第千百四十五話 クリミアーナが参戦してきたゾ!
デウスローダ軍に動きがあると見たアガルタ軍は、彼らが撤退する道を開けた。それは総司令官たるマトカルが何の指示もない中で行われた。それはまるでこうしたことが起こるのを事前に知っていたかのような振る舞いだった。
馬上のバゼットはマトカルに一礼すると踵を返して、犇めく兵士たちの間を縫うようにしてその場を離れていった。
アガルタ軍が退路を開けたとはいえ、周囲は相変わらずアガルタ軍兵士が盾を並べているために、デウスローダ軍の行動は非常に渋滞した。ノロノロと兵士たちは移動していき、国王ブレイがその場を離れることができたのは、撤退を命令してから三十分後のことであった。
マトカルは敵に撤退を見届けると、全軍に元の位置に引き上げるよう指示を出した。
アガルタ軍の撤退は迅速であった。まるで調練のように行軍していく様は見事であり、その様子をデウスローダ軍の兵士たちは呆気にとられたかのような顔で見送った。
ブレイらはもとの陣から二キロメートルほど離れた場所に布陣した。その国王を守るような形で各部隊は配置につく。当初と同様の魚鱗の陣形であった。
ややあってブレイは幕僚たちを集めた。彼らは一様に恐縮して畏まるばかりであった。最も下座に控えている、司令官殿の一人であるオルグは、その緊張感に耐えられないとばかりに、席を離れると片膝をついて畏まり、涙を流しながら情けない戦いをして申し訳ございませんと詫びた。その様子にブレイは大いに満足した。
ようやく殿を勤め終えたデアイゼルが帰ってきた。彼は憮然とした表情を崩そうともせず、片膝をついて畏まるオルグら司令官に冷ややかな目を向けた。
そこに伝令兵がやって来て、クリミアーナ軍がこちらに向かってきていると告げた。
「父上、ここはクリミアーナ軍にアガルタに突撃を仕掛けてもらいましょう」
ニーシャがまるで縋りつくような目でブレイを見た。彼は大きく頷くと同時に、伝令兵に、クリミアーナ軍を率いているのは誰かを尋ねた。兵士は一瞬間を置いたが、恐れ入ります、存じ上げませんと言って再び頭を下げた。ブレイは男にクリミアーナ軍の司令官に軍議に参加してもらいたいと告げろと命令して下がらせた。
その男と入れ替わるように、別の伝令兵が入ってきた。クリミアーナ軍の上空が赤く染まっていると言うのだ。まだ陽が高い中でそんなことはあり得ないことであった。ブレイは一体それが何であるのかを確認せよと命令した。
そのとき、幕僚の一人が、伝令兵に、確かに赤く染まっているのだな、と重ねて聞いた。男はその通りですと答えた。と、その幕僚がゆっくりと立ち上がった。
「ベルデ、どうした」
立ち上がったのはベルデ、という男だった。未だ片膝をついて控えているオルグの上席に当たる男だが、幕僚の中でも序列は低い。どちらかと言えば兵站を担当している男で、仕事はできるが大人しく目立たない男であった。
「空が燃えるとき、聖なる火が邪悪なるものを焼き尽くす。その火の後には聖なる灰がのこり、そこから、すべては再生する……」
ベルデは誰に言うともなく呟く。どうしたのだとブレイが言おうとしたそのとき、ベルデの手が剣の柄を握っていることに気が付いた。
そのとき、小雨が降ってきた。晴れ渡っているのに、どうして雨が降るのか。だがそれは雨ではなかった。真っ赤な血だった。
ブレイが気づいたときには、ベルデの傍にいた幕僚たちの首が飛び、そこから血が噴き出していた。そこにいた誰もが時が止まったかのように固まっていた。見ると、先ほどまで打ち震えていたオルグと、幕僚の一人であるゼルストが剣を抜いて立っているのが見えた。
三人は固まる幕僚たちを一瞬のうちに斬り伏せた。ブレイが言葉を発しようとしたそのとき、親衛隊長のヒョウが動いていた。彼は剣を抜きながら素早くブレイの前に出た。
