書簡を送ってくるとは思わなかったな。小娘の方は、リコにも話をしたいと書いてあるし、坊主の方はヴィエイユとも話がしたいと書いていやがる。二人ともほぼ文面が同じというのは、何か気持ち悪いな……」
そんなことをブツブツと呟きながら、リノスは一旦、帝都の屋敷に転移した。
数時間後、迎賓館の謁見の間では、リノスとリコが玉座に座り、会談を申し込んで来たヴィエイユを迎えていた。リノスが帝都の屋敷に戻り、ヴィエイユが会いたいと申し入れてきたとリコに伝えると、彼女はすぐさま承知して準備に取り掛かった。そして、1時間という、リコにしては驚異的な早さで身支度を整え、嫌がるリノスにも正装をさせて、この迎賓館に転移してきたのだった。当初は執務室でヴィエイユに会えばいいと考えていたリノスは、慣れない衣装のために居心地が悪く、少々不機嫌になっていた。
「……ご希望通り、我が王妃様にも同席いただいたぞ? わざわざ書簡なんか送らずに、メイやローニに言えばよかったものを。むしろ、お前が話をしたいのは王妃様の方じゃないのか? であれば、俺は席を外すが?」
正装をして謁見の間に現れたヴィエイユに対して、リノスはその不機嫌さを隠そうともせずに、ぶっきらぼうに話しかける。そんな彼の雰囲気に全く臆することなく、彼女は優雅に頭を下げる。
「お骨折りをいただきまして、ありがとうございます。いいえ。アガルタ王陛下にも是非、私の話を聞いていただきたく思います。アガルタ王様、王妃様、不躾なお願いを申しました私を、お許しくださいませ」
「いいえ、全く問題ございませんわ。このところ体調を崩されていたと聞いていましたが、見たところ、少しお元気になられたご様子ですね。その後、体の様子はいかがですか?」
相変わらず見事な美しさをたたえたリコが、ヴィエイユに話しかける。彼女は、かなり痩せてはいるが、目の下のクマも取れ、何より、その目には力強い光が湛えられていた。
「はい。ありがとうございます。問題ございません。アガルタ王妃様におかれられては、この私に、このようなおもてなしをいただけますとは恐縮です。こちらも、感謝申し上げます」
「ヴィエイユさん、あなたはクリミアーナ教国の教皇聖下の一族に連なるお方。そのあなたが、我が夫・アガルタ王陛下だけでなく、わざわざ私にも会いたいと書簡を送ってこられました。きっと、何か、ご決断をされたものと思いましたので、このようなもてなしを致しました」
「えっ? そうなの? それなら、執務室でもいいじゃん……」
そんなことをポソッと呟くリノスを、リコは笑みを湛えた顔のまま視線を向ける。しかし、その眼は全く笑っていない。これはいい加減にしなさいよというリコのサインだ。あまりスネ続けていると、あとでお仕置きをされてしまう。リノスは心の中でゴメンナサイを繰り返しながら、居住まいを正した。
「で、書簡にもあったが、我々に伝えたいこととは、何かな?」
ヴィエイユの気配が変わる。何かの覚悟を決めたかのような迫力が、彼女の全身から発せられる。
「私の生き方と覚悟が決まりましたので、ご報告申し上げようと思いました。ただ……」
「ただ……何だ?」
「はい。一つわからないことがあります。しかし、それは、私がこれからの人生をかけて導き出すものだと考えます。いらぬことを申しました。お忘れください」
「いいえ、ヴィエイユさん。もしよければ、そのわからないことも、教えていただけまして? もしかすると、何かの参考になることをお話しできるかもしれなくてよ?」
「はい、では……」
ヴィエイユは改めて居住まいを正し、そして、ゆっくりと口を開く。
「私は一旦、教国に戻ろうと思います。そして、これからは、主神様、クリミアーナ様のような聖女となるべく、この人生のすべてをかけたいと思います」
「何だ、今までとそう変わらんじゃないか」
思わず口を開いたリノスに、リコは再び視線を向ける。彼は一瞬リコを見たが、やがてちょっと首をくすめて、再びヴィエイユに視線を戻した。
「これまで私は、クリミアーナ教を信じる者たちだけを救おうと考えておりました。クリミアーナ教こそが正しく、それに反する思想、行動は、全て排除するべき悪であると考えておりました」
遠い目をしていたヴィエイユが、再びリノスとリコに視線を戻す。
「これから私は、クリミアーナ教を信じる者だけでなく、それに反する考え方を持つ方にも、それを信じない方にも、分け隔てなく救っていこうと思います。生きとし生けるもの全てに、救いの手を差し伸べられる人間でありたいと思いますし、そうなれますよう、努力して参りたいと思います」
