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第一話『聖女』


 無遠慮に扉を叩く音で、グレースの安眠は妨害された。


「グレース様、グレースお嬢様」


 扉の向こうから聞き覚えのあるメイドの声が切迫感たっぷりに投げかけられている。


 愛らしいぬいぐるみとクッションに埋もれて、天蓋付きのベッドで眠っていたグレースはのっそりと起き上がった。


 長い銀髪は寝癖で飛び跳ね、頬には枕のあとがついている。


 枕元の時計に目を向けると、朝の6時を示していた。


 レースのカーテンの隙間から燦々と日差しが差し込んで部屋は真っ白な光りに満ちている。

 

 普段なら、まだ起床する時間ではないはずだが──。


 銀髪を手ぐしで梳きながら、眠い目を擦っていると、再び扉がノックされた。


「お嬢様、グレースお嬢様、オリビア夫人が……!」


 メイドの声に、グレースははっとする。


──オリビアおばさまになにかあったんだ。


 何度か頭を振って眠気を吹き飛ばすと、慌ててベッドから這い出して寝間着のボタンを外しにかかる。


 いくら緊急事態とはいえ、ナイトドレスのままで人様の前に出るのはマナー違反だ。


 伝統ある侯爵家の令嬢として、そんな恥ずかしい真似はできない。


「すぐに用意するから、少し待って頂戴」


 扉の向こうに呼びかけると、「承知いたしました」とどこかほっとしたようなメイドの声が届いてきた。


 グレースはクローゼットを開け、乱雑に寝間着を脱ぐと、脱いだ寝間着を足で蹴り飛ばす。


 おおよそ淑女の振る舞いとはかけ離れており、母親に見られたら叱られそうな行動ではあるが、いまはそんなことを言ってはいられない。


 適当に手に触れた洋服を引っ張り出す。


 襟に何重ものレースがあしらわれたシルクのブラウスに袖を通し、濃紺のロングスカートでその身を包む。


 鏡を見て身だしなみを整えている余裕はないだろう。


 髪も梳かしておらず、顔も洗っていないが、それらすべてを無視して、グレースは部屋の扉を開けた。


 扉の前の廊下には、不安顔のメイドが両手を握り合わせて待っていた。


 クラシカルなメイド服を身に着けた彼女──アンナは、この家にやってきたばかりの新米メイドだ。


 年齢もまだ若く、グレースの中ではメイドというより『お姉さん』という位置づけになっている。


「お嬢様、せめて髪を整えられては……」


 真紅の絨毯が敷かれた廊下を足早に歩くグレースを小走りで追いかけながらアンナがそういうので、「そんな時間はないわ」と突っぱねつつも、グレースは銀髪についている寝癖を無理やり手で撫でつけた。


「オリビアおばさまがどうしたの?」


 グレースが問うと、アンナは首を左右に振った。


「詳しいことはわかりません。

 ただ、リントン家の使用人の方がとても慌てた様子で訪ねてこられて……」


「わたしを訪ねてきたというのだから、なにか大ごとがあったのは確かでしょうね。

 オリビアおばさまは、なにか持病がおありだったかしら」


 歩きながらグレースは思考を巡らせる。


 オリビア夫人を『治療』した覚えはなかった。 


 大人3人がゆうに並んで歩ける廊下を抜けると、1階へと下りる階段へ差しかかる。


 吹き抜けになっている玄関ホールに人影があるのが2階からも視認することができた。


 アンナに負けず劣らずの不安顔で、落ち着きがなく忙しなく両手を組み合わせて突っ立っている、白いシャツに深緑色のズボンを着用し栗色のカールした髪が特徴的な少年がそこにいた。


 シンプルな服装だが、資産家のリントン家の使用人というだけあって清潔感が感じられる。


「聖女様!」


 舞台のセットのような大階段を駆け下りてきたグレースを目にして、少年がいまにも泣き出しそうな表情になる。


「どうされたのですか?」


 軽く息を弾ませて階段を下り、少年へと近づくと、すがるような眼差しで少年がグレースに訴えた。


「大奥様が、突然苦しみだしまして……」


 それを聞いたグレースの表情がぐっと引き締まる。


「どこか、痛がっているのでしょうか?」


「ええ、胸が苦しいと……。

 早朝ゆえ、お医者様にも連絡できず……。

 このような時間に大変ご迷惑をおかけいたしますが、大旦那様に聖女様をお呼びするよう命じられまして……。

 もう、聖女様以外に頼れる人がいないのです」


「わかりました、行きましょう」


 真っ青な顔の少年を促して、グレースは重厚な玄関扉を押し開ける。


 扉の内側にも外側にも、威厳を示すように、緻密な装飾が施されているが、そのせいで非常に重量感のあるこの扉を毎日開け閉めするグレースに言わせれば、利便性を優先して欲しかったというのが本音だ。


