第二百十五話 戻された現実
ヴィエイユは目の前の光景が理解できないでいる。ここはどこなのか。どうしてアガルタ王がここにいるのか、この兵士たちは誰なのか。だが、彼女はすぐさま自分を取り戻し、祖父譲りの怜悧さでこの状況の分析をはじめる。
おそらく、自分たちを保護してくれたリベルグ伯爵のことが外部に漏れたのだろう。アガルタ王は、自分に従わない伯爵を追い落とす絶好の機会を得たとばかりに、この屋敷に踏み込んできた。で、あれば、自分たちが囚われることはない。むしろ、自分たちを保護してくれた伯爵を庇うことで、自分の名声は高まる。それどころか、この屋敷に踏み込んできたアガルタ王の横暴さを吹聴することで、この国と王の名声を落とすことができ、教国が攻め込む口実も作ることができる。
「あれ?ここは……?」
ヴィエイユが頭の中で分析が完了しようとしていた時、不意に声が聞こえた、この声はカッセルの声だ。彼女はゆっくりと起き上がる。その瞬間、驚きの光景が目に入った。
目の前に広がっている景色は、いつも見ていたクリミアーナ村にある、自室の光景だった。
「これは……。リベルグ伯爵は……?」
目をギョッと見開きながらヴィエイユは周囲を見渡している。そして、同じように狼狽しながら周囲を見回しているカッセルの姿が目に入った。
「カッセル……」
「姉さま……。ここは……伯爵様のお屋敷では?一体いつの間に?」
「二人とも、楽しい夢を見ていたようで、何よりだな。リベルグ伯爵って、誰のことだ?アガルタにはそんなヤツはいないぞ?」
男の声を聞いて二人はビクッと体を震わせて、目を見開きながら、声の主であるリノスを凝視した。
「まあ、たっぷり寝られたようで、よかったな。いい夢は見られたか?取り敢えず俺は、そこの坊主を送り届けた。コイツは教育がなってないな。もう一度、イチから行儀作法をやり直させろ。この坊主が姉さま姉さまと言うから心配していたが、元気そうだな?安心したよ。じゃあ俺はこれで失礼するよ?」
リノスが踵を返すとドアが開き、兵士たちが担架を運び込んできた。よく見るとそこには顔に紫の斑点を浮かべた若い男が乗せられていた。
「アッ・・・ハッ・・・ガッ・・・」
男は体を震わせながら、首に手を当てて口を大きく開けている。そんな様子を見て、リノスは口を開く。
「何とまあ。君はルロワンスに感染しているな?かわいそうに発作を起こしているぢゃないか!おおおお、苦しいだろう。見たところまだ若いぢゃないか。未来ある若者が目の前で死なれちゃ夢見が悪い。さっそく治癒しようじゃないか」
抑揚のない、まるで棒読みのセリフのような、一切の感情を感じないセリフ回し。しかも途中カンでしまっている。リノスはそんな出来栄えに落ち込んだ様子もなく、淡々と男の前で膝をつき、体に手を触れる。しばらくすると、男は肩を上下させながら呼吸を整え始めた。よく見ると、その顔には紫の斑点が消えている。リノスたちはその様子を見届けて、ゆっくりと立ち上がり、部屋の外に出て行った。
ヴィエイユとカッセルは呆然とした表情で、その後姿を見送った。その直後から、ここ最近特にひどくなってきた悪臭が漂ってくる。その臭いは、二人の意識を否が応にも現実に引き戻していった。つい今しがた、リノスを連れてきた司教のムーラックが、ヴィエイユの名前を呼んでいるが、彼女の耳には届かない。彼女はよろよろと立ち上がり、恐る恐る隣の部屋の扉を開け、そして、すぐに扉を閉めた。扉を背に、もたれかかるようにして立ち尽くすヴィエイユの息が乱れている。彼女が見たものは、顔中に紫色の斑点を浮かべながら絶命している、二人の司教の姿だった。そして、この二人が部屋の悪臭の原因になっていることも思い出した。
ちょうど五日前、この部屋で司教のジョリーナと祈りをささげていた時、隣の部屋でドン、と大きな音がした。部屋を覗いてみると、一番若い司教であるルワローグが目をカッと見開いて倒れていた。
