第十三話 『縁結び』
グレースは、握った拳から流れ出る自分の血を感情が抜け落ちた空虚な瞳で眺めていた。
「グレース、食事にしましょう」
ジョンがテーブルに皿を並べている。
背後でセバスチャンがグレースに優しい声音で呼びかけた。
グレースは、窓の外へ視線を向けたまま微動だにしない。
「グレース」
「触らないでください!
裏切り者の手で!」
肩に触れたセバスチャンの手をグレースが乱暴に振り払った。
「わたしを捨ててリリスを選んだくせに!
わたしのことを信じないで、リリスと結婚したくせに!
わたしはあんなに愛していたのに……。
あなたはわたしを裏切った!」
グレースは銀髪を振り乱して叫んだ。
「ええ、そうです、すみません」
セバスチャンは穏やかに答えると、グレースの肩を抱いて立ち上がらせようとする。
「食事にしましょう。
美味しいものを食べると幸せな気持ちになれますよ」
グレースは拳を窓に叩きつけた。
ガラスが振動し、グレースの拳からは血が流れる。
窓ガラスには、すでにおびただしい血痕が付着していた。
怒りに任せてグレースが拳で殴りつけるので、ガラスにはひびが入りへこんでいた。
「グレース」
セバスチャンはグレースの手を優しく包み込むと、「手当てをしましょう」とジョンに目配せした。
ジョンが素早く薬と包帯を用意する。
すると、グレースが人が変わったように笑顔を取り繕いセバスチャンに抱きついた。
「すみません、殿下。
こんなこと、言いたいわけではないのです。
でも、忘れられない……。
殿下を恨んでいるわけではないのです。
でも、どうしても思い出してしまうのです。
こんなに自分が根に持つ人間だなんて、知りませんでした」
セバスチャンは微笑むと、グレースの髪を撫でた。
「いいのです。
あなたを信じ切れなかった私に全面的に非があるのですから、気が済むまで罵ってくださって構わないのですよ」
グレースは首を振る。
「こんなこと、殿下に言いたくありません。
殿下を困らせたくなどないのです。
本当に、自分が嫌になります」
セバスチャンに促され、グレースがソファに座る。
フォークを持ち、食事をはじめようとした矢先、再びグレースの瞳が虚ろになった。
「……なぜグレンさんは処分されないのです?
殿下をあれだけ傷つけておきながら、どこかの研究所で働いているのでしょう?
許せません、死んで詫びるべきです」
ジョンが眉根を寄せる。
グレースがフォークを皿に叩きつけた。
がしゃん、と甲高い音が広い部屋に響く。
「国王も罰を受けるべきです。
殿下をないがしろにする、非道なあんな男、早く国王の座から引きずり下ろすべきなんです」
「ええ、そうですね」
セバスチャンが飛び散ったサラダの野菜を手早く片付けながら肯定した。
「リリスともこうやって食事を摂ったのでしょう?
なにを話していたのです。
わたしの陰口ですか。
楽しかったですか、リリスとの生活は」
グレースの口調が棘を含んだものになる。
「グレース、いただきましょう」
セバスチャンがパスタを器用にフォークに巻きつけながら笑顔で言った。
グレースは素直に従う。
「美味しいですか?」
「ええ、とても」
グレースが屈託なく笑う。
「殿下」
「はい?」
「大好きです。
愛しています。
なのに、駄目ですね。
殿下を責めてばかりいて。
わたしは憎しみには振り回されない、耐えられると思っていたのに、この有様です」
セバスチャンは破顔した。
「大丈夫ですよ、グレース。
私も、あなたを愛していますよ、ずっとね」
☆
グレースによって為された『縁切り』によって、世界の人々は『憎しみ』から逃れ『忘れられない』恐怖から解放された。
平和が世界を包み、人々には笑顔が溢れた。
その平和を、その身を以って実現させたグレースは、『忘れられない』嫉妬と憎悪、そして揺るがないセバスチャンへの愛情に苦しめられていた。
リリスを選んだセバスチャンへの怒り、嫉妬をあらわにし、口汚く罵ったかと思えば、愛するセバスチャンを虐待したグレンへの憎しみを吐露し、戦火に見舞われた王都から逃げ、戦争終結とともに舞い戻ってきた国王夫妻への不満を漏らした。
憎悪を口にしたと思えば、セバスチャンへ愛の言葉をささやき責めたことを詫びる──。
『縁切り』してからのグレースは、まるで人格が何重にも増えたかのように、ころころと表情と言うことを変え、悪魔のような表情にも天使のような慈しみの表情にも変化する。
セバスチャンはそんな不安定なグレースに常に優しく接し、決してグレースに意見することをしなかった。
まもなくふたりは結婚する。
季節は冬を越え、春を迎えようとしていた。
「セバスチャン様」
廊下でジョンがセバスチャンを呼び止めた。
「なんです?」
「グレース様のことですが」
「はあ、グレースがなにか?」
「もう、限界ではないでしょうか」
「限界?