 父こだわりの扉でもあるので、そう簡単に文句は言えないけれど。


 外に一歩踏み出した瞬間、春の終わりの強烈な日差しが目を焼いた。


 まもなく春は終わりを告げ、初夏がやってくる。


 咲き誇っていた花々の花弁は散り、緑の瑞々しい葉が昨日の夜降った雨の雫をぽたりと零した。


 赤い屋根の一軒家が規則的に並んでいる集落を、グレースと使用人の少年がリントン家目指して走っていた。


 リントン家の場所はわかっている。


 グレースが足を止めることはなかった。


 5分ほど走ると、頑丈な門扉の向こうに広大な庭がある、ひときわ立派な屋敷が現れた。


 門扉はいま、不用心に開いたままになっている。


 スカートを摘みながら速度を一切落とすことなく走ってきたグレースは、躊躇うことなく門扉を潜ってリントン家の玄関に辿り着いた。


「聖女!

 グレース様!」


 示し合わせたようなタイミングで扉が内側から開き、リントン家のメイドがグレースを迎えた。


「オリビアおばさまは?」


「胸が痛いと苦しんでおられます。

 どうか、オリビア様を助けてください、グレース様!」


 長年リントン家に仕えるメイドとは、グレースが子どものころからの顔馴染みだ。


 リントン家にも、何度か訪れたことがある。


 メイドに先導される形で屋敷の2階へとやってくると、開け放たれた木製の扉の向こうから複数の人の声が聞こえてきた。


「お母様!

 しっかりしてください!」


 オリビアの娘、エミリーの必死の呼びかけが悲痛に響く。


「オリビアおばさま!」


 グレースは開いたままの扉から部屋へと飛び込んだ。


「グレース様!」


 ベッドに横たわるオリビア夫人に覆いかぶさるようにして泣いていたエミリーが、はっと顔を上げて振り返ると涙声で悲鳴のような叫び声をあげた。


 オリビアはグレースの祖父母ほどの年齢で、エミリーはグレースの両親より少し年上である。


 オリビア夫人は、苦痛に顔をゆがめながら白髪を振り乱し胸を押さえてうめき声をあげていた。


「失礼します」


 グレースはベッド脇にやってくると、鋭く観察するようにオリビア夫人をみつめる。


「グレース様、どうか母を助けてください!」


 エミリーが泣きながらグレースに縋りつく。


 グレースはオリビア夫人を見下ろしたままなにかを確かめるようにぴくりとも動かない。


「グレース様?

 なにをしているのです、早く母を!」


 取り乱して声を尖らせるエミリーをオリビアの夫でエミリーの父のダンが叱りつける。


「落ち着きなさい、エミリー!

 聖女様にご迷惑をかけるんじゃない!」


 ダンの迫力と深みがある怒鳴り声にも、グレースが反応することはなかった。


 じっと夫人を眺め、やがて屈み込むとオリビア夫人の手をそっと退け、代わりに自分の手を夫人の胸へと置くと、瞳を閉じる。


 周囲の雑音を遮断し、雑念を頭の中から追い払う。


 閉じた瞳の奥、真っ暗な闇の中で、身体の感覚や外部からの刺激、さらには自分自身の存在すら排除して『無』の境地になるまでひたすら集中力を高めていく。


 手に触れているオリビア夫人の上下する胸の感触さえも意識の外になったとき、『それ』は訪れた。


──きた!