「ずいぶんと立派な話だが、大丈夫か? 相当苦労すると思うぞ?」
リノスの言葉にヴィエイユは再び遠い目をする。
「私は気が付いたのです。クリミアーナ教の教義に、『我らを利する者は助け、害する者を排除せよ』という一節があります。それは、クリミアーナ教徒を救えという意味であると教えられてきましたが、おそらく主神様は、生きとし生けるもの全てを救えという意味で、我ら、という言葉を使われたのだと思います。そして、害する者とは、人の幸せを奪うもの、欲望や思想、あとは……まさしくアガルタ王が仰った、人に迷惑をかける行為や考えがそうなのでしょう。そうしたものを排除せよという意味であると思います。これこそが、クリミアーナ教の本当の教義だと気が付いたのです」
リノスはその言葉を聞いて、思わず、ほぅとため息を漏らす。そしてその直後、リノスの隣に座るリコが拍手をしながら立ち上がった。
「素晴らしい、素晴らしいですわっ、ヴィエイユ様! そのお言葉を聞いて、私もこれまで疑問に思っていた教義が、やっと腑に落ちましたわ」
ヴィエイユはニッコリとほほ笑む。
「死と隣り合わせの日々を送り、さらには、死にたくなるような日々がありましたが、むしろ、そうした環境に置かれ、自分自身と十分に向き合ったことで、私は本当にまだまだ生きていきたいのだと気が付きました。そして、どうやって生きていこうかを考えた結果、このような結論に至りました。私は、この試練を与えていただいたことに感謝しますし、私の命をお助けいただいたアガルタ王様には、心から感謝申し上げます」
そう言ってヴィエイユは片膝をつき、深々と頭を下げた。そして、しばらくすると立ち上がり、再び口を開く。
「私はこれから生きていくために、人を救う方法を身に付けねばなりません。それは、今はまだ、わかりませんが、これからの人生を通して見つけていきたいと思います」
「アラ、それは、簡単なことですわよ?」
リコは満面の笑みを湛えてヴィエイユを見ている。
「簡単、でしょうか?」
「ええ、簡単です。人を救う手段というのは、二つしかありませんわ。知識とお金です。人の心は知ることによって開かれますわ。私がそうでした。ヒーデータ帝国の城の中で育ち、全くの世間というものを知りませんでした。その時の私は、自分では何もできないくせに、高い理想を振りかざすイヤな女でした。それが夫と出会い、たくさんの方々と出会い、教えられ、諭され、経験して、今の私があるのです。ヴィエイユさん、あなたも、たくさんのことを学び、知り、経験をなさいな。そうすれば、あなたなりの人が救える方法が見つかりますわ。あとのお金は、言うまでもありませんわね。ないよりは、あった方がいいに決まっていますし、お金を持っていると、多くの人が救えますわ」
リコはゾッとするほど美しい笑みを湛えて、ヴィエイユに話しかけている。そして、そのヴィエイユも、何かに納得したように、大きく何度も頷くのだった。
「ところで、話は変わるが、カッセルから俺に会いたいという書簡が届いてな。そこには、ヴィエイユ姉さまにも会いたいとあった。どうだ、カッセルと会うか?」
リノスは咳ばらいをしながら、ヴィエイユに語りかける。彼女は一切の迷いなく、即答する。
「はい、問題ございません。むしろ、カッセルとは話をしたいと思っておりました。是非、アガルタ王様も、私とカッセルの会見に同席くださいませ」
「えっ? いいのか? 二人で話したいこともあるんじゃないのか?」
「いいえ。むしろ、アガルタ王様がおいでになった方が、よろしいかと思います」
「そ……そうか。ならば、そのように返答しておくよ。また、日程については連絡する」
「畏まりました。では、私は、失礼いたします」
ヴィエイユが退出した後、リノスは思わずリコに向かって、口を開く。
「まさかヴィエイユがあんな仕上がりになるとはな。予想外だ。それにしても、すごいな、リコ。いつの間に、あんなことを考えついていたんだ?」
「あら、全て、リノスが教えてくれたことですわよ?」
「俺が? ウソ……。そんなこと、あったかな……」
眉間に皺を寄せながらじっと考えているリノス。彼は自然に人を助けることができ、色々なことを気づかせる特技を持っているのだが、本人には全くその自覚がない。そんなリノスをリコは愛おしいと思い、さらに彼に対する愛情を深めるのだった。
数年後にヴィエイユは、クリミアーナ教始まって以来の大事件を引き起こすのだが、それはまた、別のお話。