第千百三十九話 敵に柵ができたゾ!
その夜、ブレイは自分でも驚くほどに深い眠りについていた。
大抵戦場では基本的に仮眠レベルの睡眠をとるのが通常であった。つまりは、枕が変わったために眠れなくなるというのがその理由であった。いつも眠っている後宮のベッドのように広くもなく、柔らかさもそうない簡易なベッドは全く眠るのには向いておらず、また、場合によっては虫や獣の声なども耳に入ってくるため、眠ったとしてもわずか数十分で目が覚めてしまうのが通常であった。だが、今回ばかりは違った。眠りについてから一度も目覚めることなく朝を迎えた。あまりに起きてくるのが遅いため、近習の一人がわざわざ彼の許までやって来て、国王様、と話しかけたその声で起きたのだ。こんなことは、城の中でもめったにないことであった。
ゆっくりと起き上がったブレイは、大義であると声をかけて近習を下がらせる。喉が渇いていたので、枕元に置いていた水の入ったグラスを手に取ると、それをラッパ飲みし始めた。陶器に入れていたためか、水は冷たかった。喉を鳴らして飲むそれは、これまで飲んだどんな水よりも美味に感じた。乾いた体に、細胞の一つ一つにその水がしみわたっていくような感覚を覚える。
飲み終わると大きなため息をつく。体が軽かった。いわゆる絶好調の状態であると言えた。この調子であれば、どんな強敵も勝てそうな予感がしていた。彼は再び近習を呼んで鎧を着させると、意気揚々と陣所を出た。
すでに幕僚たちは揃っていて、ブレイの到着を待っていた。
「様子はどうじゃ」
むろん、現在のアガルタ軍の状況を聞いたのである。幕僚の一人がハッと返事をして、頭を下げた。
「概ね昨夜と状況は変わりません。ただ……」
「ただ、何だ」
「アガルタ軍の真ん中に位置する隊の前に、柵が築かれております」
「柵ぅ?」
ブレイは頓狂な声を上げた。すぐさま男が言葉を続ける。
「察するに、夜のうちに防御のため、各隊に柵を作るつもりであったと考えます。ただ、作ることに手間取ったものと見え、あのような中途半端な形になったと思われます」
ブレイは無言のまま立ち上がると、そのまま歩いて本陣を出た。彼の後ろから幕僚たちがゾロゾロとついてくる。彼の姿を見た指揮官が兵士たちに大声で敬礼を命令する。兵士たちが一斉に手を胸に当てて首を垂れる。なかなか訓練が行き届いていると心の中で呟きながら歩を進める。
「あそこでございます」
霞がかった彼方にアガルタ軍の陣が見えた。アルレの城を背に横一列に並んでいて、一見すると昨日とはそう変りないように見える。唯一の違いとして確かに、中央の一隊だけ、まるでそれを取り囲むようにして柵が作られていた。
「察するところ、あの柵の中に、敵の大将マトカルがいるものと愚考します」
デアイゼルが言った。マトカル、と聞いてブレイは体を震わせた。恐怖によるものではなかった。武者震いであった。
「ハハハ、愚かな。昨夜のうちに柵を張るつもりが手間取り、あそこだけになってしまったというわけか。あれでは本陣の位置を我らに知らしめているのと同じじゃ」
ニーシャがそう言って笑う。ただ、ブレイの心には一抹の違和感を覚えていた。
……アガルタがあのような愚策を取るものか。あれが我らをおびき寄せる作戦だとすれば、敵は何を考えているのだろうか。
そんなことを考え始めた矢先、デアイゼルがさらに言葉を続ける。
「国王様、一気呵成に攻めて敵の首を取りましょうぞ」
「申し上げます!」
デアイゼルの言葉を遮るように、斥候がこちらにやって来て片膝をついた。
「アガルタ軍の兵士がアルレの城との間を頻繁に行き来しています。彼らは丸太を担いで城の中に運び込んでおります!」