 グレースの頭の中に、一本の真紅の毛糸のような細い糸のイメージが浮かぶ。


 その先端を頭の中の想像だけで、オリビア夫人の心臓へと結びつける。


 糸を通して、オリビア夫人の心臓のどこが悪いのかが伝わってくる。


 そして、糸の反対の端を、概念上の健康だったころの心臓に結ぶ。


 もちろん、あくまで想像、イメージでの『結びつき』に過ぎない。


 指の間からするりと逃げてしまった健康だったころの心臓を糸で繋ぎ止めているイメージだ。


 概念上のふたつの心臓がぴたりと重なった瞬間に、密着させるためにぐるぐると糸をきつく巻きつけていく。


 そのまましばらく概念上の『結び』を続けていると、心臓はひとつに溶け合い、どくん、どくんと強い鼓動を打ちはじめた。


 同時に荒かったオリビア夫人の呼吸がゆるやかに穏やかになっていくのがわかった。


 手先の感覚が戻ってきたころ、「お母様!」というエミリーの声が耳に届いた瞬間にグレースの極限まで高められた集中状態が、糸が解けるように唐突に途切れた。


 五感がグレースの身体に舞い戻ってくる。


 気がつけば、グレースは呼吸を乱し、額には玉の汗をかいていた。


「お母様、お母様、わたくしがわかりますか?」


 エミリーが呼びかけると、オリビア夫人がゆっくりと瞳を開けた。


 口元には笑みが浮かんでいる。


「……ええ、わかるわ、エミリー……」


 弱々しいけれど、しっかりとした受け答えでオリビア夫人が腕を伸ばすと泣き崩れる愛娘の髪を優しく撫でた。


「嗚呼、グレースちゃん……。

 いいえ、聖女・グレース様……。

 あなたがわたくしを救ってくださったのですね、ありがとう、本当にありがとう」


 涙を浮かべてグレースをみつめると、オリビア夫人は穏やかに目を細め、グレースへも手を伸ばした。


 グレースは血管の浮いたオリビア夫人の手を柔らかく握った。


「グレース様……あなたは本当に聖女だわ……。

 こんなにも簡単にわたくしを苦しみから救い出してくれるなんて……。

 ありがとう、あとでお礼をさせてね」


 グレースは微笑み返すと、ゆっくり首を振った。


「お礼なんて……。

 わたしにできることをした、それだけです。

 わたしが誰かのお役に立てるのは、これくらいですから。

 うまくいって、よかったです、オリビアおばさま」


「まあ、そんな謙遜を。

 この街の人たちは聖女・グレース様にとても救われているのですよ。

 それなのに謙虚で清らかな、素敵なレディにお育ちになって……。

 もうグレースちゃん、なんて言えないわね。

 今年でいくつになるのだったかしら?」


「もうすぐ16になります」


「あら、もうそんなに……。

 本当に立派なレディだわ。

 さすがはアッシュトン家のご令嬢ね。

 お姉さんは、元気かしら?」


「ええ、リリスお姉様は元気です。

 父も母も」


 オリビア夫人は深くうなずいた。


「人は健康が一番ね。

 歳を取るとこうして周りに迷惑をかけてしまうから。

 本当に情けないわよね」


 オリビア夫人が自嘲の笑みを浮かべるので、グレースは困り顔になってしまった。


「情けないなんてこと、ありません。

 わたしにできる範囲なら、みなさまが健やかに暮らせるお手伝いをいくらでもいたします。

 またなにか、困ったことがあったら、遠慮なく仰ってくださいね」


 グレースはオリビア夫人に笑顔で微笑みかけたが、その身体は小刻みに震え、いまにも卒倒しそうであった。


 この『ちから』の反動はなかなかに厳しいものがある。


 けれど、グレースはそれを気取られないように立ち上がると、「では、わたしは失礼いたします、お大事に、おばさま」と淑女の礼をしてオリビア夫人の寝室を辞去する。