慌ててジョリーナが駆け寄って介抱するが、ルワローグの反応はない。このひと月、この村で頻繁に見られたこの光景は、ヴィエイユを急速に追い詰めていた。ピクリとも動かないルワローグ、必死に彼の名を呼ぶジョリーナ、そして自分。三人共に、体中に紫色の斑点が浮き出ている。ヴィエイユに至っては、体はもとより、顔中にも紫色の斑点が出ており、その整った美しい顔を不気味な化け物じみた顔に豹変させていたのだった。
彼女はその光景を凝視することができず、後ずさりしながら、主神であるクリミアーナの肖像画に向かう。そしてそこで、一心不乱に祈りをささげ始めた。今、自分たちが罹っている病は、ルロワンスであろう。紫色の斑点が出ている者は確実に死ぬ。しかもそれは、突然に倒れて死んでいくのだ。
この病は伝染する。医師たちの判断で、発症した者はこの村に閉じ込められ、そうでない者は、さらに森の奥深くに避難するという措置が取られていた。しかし、その避難先でも発症する者が後を絶たず、ほどなく村は、紫色の斑点を浮き出した者たちでいっぱいになった。村人は最低限の食事を摂る他は、一日の大半を祈りに費やすようになっていた。そして、ヴィエイユと数名の司教もそれに感染し、元いたロッジでの生活に戻っていたのだ。
ルロワンスに発症していない者が死者に触れることは、病気に感染する危険性があったために厳禁されていた。そのため村では、病を発症した者が死者を葬っていたのだが、亡くなる人が増えるにつれて、村人はその遺体を放置するようになり、さらにも増して祈りに時間を割くようになった。そのため村では、あちこちから死臭が発生し、さらに劣悪な環境に陥っていた。
本国から連れてきたクリミアーナ自慢の医師団も、この状況には全く対処できないでいた。この村の中に獣人は一人もいない。ルロワンスの感染は獣人を媒介すると信じていた彼らは、この現状に戸惑うばかりだったのだ。
そんな状況のもと、多くの信者の死が確実に迫っており、しかも、それがいつ起こるのかがわからない。本国には定期的に連絡を入れているが、この時期はイルベジ川が氾濫しており、救援は期待できない。それを証拠に、本国から使者が訪れたことが一度もなかったからだ。たとえ教国が総力を挙げて優秀な医師、薬を送ったとしても、今のこの状況が改善できるかどうかは誰にも分らない。
ヴィエイユは、今日、すぐに死ぬかもしれないという恐怖に押しつぶされそうになりながら、必死に祈り続けた。そうしないと、発狂してしまいそうだったのだ。
どれほどの時間が経ったのだろう。気が付くと辺りは既に暗くなっていた。周囲には誰もいない。彼女はジョリーナの名前を呼ぶが、返事はない。彼女はライトの魔法を唱えて部屋を明るくし、そして、恐る恐るルワローグが倒れている部屋を覗き込んだ。
そこには、ルワローグに添い寝するような形で絶命している、ジョリーナの姿があった。そして、ふと視線を上げると鏡があり、そこに映った、青白い顔一面に不気味な紫の斑点が浮き出た自分の顔と目が合った。
「いやぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
堪えていたものが爆発したかのように、彼女は叫んだ。必死で祖父を、父を、母を、そして、近くの村に居るであろう従弟のカッセルの名を。しかし、いくら呼んでも叫んでも、誰も、何も答えてくれなかった。まさしく彼女は、たった一人になっていた。
それから彼女は、祈り続けた。一心不乱に祈り続けた。朝になり、様子を見に来た司教の呼びかけに全く応じず、ただ救い給えと祈りを繰り返した。司教たちが何度もヴィエイユを休ませようとするが、彼女は断固としてそれを無視し続けた。祈りを止めた瞬間に、自分の命が終わりそうな気がしてならなかったのだ。
一体、どのくらいの時間が経ったのだろう。ずっと同じ姿勢のまま、朦朧とする意識。何度も気絶しそうになるが、徐々に強くなってくる死臭のために、意識はギリギリのところで失われることはなかった。このまま気絶できればどれだけ楽だっただろう。しかし、漂ってくる強烈な臭気は、彼女に眠ることを許さず、さらに彼女を死の恐怖に苛んだ。