どういうことです」
ジョンは冷徹な執事の顔をしていたが、それでも主の身を案じて進言したことが伝わってきた。
「毎日毎日、言うことがころころ変わるグレース様の相手をして、私から見ても、セバスチャン様は激しく疲弊していることがわかります。
グレース様は、もうほとんど病人のようではありませんか。
グレース様に付き合っていたら、先にセバスチャン様の精神が限界を迎えてしまいます」
セバスチャンはふっと微笑んだ。
「私はグレースを愛しています。
グレースが『縁切り』をしたあと、私は一生グレースとともに生きようと決めたのです。
グレースが忘れられずに苦しむなら、その苦しみを分かち合いたい、そう決意しました」
「それでは殿下が犠牲になるようなものです。
本当に、結婚するつもりなのですか?
グレース様が、王妃に相応しいとは、私にはとても思えません」
「ジョン」
「出過ぎたことを言っている自覚はあります。
ですが、セバスチャン様が心配で……」
「ジョンはいつも私のことを一番に考えてくれていますね。
こんな頼りない私を支えてくれて、感謝しています。
ですが、グレースのことは、私の好きにさせてください」
ジョンは頭を下げる。
「失礼いたしました」
そのままジョンは廊下を歩き去っていった。
──ジョンが言うことも一理あるな。
セバスチャンは長年苦しみをともにしてきた執事の後ろ姿を見ながらそう認めざるを得なかった。
確かに、グレースの相手をすることに、疲れてきていることは否定しようのない事実だ。
精神が削られていることも自覚している。
ただ、セバスチャンにグレースを手放すという選択肢はなかった。
愛情を知らなかった自分を、はじめて愛してくれたグレースを大切に想う気持ちにブレはない。
問題は、グレースの精神がいつまで保つのかということだ。
いま、セバスチャンは国王になるべく帝王学を学んでいる。
いまのグレースが王妃になれるかどうかは、正直セバスチャンにもわからないというのが本音だ。
そんなことを考えながら自室の扉を開けたセバスチャンは、瞬間的に顔を真っ青にして駆け寄った。
「なにをしているのです、グレース!」
グレースは果物ナイフを自らの首元に振り下ろそうとしていた。
「止めないでください、殿下!