「グレース様!」


 グレースがリントン家の廊下で汗を拭っていると、エミリーが転がるように部屋を出て走り寄ってきた。


「母を助けていただいて、本当にありがとうございます。

 あの、お礼には程遠いでしょうが……」


 エミリーは、深々と頭を下げたあと、グレースの手に押し込むようになにかを握らせた。


 それがなんであるか瞬時に悟ったグレースは、「要りません」とエミリーの手に突き返した。


「お金をいただくことは、わたしの本意ではありません」


「ですが……他にどう感謝の気持ちをお伝えすればいいのでしょうか……?」


「お気持ちだけでじゅうぶんなのです。

 わたしは対価をいただくほどのことはしていないつもりです。

 自分にできることだからやっている……、見返りが欲しいわけではありません」


 毅然としたグレースの態度に、エミリーは行き場を失った紙幣を手の中でくしゃくしゃに丸める。


「エミリー様、もし、わたしにお礼をしたいと思っておられるのでしたら、そのお金を恵まれない子どもたちの施設へと寄付してください。

 この領地にそんな子どもがいることは悲しいですが、現実ですから。

 ですので、どうか……」


 涙を拭うと、エミリーは何度もうなずいた。


「わかりました、グレース様がそう仰るのでしたら、そのようにいたします。

 今日は本当に、ありがとうございました」


 グレースも頭を下げ返し、エミリーと別れると、ふらふらとした足取りでリントン家の屋敷を出る。


 朝日に照らされると、堪えていためまいが誘発され、ひとけのない路地まで辿り着くと地面に座り込んだ。


 伏せた顔に長い髪が落ちてくる。


 呼吸が乱れている。


 何回か深呼吸していると、「グレース様!」と背後から声をかけられた。


「アン、ナ……?」


 顔をあげることもできないまま声を絞り出すと、「グレース様!」と再び声がして、グレースを影が覆った。 


「迎えにきました、グレースお嬢様」


「……アンナ……」


 脱力したグレースの腕を取って立ち上がらせると、アンナは自分の肩にグレースの腕を回して歩きはじめた。


「ありがとう、アンナ」


「いえ、ですが、お嬢様は本当にお人好しでいらっしゃいますね。

 こんなふうになるまで自分の身を犠牲にして他人に尽くすなんて……。

 聖女様が倒れたら本末転倒ですよ」


 アンナはメイドという立場ではあるが、仕える家の令嬢に対して、ずけずけと物を言う。


 自分を神格化する領地の住人と接することは、時にグレースにストレスを与える。


──『聖女様』なんて。


 だから、アンナのように対等に会話ができる存在は稀有で、またありがたくもあった。


「少しはご自分の身体のこともお考えください。

 毎回倒れていてはお嬢様のほうが持ちませんよ」


「……そうね、考えてみるわ」


 青ざめた顔色で冷や汗を滲ませながらグレースは答える。


 アンナの肩を借り、グレースは自宅までの道を時間をかけて歩いた。


 アンナは力強くグレースを支え歩幅を合わせて進んでくれた。



 グレースには、生まれつき説明のつかない不思議な能力があった。


 それは、他人を癒せるちからであった。


 オリビア夫人にしたように、頭の中で、病気や怪我をした患部と健康だったころの身体を概念上の『糸』で結びつけ治癒させる。


 グレース本人でもうまく説明ができず、なかなか他人に理解はされないが、この街の住人には『治癒能力を持つ奇跡の聖女様』としてグレースは有名人だった。


 なぜ自分がそんな人智の及ばない不可思議なちからを有しているのか、まったくわからなかったが、医者の手が届かない今朝のようなケースでは、グレースが『聖女』として力を発揮することがたびたびある。