そんな発狂寸前にまで追い詰められていた時、不意に自分の名を呼ぶ声が聞こえた。思わず振り向くと、そこには見慣れぬ男の姿が映った。よく見るとそれは、アガルタ王・リノスの姿だった。
瞬時に彼女は、リノスに対して毅然とした態度を取らねばならないと考えた。彼に応対しようとしたその瞬間、紫色の斑点が無数に浮き出た自分の左手が目に入り、自分自身の醜い姿を思い出した。彼女は本能的に、変わり果てたその顔を隠す。そして、彼女の意識はそこで途切れたのだった。
あのお屋敷での五日間は何だったのか?自分の病は治ったのではなかったのか?そんな疑問が頭をよぎる。しかし、目の前に見えている光景は、まさしく今まで自分が耐えに耐えてきた環境であった。死臭と共に漂っているカビのニオイ、じめじめとした空気、じっとりと湿っている衣服。しかもそこには、あちこちに黒いカビが生えている。そして、隣の部屋には、腐乱し始めている二人の司教の死体……。
また、あの生活に戻らねばならない?いつ来るのかわからない死を待つ生活を送るのか?恐怖に、不快に耐えていくのか?そう考えた時、彼女の目に、先ほどリノスに治療された男の姿が目に入った。彼は茫然とヴィエイユを見ている。彼と目が合った瞬間、彼女は何かに弾かれるように、外に飛び出していた。そしてそこには、アガルタ王、リノスの後姿と、それを取り囲むように立ち尽くす、多くの病に侵された信徒たちの姿があった。そして、鼻を突く臭気。その悪臭は、ここで歯を食いしばって耐えてきた今までの悪夢を、鮮やかにヴィエイユの脳裏に思い出させた。
「待って!」
ヴィエイユは無意識に叫んでいた。リノスの動きが止まる。彼女はその背中に向かって、必死に叫ぶ。
「お願い!お願いです!助けて!助けてください!お願いします!お願いします!」
リノスは背を向けたまま動かない。ヴィエイユは転げ落ちるようにロッジの階段を駆け下り、リノスの足に縋りつく。
「お願いします!助けて!お願いします!助けて!助けて!助けて!死にたくないのです!死にたくない!死にたくない!助けて!助けてください!お願いしますぅぅぅぅぅ!!!!」
絶叫し、慟哭するヴィエイユ。そこには教皇の孫というステータスも、品位も、気品も何もかもをかなぐり捨てた、子供のように泣きじゃくる少女がそこにいた。
「姉さま……」
その姿を見て、カッセルが絶句したように立ち尽くしている。ヴィエイユはリノスのズボンの裾を掴んだまま、白い服を泥だらけにしながら、なおも慟哭している。リノスはため息をつくと、ゆっくりと顔を向けて、足元のヴィエイユとカッセルと交互に視線を向ける。
「お前たちの、クリミアーナ様に、助けてもらえよ?」
優しい笑顔を湛えて、リノスは口を開いた。その言葉を聞いてヴィエイユは泣きながら頭を振る。
「お前たちはこの地に、楽園を拵えるんだろう?そして、お前たちのクリミアーナ様は、大魔王クラスの厄災でも、お前たちを守ってくださるんだろう?今こそ俺にみせてくれ。そのご加護とやらを」
ヴィエイユはイヤ……イヤ……と呟きながら小刻みに首を振っている。カッセルは息を荒くして呆然とリノスを見ている。そしてその周囲には、固唾をのんで様子を見守る、クリミアーナ村の住人たちの姿があった。
リノスは周囲をゆっくりと見渡す。どれも、紫色の斑点が浮き出た者たちばかりだ。その様子にため息をつきながら、リノスはゆっくり踵を返して、ヴィエイユたちに向き直る。
「助けてやってもいいぞ?お前が罹っているのはおそらくルロワンスだろう?それが完治するかどうかはわからんが、その紫色の斑点を消すことくらいはできる。しかしそれは、お前たち自身を否定することになる。クリミアーナ教そのものを否定することになるんだが、それでも構わんのか?要は、お前たちのクリミアーナ様は、お前たちを救わなかったことになるが、それでもいいんだな?」
ヴィエイユは恐る恐る顔を上げてリノスを見る。もはやこの少女に、この状況を分析し、対策を講じるという思考力は残っていなかった。彼女はただ、涙を流して、声にならない声を上げ続けるしかなかった。