第千百四十二話 話し合いが始まったゾ!
ホルムは直感的に、マトカルの身が危ないと感じた。彼の立つ城壁の上からはデウスローダ軍の陣形がよく見えていた。
彼らは王の本陣を守るように陣を敷いていた。その形はきれいな台形型になっていて、戦場経験の長い彼の経験をもってしても、初めて見る陣形だった。台形型に組まれた陣が王を中心に東西南北に展開されているのだ。
アガルタ軍もまた、その陣を囲むようにして各隊が配置に就こうとしている。出撃していた一隊がマトカルの許に向かっているが、彼女の指示なのだろう、本体の後ろに回って合流した。
デウスローダのそれぞれ前面に展開している兵士たちが、これまでの者とは別格の質を持っていた。整然と槍を構えている。これはできそうでできないことだ。兵士に心の乱れが一つでも出ると、そこに綻びが生じる。そこに攻撃を集中させれば陣形は崩れていくのだが、今の彼らにはそれが見当たらなかった。つまりは、前面に展開している部隊には、誰一人として動揺している者がいないということになる。
それだけの精兵を擁しているのであれば、どうしてその隊を押し立てて攻撃してこなかったのか。ホルムは疑問だった。最悪のことを考えて、精兵を温存していたのであれば、それは相当優秀な指揮官が敵にいるのであろう。確実に、デウスローダ王の差配ではないことは確かだった。
そんな兵たちにマトカルは正面から突っ込もうとしているように見えた。軍勢の数で言えば敵の方がはるかに多い。しかも、油断のならない指揮官のいるところに攻撃を加えるとなれば、相当の被害を覚悟せねばならない。ホルムは今すぐにでも兵士を引き連れて援護したい気持ちに駆られたが、マトカルからは城壁から動くなと命令されている。それを破るわけにはいかなかった。
「フィレット、城門を開ける準備をするのだ」
ホルムは隣で同じように戦況を眺めていた妻のフィレットに提案した。だが彼女はキョトンとした表情を浮かべると、
「何のために?」
と言った。
「アガルタの兵が引き上げてくる準備が必要ではないかと思ったのだ」
妻の様子から、アガルタ軍の敗走に備えるため、という言葉は適当ではないと判断して、とっさにそういう言い回しをしたのだ。
「……その必要は、ないだろう」
妻はにべもなくそう言い切った。その目には確固たる自信が見て取れた。ホルムは何とも言えぬ胸騒ぎを覚えながら、戦いの趨勢を見守るほかはなかった。
◆ ◆ ◆
アガルタ軍によるデウスローダ包囲は、マトカル率いる本隊の到着をもって完了した。一見するとアガルタ軍が完全包囲をしているように見えるが、その数は少なく、突破は容易であるように見えた。
双方の陣からは攻撃はなかった。しばらくの間、そこで戦いが行われているとは思えないほどの静寂が訪れた。
「この陣形を指揮した者は誰か」
突然マトカルの声が響き渡った。デウスローダ側からは何の返答もない。マトカルは同じ言葉を繰り返した。それでも、返答はない。
「デウスローダにも、優秀な指揮官がいたのだな。この堅陣を破るのは、なかなか骨が折れそうだ」
よく通る声だった。別に声を張っているわけではないのに、それでも数万人が犇めくこの戦場でその声はよく聞こえた。確かにマトカルが風上に立っているため、それに乗って声が聞こえたと解釈もできなくはないが、それだけではないことは、そこにいる誰もが理解できていた。
マトカルは少し嬉しそうに見えた。表情に変化はないが、その声には、そうした感情が読み取れた。
デウスローダ側から一人の騎兵が進み出てきた。彼はマトカルを前にして下馬もせず、兜ともとらなかったが、堂々と自身の名を名乗った。
「デウスローダ第八軍司令官、メルスロイ・バセッドでございます」
「バゼットか。貴様がこの陣形を指揮したのか」
「左様です」
「これらの兵を訓練したのも、貴様か」
「左様でございます」
「見事だ。よく訓練されている」
「……」
バゼットは怪訝そうな表情を浮かべた。マトカルが一体何をしようとしているのかがわかりかねていた。実際に彼女から褒められたことは嬉しくないはずはないが、今は戦闘中だ。やるとすれば二つの選択肢しかない。戦いを挑むか、自軍が退却するか。だが、マトカルの雰囲気からはそのどれもが適当ではないことが伝わってきていた。
「いくつか質問したいことがある。兵を訓練する際に、もっとも重視していることは何か」
唐突にマトカルからそんな言葉が飛び出した。さすがのバゼットも動揺を隠さなかった。まさか両軍がにらみ合う一触即発の状況下で、そんな質問が出されるとは思ってもみなかったからだ。
バゼットが何も答えないのを見たマトカルが、さらに言葉を続ける。
「質問を変えよう。貴様はこの戦いをどのように収めるのが適当と考える」
「それは、私がお答えするものではございません」
「おそらく、このまま攻撃をするとならば、両軍にとって大きな損害が出ることだろう。わが軍もただでは済まないだろうが、貴様の兵士たちも多く死ぬことになる。それは、どう思うか」
「質問の意味がわかりかねます」
「私は、手塩にかけて育てた兵士たちを死なせたくはない」
「……」
「私は兵士たちに過酷な訓練を課してきた。それは偏に、彼らの命を守ってやりたいからだ。それは貴様も同じではないのか」
「……」
「ここで我々が戦い、手塩にかけた兵士たちを失うのは適当ではないと考える。彼らとしても軍人だ。戦場で命を散らすことは覚悟していることだろう。しかしながら、戦場で命を落とすという行為に報いるのは何だ。戦いへの勝利ではないか。ここで我々が戦ったところで、待っているのは無意味な消耗だ。そのような戦いはするべきではない」
「私にどうせよ、と言われるのでしょう。私は一介の指揮官であり、攻撃命令が下れば、いかなる強敵と言えど、命令に従うのみです」
◆ ◆ ◆
同じころ、デウスローダ本陣では、国王ブレイらが苛立っていた。
敵の総司令官たるマトカルを目の前にして、一体何をやっているのだというのが一致した意見であったが、幕僚の中には、このまま交渉が成立して、このまま引き上げられるのを願う者もいた。
「父上、あの者は一体、何をやっているのです」
ニーシャが忌々しそうに口を開く。だが、ブレイはそれに対して何も答えない。
「あれがマトカルなのでしょう。マトカルを目の前にして何もしないというのは、軍人としてあるまじき行為なのではないですか? 即座に攻撃を仕掛けて首を取らないで、何としますっ!」
国王ブレイも、マトカルがどうしてバゼットに対してあのような質問をするのかがわかりかねていた。ニーシャの言う通り、マトカルに攻撃を仕掛ければという思いもあったが、あの距離ではマトカルは討つことはできない。それに、彼女の隣には尋常ではない雰囲気を纏った兵士たちが固めている。バゼットが変な動きをした瞬間に、彼の首は胴から離れているだろう。
「国王様」
口を開いたのはデアイゼルだった。彼はブレイの前で片膝をつくと、。
「弓隊に攻撃させましょう。この距離ならば、マトカルを討てます」
と言った。その目には自信がありありと浮かんでいた。
「いやお待ちください」
そう言って進み出た者がいた。親衛隊長のヒョウだ。彼もまたブレイの前で片膝をつくと、悲壮な表情を浮かべた。
「弓隊で攻撃しますと、マトカルだけでなく、バゼットも死ぬことになります。それは、なりません」
ブレイは少し、天を仰いだ……。