 しかし、極限の集中力を必要とするこの『ちから』は、グレースの体力を根こそぎ奪い取るのである。


 『ちから』を使ったあとは、半日から1日程度は疲れが残ってしまう。


 ただ、そんなことは患者には関係ないことなので、そのことを知る関係者は少ない。


 公表してしまえば、患者側が遠慮してしまう恐れもあるため、『ちから』の反動の存在は秘匿されている。


 誰にでも公平に『施し』を与えてくれる『聖女様』。


 グレースにとって領地の住民に頼られることは苦ではない。


 まだ一介の学生に過ぎない自分が、誰かの役に立てるというのは、素晴らしいことだと思う。


 誰かを救うことは、同時にグレース自身の存在意義を与えてくれることも事実であった。


 恵まれた環境にのほほんと浸かって暮らすより、よっぽど生活に張りがある。


 必要とされることに生き甲斐ややり甲斐を感じることができる。


 だから、グレースは変わらず『聖女様』で居続ける覚悟を固めていた。


「ただいま戻りました……」


 アンナに肩を借りながら屋敷まで帰りつくと、「グレース!」と飛び出してくる影があった。


「お帰りなさい、身体は大丈夫なの?」


 そうグレースの蒼い瞳を覗き込むのは、グレースとまったく同じ顔をして、まったく同じ背丈の少女であった。


「リリスお姉様、おはようございます」


 グレースのなんとも気が抜けるような呑気な挨拶に、心配顔だった少女がほっと身体から力を抜いたのがわかる。


「おはよう、グレース。

 朝から大変だったそうね。

 朝食の準備ができているわ。

 なにか食べて、ゆっくり休むといいわ」


 グレースの双子の姉、リリスは実の両親ですらときどき間違えるほどグレースとそっくりな顔つき、身体つきをしている。


 学校の制服を身を包んでしまえば両親は自分の娘の区別がまったくつかなくなってしまう。


 もっと幼いころは、それを利用して両親を困らせる遊びをしていたことすらあった。


「ええ、ありがとう、お姉様」


 ようやく頬に赤みが戻ってきたグレースは、リリスに向かってはにかむように笑みを浮かべた。


「まったく、グレースは無茶ばかりするんだから。

 自分の許容量を超える頼みなど、断ってしまってもいいのに」


 リリスはアンナのようにグレースに呆れた眼差しを向ける。


「わたしにできることは、これくらいですから。

 勉強も運動も、お姉様に比べたら凡庸ですし……。

 なんでもそつなくこなすお姉様のようには、わたしはなれないのです」


「もう、グレースは……。

 学校へは行けそうなの?」


 リリスがグレースの頬にそっと手を添えると、心配そうな眼差しでグレースの瞳を覗き込む。


 至近距離からリリスにみつめられると、今度こそグレースは心の底からの安堵の笑みを浮かべた。


 姉の温かく優しい手のひらに、いつも安心させられる。


 グレースがリリスの手に自分の手を重ねた。


「大丈夫です。

 少し休めば、学校へは行けます。

 1日でも授業に出ないと、勉強が追いつかない可能性がありますから」


「そう……でも、無理はしないことよ。

 授業の内容なんて、わたしがいくらでもノートを取ってくるし、勉強に遅れが出ないように協力するから」


「ありがとうございます、いつもいつも、お姉様はお優しくて、わたしの自慢のお姉様です」


「『聖女様』の姉が不出来だなんて恥ずかしいことこの上ないわ。

 アッシュトンの家名に泥を塗ってしまいかねないもの」


「もう、お姉様まで『聖女様』なんて……。

 わたしがそう呼ばれることを嫌がっているのは、わかっているでしょうに……」


 グレースがぷくう、と不満げに頬を膨らませると、リリスは明るい笑い声をあげた。


「そうね、ごめんなさい、ただ、わたしにとっても、あなたは自慢の妹なのよ」


 リリスはポニーテールに結わえた銀髪をひらりと翻すと、グレースの手を引いた。


「疲れをとるためには美味しいご飯を食べることが一番よ。

 お父様もお母様も待っていらっしゃるわ」


 リリスに手を引かれ、グレースは屋敷の1階にある食堂へと向かった。


 清潔な純白のテーブルクロスが敷かれたダイニングテーブルには、すでにほかほかと湯気を立てる朝食が人数分用意されていた。


 テーブルにはひげを蓄え、スリーピースの上等なスーツをまとった父のマテオと清楚なブラウスにロングスカートという、まだまだお嬢様と言われても通じそうなほどに若々しく美しい母のローズが席についていた。


 グレースが食堂に入っていくと、ローズが立ち上がり、グレースを抱擁した。


「お帰りなさい、グレース。

 お疲れ様。

 オリビア夫人の具合はどう?」


「ええ、恐らく問題はないかと思います」


 ローズからは上品な薔薇の香りがして、ふわっとグレースの鼻腔をくすぐる。


 母の変わらない香りに包まれたまま、グレースはそう慎重に答えた。


「よくやったわね、グレース。

 あなたは我がアッシュトン家の誇りだわ」


 グレースより少し背が高いローズがグレースを見下ろし髪を優しく撫でる。


 グレースは母の柔らかな感触にしばし身体を預けた。


「あら、寝癖がついているわ。

 朝食の前に身支度を整えたほうがいいわよ」


「あ……そうですね、そうでした」


 グレースは母から身体を離すと、赤面して慌ててバスルームへと向かう。


「ははっ、抜けたところも可愛らしいな、『聖女様』」


 背後でマテオが豪快に笑った。


「もう、お父様ったら……」


 リリスの呆れたような言葉に、マテオが再び、ガハハと笑う。


 鏡の前に映ったグレースの顔には疲労が貼り付いていたが、その唇は綺麗な弧を描いていた。


──みんな、優しい。


 おおらかな父に、慈愛の塊のような母、妹思いの姉。


 グレースは自分はつくづく家族に恵まれていると、何度思ったかわからない感慨にまた心を馳せた。


 顔を洗って髪を梳かして、歯を磨いて朝食を摂って、学校へ行こう──。


 いつもの朝のように。


 変わりない日常に、『聖女様』ではなく、ひとりのクラスメイトとして自分を扱ってくれる、友達のいる学校へ。


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