「アッハッハッハ! それ見なさい。アガルタは昨日のうちに柵を作るつもりが、その木が足りなくなったのでしょう。余ったものを城の中に戻しているのでしょう。何と無様ではありませんか」
ニーシャの声にほだされる形で、幕僚たちも声をあげて笑う。デアイゼルが、
「国王様、アガルタに供与する柵があれだけということは、あの城壁の後ろには、夥しい柵が築かれていると見て間違いはないでしょう。あそこには避難した村人たちを収容する建物があると聞きます。アルレとしても、その彼らを守ることを優先したものと見えます。我らはアガルタ軍を撃破するために出陣したのではありません。あのアルレを陥落させ、我らの手に取り戻すために来ていることを、ゆめゆめ忘れてはなりません」
「そうじゃ。我らはアガルタ軍を一気呵成に撃破し、そのままアルレの城を抜くのじゃ。決して手を止めるでないぞ!」
ニーシャがそう言って後ろに控えていた幕僚たちを睨みつける。みな、一様に彼女に向かって頭を下げた。
確かに、デアイゼルの言っていることは理解できる。ただ、ブレイにはどうしても違和感を拭いきれなかった。敵は新たな策を用意しているのではないか。また、前回のように壊滅的な被害を受けるのではないかという予感が拭いきれなかった。
彼は傍に控えている親衛隊長のヒョウに視線を向けた。相変わらず苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。その彼に向かってブレイは口を開く。
「ヒョウよ。何か言いたいことはないか。あるなら言ってみるがいい」
「いえ……私は……」
ブレイはヒョウの返答を待った。何とも言えぬ重苦しい沈黙がその場に流れる。しかし、ヒョウが口を開く前に、ニーシャが、
「父上。攻撃を開始しましょう! 攻めるのは今です! 先ほども言っていたではありませんか。兵士たちが丸太を担いで城を往復していると。まだ敵は戦闘の準備ができていません。今のうちの叩くのです。今がそのときです」
「ニーシャ様の言われる通りです国王様! 今こそマトカルを討つのです。討つのです! アルレを奪還するのです!」
マトカルを討つのですというデアイゼルの言葉が、ブレイを突き動かした。
「攻撃準備をせよ。準備が整い次第、我らは攻撃に移る」
ブレイの言葉に、幕僚たちは一斉に頭を下げ、まるで脱兎のごとくその場を離れ、自陣に戻っていった。ヒョウは頭を下げると堂々と胸を張って自陣に戻っていった。その後ろ姿はどこか寂しげであった。
◆ ◆ ◆
デウスローダ軍が動き出したとマトカルの許に報告があったのは、それからしばらくしてのことだった。敵は魚鱗の陣を敷き、まっすぐこちらに向かってきていた。マトカルは立ち上がると無言のまま手を横一線に振った。傍に控えていた伝令兵がすぐに馬にまたがり、各隊に散っていった。
デウスローダ軍の動きを受けて、アガルタ軍は中央のマトカル本陣――柵を張っている――を残して残りの四部隊が前進を始めた。一見すると鶴翼の陣を敷いているようにも見え、戦いのセオリー通りの陣形を組んだ形になったが、もとより相手は三万、アガルタは五千の規模であるため、アガルタが圧倒的に不利な形になっているように見えた。
アガルタ軍は前進していたアガルタのそれぞれ二隊が動きを止めた。その動きはデウスローダ軍からは十分すぎるほどに見えていたが、彼らにはアガルタの意図がわからなかった。こちらを取り囲もうとしているようにも見えたし、デウスローダの軍勢の規模を見て、立ちすくんでいるかのようにも見えた。いずれにせよ、正面の隊がマトカルの本陣であるとすると、そこに大きな穴が開いているような格好となった。
アガルタが何をしようとしているのかはわからなかったが、目の前には大きなスキができている。デウスローダの軍勢はそこにまるで吸い寄せられるかのように進んでいった。




