第千百四十三話 戦況が変わるゾ!
確かに、デアイゼルの言うように、弓隊の一斉攻撃を行えば、アガルタに大きなダメージを与えられるかもしれない。また、少なくはあるが、魔法使いの部隊が攻撃を行えば、さらにダメージを与えられるかもしれない。だが、ブレイの脳裏に、アガルタ軍が弓隊の攻撃を盾で完全に防御したあの光景が蘇って来ていた。もし、仕損じたらどうなるのか。彼はそこで考えることを止めた。
彼は控えているヒョウの顔を見た。その目はバゼットを殺してはならぬと訴えていた。これまで苦虫を噛み潰したような顔をするものの、何も反論してこなかった彼がこうした行動に出たのは意外でもあり、嬉しくもあった。確かにあのバゼットは、口数は少ないが、新兵たちをあそこまで鍛え上げたその力量は、彼もまた評価していた。だからこそ、国王の周辺の防御を担わせたのだ。
「国王様、今がその機会です。この機を逸してはなりません!」
デアイゼルがそう言って割り込んできた。それに釣られる形で、ニーシャが大きな声を上げた。
「何をしているのじゃ! 目の前に敵の総司令官がいるのです! 攻撃しなさい! 攻撃をするのじゃ! それでも騎士ですか! 騎士ならばその勤めを果たしなさい!」
ニーシャの甲高い声は広い戦場に響き渡った。耳障りな声であった。そこにいた誰もが不快な思いを抱いた。
「ぎゃっ!」
突然、カーンという音と共にニーシャが馬から落ちた。彼女がかぶっていた兜がはるか後ろに飛んでいくのが見えた。
ニーシャは顔を押さえて呻いている。どうやら全く予想もしていなかった攻撃を食らったせいで受け身を取ることができずに、顔から落ちたようだった。美しく化粧が施されていたその顔は泥にまみれている。
ブレイはそんな娘の醜態をじっと見ていた。別に声をかけるわけでもなく、ただ、何とも言えぬ表情を浮かべながらその様を見ていた。ニーシャはゆっくりと顔を上げて父を見た。悲しそうでもあり、無表情であるようにも見えた。彼女の心の中に激しい怒りが突き上げてきた。
ニーシャは叫び声をあげると、あらぬ言葉を口走りながら前に進み出た。腰に差していた剣を抜くとそれを振り回しながらマトカルの許に向かって歩いて行った。兵士たちは黙って彼女に道を開ける。見る間に、マトカルのいるところまで一本道が出来上がった。彼女はそこに向かってゆっくりと歩いて行く。
ニーシャの脳裏には、これまでの人生が走馬灯のように流れていた。幼いころから可愛がってくれた父、美々しいドレスに身を包みながら、父の膝に抱かれ、平伏する家来たちを見下ろしたときのことを今でもはっきりと覚えている。そのときの爽快感は今でも忘れられない。
デウスローダにいる間は、「欲」というものを感じたことがなかった。すべてが揃っていた。確かに、勉強やマナーといった習い事は面倒くさいと思ったことはあったが、それは自分に課されたものとして受け入れていた。しかもそれらは、難なく習得することができた。
姫様、姫様と呼ばれ、かしずかれていた日々が懐かしい。その生活は、ヒ―データに嫁いでからも変わることがなかった。確かに夫・ヒートは気弱で全く好みのタイプではなかったが、彼は従順だった。自分の言うことには唯々諾々として従った。その彼が予定通り皇位を継いだので、まさしくヒ―データでの彼女の生活は思い通りであった。
そんな自分が、家来たちに頭を下げられ続けてきた自分がどうして泥にまみれているのか。なぜ、こんな境遇に陥ってしまったのか。答えは考えるまでもない。アガルタ王リノスだ。あの男が自分の前に現れてから、人生が狂い始めた。
当初は、彼の出現を歓迎していたのだ。何より煩かった義姉・リコレットを彼のおかげで厄介払いできたからだ。この二人の結婚式が、ある意味で人生の絶頂であった。
それから先はまず、夫のヒートが変わってしまった。これまで従順であった彼が、堂々と自分の意見を言うようになった。これまではそんな話は言下に否定してしまえば済む話だったものが、彼はすぐに自分に近づかなくなってしまった。さらには、タウンゼットという侍女に手を付けて、それを側室にしてしまった。プライドが大きく傷つけられたが、大国の王が側室を持つことはよくある話だ。ただ、それについては、覚悟はしていたので、大きく問題にすることはなかったが、彼はそれ以降、自分の許に訪れることはなく、単に儀式で顔を合わせるだけの関係となった。
しかし、それでもまだ、思い通りの生活は変わらなかった。それに大きな陰りが見えたのは、リノスがアガルタ王国を樹立してからだった。
妹婿とはいえ、奴隷上がりの男に一国を任せ、しかも、国王を名乗らせるとは驚天動地の沙汰であった。夫は気が狂れたのではないかと思ったほどだ。しかし、すぐに国政に関してはリコレットに担わせて、その裏から夫が操るのだろうと考えた。あの気弱な夫にしては上手いことを考えたとそのときは思ったものだが、そのアガルタがあろうことか、実家のデウスローダと事を構えるに至った。しかも、あろうことか、父に手傷まで負わせたと聞いては、居てもたってもいられなくなった。
当然、ヒ―データはアガルタを討伐するべきであったが、夫はそうはしなかった。完全なる約定違反であり、その旨を糾弾したが、彼は話をはぐらかすばかりでどうしようもなかった。しかも、手傷を負い、落ち込んでいる父を見舞って元気づけろなどと言われては、それを受け入れるしかなかった。父の命には変えられなかった。
父との対面は一筋の望みだった。父の、デウスローダの国力を背景に、もう一度自分の権威を取り戻すつもりだった。しかし、彼は一方的に離縁を告げてきた。信じられなかった。プライドがズタズタにされた。
何としてもヒ―データに帰らねばならない。あの夫に復讐をせねばならない。もう一度、あの生活に戻るのだ。その一心でここまでやって来た。
いま、目の前に居座るあのマトカルの首を自分が討てば、このデウスローダでの地位は確保される。誰も自分のことを無下にはできない。この女は父を傷つけ、あまつさえ、宝剣を奪い取ったのだ。父の敵を討つのだ。
ニーシャの眼からは涙があふれてきていた。彼女は泣きながらマトカルの前に進み出た。
誰も、何も言わなかった。傍に控えているバゼットすらも無言であった。彼をはじめとするデウスローダの将兵たちは一様に、ニーシャを憐みの眼で眺めていた。
馬上のマトカルは、一切こちらを見ずにバゼットに視線を向けていた。情を一切感じさせない目だった。こんな目を見たのは、初めてだった。
「私は、デウスローダ王の息女、デウスローダ・マイス・ニーシャである! 私と尋常の勝負をしなさい!」
ニーシャな剣の切っ先をマトカルに向けた。だが、彼女はそれでも一顧だにしない。そのとき、騎兵がこちらに向かってきた。彼はニーシャにすぐそばまで来ると、サッと馬から降りて片膝をついた。
「姫様、お下がりください。国王様のご命令です。ただいま、クリミアーナ軍が上陸したという知らせが入りました。こちらに向かっているようです。その数二万。すぐに本陣にお戻りください」
男はまるで周囲に広告するかのように二万、という言葉に力を込めた。マトカルらアガルタ軍の将兵たちの表情には変わりはない。淡々とその状況を眺めている。
ニーシャの顔に赤みがさしてきていた。彼女はニヤリと笑みを浮かべると、踵を返してその場を後にした。