「国王様!」
お逃げくださいと言おうとしたのだろう。だが、そのときにはもう、彼の命は尽きていた。ベルデの剣がヒョウの喉笛を正確に突いていた。と同時に、ブレイの左右に控えていたデアイゼルとニーシャが、オルグとゼルストの剣によって首を刎ねられていた。ブレイは反射的にその場を離れようと駆けだした。そのとき、右足に激痛が走った。以前の戦いで斬られた場所だ。そう言えば、激しい運動をするとこの足が痛むのだった。それを思い出したときには、ブレイの背中に三本の剣が突き立てられていた。
空を焦がすような赤い雲は、マトカルの陣からも見えていた。彼女は一切表情を崩さないままであったが、体には緊張感があった。それを察した兵士たちもまた、自らの体を緊張させた。
クリミアーナ軍はまっすぐにデウスローダ軍に向かって突撃を敢行した。それは全く予想していなかったのだろう。デウスローダ軍は何の反撃もできずに、真正面からその攻撃を受けた。
クリミアーナの攻撃は凄まじいの一言に尽きた。気の狂れた集団が槍を構えて突撃をするというもので、鎧も装備せず、盾も装備しない兵士たちが奇声を上げながらしゃにむに攻撃をする様は、正視に耐えうるものではなかった。
見る間に陣形を崩されていくデウスローダ軍にあって、バゼットの部隊だけは何とか持ちこたえていた。だが、徐々に彼らはクリミアーナ軍の包囲の重層に陥りそうになっていた。
その様子は馬上のマトカルからはよく見えた。バゼットの隊を中心として周囲は乱戦になっていた。そのような状態になるということは、デウスローダ側にとっては自陣深く攻め込まれている状態であり、指揮命令系統が崩壊している証拠でもあった。
クリミアーナ軍は徐々に王都方向に兵力を集中させていた。つまり、デウスローダ側の退路を断とうという動きだった。そのとき、バゼットの隊がアガルタ側に向かって動き始めたのが見えた。彼らは包囲の中で最も手薄な場所を把握して、そこに突破口を見出そうとしたのである。
一見するとこれは悪手であるように見えた。彼らの行く方向にはアガルタ軍が陣を張っているからだ。これではアガルタとクリミアーナの挟撃にあうことは目に見えていた。マトカルは全軍に前進せよと命令すると、腰に差している剣を抜いた。
バゼット隊はじりじりとアガルタ側に向かって進んでいた。敵の攻撃を受けながら、防御しながらの撤退である。並の隊ならば潰走状態になってもおかしくない状態であるのに、バゼット隊は盾をピタリと並べてクリミアーナからの攻撃を防御し、その状態のままでゆっくりと移動するという芸当をやってのけた。それはアガルタが先ほどの戦いで見せたのと同じやり方だった。相手の手法をすぐに取り入れて戦いに生かしている。そういう戦い方はマトカルは嫌いではなかった。
アガルタ軍は見る間にバゼット隊に肉薄した。彼らもまた、盾を揃えて前進してきた。だが、彼らはバゼット隊に攻撃を仕掛けず、彼らとまるで入れ替わるようにして前に出た。クリミアーナ兵は一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、血の気の多い者はアガルタ軍に対して攻撃を仕掛ける者もいたが、そういう者たちは容赦なくアガルタの槍の餌食になった。
「ここから先は、アガルタの領域である。わが領域を犯すものは、誰であろうと敵である」
馬上のマトカルがよく通る声で宣言する。クリミアーナ兵たちは血走った目で彼女を睨みつけた。
「貴様らの指揮官を連れてこい」
マトカルはそう言って周囲の兵士を睨みつけた。彼らは一様に憎しみの眼をマトカルに向けていたが、ややあってじりじりとその場を離れていった……。