わたしはもう耐えられません。
これ以上憎悪にまみれたくない。
醜くなっていく姿を殿下に見られたくないのです。
だから、お願いです、死なせてください!」
セバスチャンがナイフを取り上げると、グレースが泣きながら崩れ落ちた。
グレースはすっかりやつれ、髪は手入れされず蒼い瞳を縁取るのはどす黒い隈だった。
生気は失われ食事も満足に摂れていない。
それも当然のことだ。
なにしろ、戦争にまで発展した人間の醜い一面を忘れられず、たったひとりで背負っているのだから。
まともな精神でいられるはずもなかった。
ナイフを手にしたまま、泣き崩れるグレースを見下ろしたセバスチャンは、深く目を閉じ、開くと決意を固めた。
☆
頭の中に、一本の紅い糸をイメージする。
その一方の端をグレースの脳に巻きつけるように結ぶ。
もう片方の先端は概念上の『忘れられなく』なる前のグレースの脳に結びつける。
糸を引き、ふたつの脳を重ね合わせると、ぐるぐると何重にも糸で結びつけた。
ふたつの想像上の脳が溶け合い、ひとつになっていく。
『縁結び』をするのははじめてだ。
手探りで進めるしかない。
うまくいくだろうか。
対になって生まれたグレースとの能力を補完するためにある、セバスチャンに宿る『縁結び』の能力。
これを行使してしまえば、グレースの『忘れる』本能を繋ぎ止めることができるとともに、グレースが断ち切ったはずの憎悪を人類は『忘れる』ことが再びできなくなるだろうことはこれまでの経験から容易に予測できた。
それでいい。
グレースを助けられるのならば、苦しみから救い出せるのなら世界が混乱したとて、セバスチャンは構わなかった。
グレースを救えるのは自分しかいない。
紅い糸が頭の中で弾ける。
──繋がった!
「殿下?」
目を開けると、グレースがセバスチャンをみつめていた。
「グレース」
「……殿下、どうしてですか」
涙を浮かべたグレースが、セバスチャンを責める。
「どうして、また縁を結んでしまったのですか!
これでは、また世界中に戦火が放たれてしまいます!
犠牲になるのはわたしひとりでよかったのです。
わたしが手に余るなら、わたしを切り捨てていただいても構わなかった……」
涙に暮れるグレースを、セバスチャンが抱きしめ言った。
「争いは人と人の問題ですから、実力行使ではない方法──話し合いで解決することができます。
ですが、グレースはこの世にひとりしかいない。
どうか命を粗末にしないでください。
私に愛を与えてくださったあなたを、守ると誓ったのです。
世界中の人々すべてより、あなたひとりの命の方が、私にとって重いのです。
どうかわかってください。
『聖女』などいりません。
あなたが、グレースがいてくれれば……」
「ですが、それでは殿下が……」
「私は恐らく平気です。
世界規模の『縁切り』能力はもう使えませんが、私にこの能力が宿っている限り、私は『縁切り』をつづけることができる……。
嫌なことがあっても、その都度『縁切り』すればいいだけのこと。
つまり、グレースと私だけは、この世界で『忘れる』ことができるのです」
「世界中の人が『忘れられなく』て争いをつづけ、苦しんでいるなか、わたしたちだけが、それから逃れられる……そんな不公平な話、わたしは受け入れられません」
「グレース、私はあなたのためなら悪魔にだってなります。
それに、もう私たちには世界規模の現象をもたらす能力は残されていません。
どのみち、壊れてゆく世界の片隅で生きていくしかないのですよ」
遠くで爆撃の音が鳴る。
窓の向こうに炎が見え、もうもうと黒い煙が立ちのぼる。
『憎悪』が厄災をもたらしはじめる。
『忘れられなく』なった人類の争いがまたはじまる。
「あなたが生きてそばにいてくださればそれでいいではないですか。
たとえあなたを愛することが世界の破滅に繋がっても私はあなたさえいればいいのです」
悲しい運命にあった王子様と、清廉潔白を求めた『聖女』が結ばれるために必要だったのは『地獄』だった。
「私たちはこの『地獄』から切り離されて生きましょう。
どんなつらいことも、私たちは『忘れる』ことができるのだから」
セバスチャンの言葉に、グレースが薄く笑った。
「わたしたちは、世界を壊してやっと、結ばれるのですね」
「ええ、もう離しません」
セバスチャンに抱きしめられ、グレースはその背に手を回ししがみつく。
「わたしは……悪女になります。
世界など、知ったことではありません」
「ええ、その調子です」
絶え間ない爆撃の音を聞きながら、グレースとセバスチャンは嗤った。
世界を滅亡の危機に陥れながら、悪女のように、悪魔のように、ふたりは嗤いつづけた。
──愛しています、紅い糸が繋いだ愛しのあなた。




