第60話 花の都と肥溜めと五重塔
俺達はついに、上洛の最終目的地である京都の町へと足を踏み入れようとしていた。
「——それで、その腹に不思議な袋を持った青い狸の化け物は、未来からやってきて、冴えない少年の世話を焼くのです。どこへでも好きなところに繋がる扉とか、頭に付けると空を飛べる竹とんぼを出して」
「フハハハハ! なんじゃその阿呆らしい化け物は! 空を飛べる竹とんぼだと? 奇天烈にもほどがあるわ!」
京の入り口、粟田口を過ぎてもなお、俺のオタク語りは続いていた。
次期将軍・足利義昭の輿の真横に張り付き、俺は完全に枯れ果てた声で未来の国民的アニメのあらすじをこの時代のホラ話風に語り続けている。
連日の接待行軍により、俺の喉は限界を迎えていた。だが、義昭はすっかり俺の話の虜になり、「次はどうなる!」「その狸をもっと喋らせよ!」と無邪気に要求してくる。
周囲の幕臣たちは、もはや俺を「上様に取り憑いた謎の狂言回し」として完全に黙殺していた。
「面白き道中であったぞ、茂助」
洛中に入り、義昭一行が滞在先の清水寺方面への分岐に差し掛かると、義昭は輿の中から満足げに扇子を振った。
「あの『ぽけっともるすたあ』とやらを百五十匹集める少年の話、まだ途中であったな。……都での政務が落ち着いたら、また余の御所に呼んでやる。必ず続きを聞かせよ」
「は、ははっ! ありがたき幸せに存じます……」
俺は地面に膝をつき、作り笑いを顔面に貼り付けて一行を見送った。
将軍候補のお気に入りという、戦国時代において最も面倒くさくてリスクの高いフラグを立ててしまった。あんなワガママ男にこれ以上関わったら、いつか必ず巻き添えで面倒くさいことになるぞ。
「……終わった。俺の平穏なモブライフが……。でも、久しぶりのヲタトーク少し楽しかったな」
俺が物思いに耽っていると、後方から俺の家臣たちが血相を変えて走ってきた。
「茂助様ァァァ!! 助けてくだされェェ!」
勘兵衛が、泥だらけの顔で涙を流している。
「なんだよ。俺は今、将軍様の相手をして疲労のピークなんだ。休ませてくれ」
「それどころではありませぬ! 荷駄が……お館様の大事な荷物を積んだ荷車が、道を外れて『肥溜め』に突っ込みました!」
「はああ!?」
俺は一瞬で現実に引き戻された。
急いで現場へ戻ると、洛外の畑の脇に掘られた巨大な肥溜めに、荷車の後輪がガッツリと沈み込んでいた。
強烈なアンモニア臭と、発酵した汚物の臭いが周囲に立ち込めている。俺の部下たちは、その地獄の光景を前に、鼻をつまんで完全に遠巻きにしていた。
「おい! お前ら何突っ立ってんだ! 早く引き上げろ! 三太夫! お前が行け!」
「三太夫殿なら、別の荷車を担当して先に向かわれました! 但馬殿もです!」
「えっ」
「今ここにいるのは、某と、氏光殿と、痩せ細った足軽数名だけです!」
勘兵衛が半泣きで訴える。
嘘だろ。
頼れるゴリラも真面目な筋肉もいない。いるのは、非力な事務方と、まだまだ肉体が出来上がっていない弟だけだ。
こんな地獄の汚物プールに、彼らを入らせるわけにはいかない。特に氏光なんて、別の意味でトラウマを抱えてしまうかもしれない。
パカッ、パカッ、パカッ!
そこへ、立派な馬に跨った上司の木下藤吉郎が、猛スピードで駆けつけてきた。
「おい茂助ェ! てめえ、何モタモタしてんだ! お館様はすでに本陣の東寺に入られたぞ! 早く兵糧と武具を届けねえと、俺の首が飛ぶだろうが!」
「藤吉郎様! 荷車が肥溜めに!」
「知るか馬鹿野郎! お前が飛び込んで、一刻も早く東寺に運べ! じゃあな!」
藤吉郎はそれだけ喚き散らすと、パカパカと馬を走らせて京の町へと消えていった。上司の鑑である。完全に部下の俺に丸投げだ。
俺は絶望的な目で、ブクブクと泡立つ肥溜めと、それに沈む荷車を交互に見つめた。
誰もやりたがらない。だが、このまま放置すれば遅延で俺が処罰される。
結局、貧乏くじを引くのは、現場で一番下の責任者なのだ。
「……あああああクソッ! 文字通りクソッ!!」
俺は兜を脱ぎ捨て、天を仰いだ。
「さっきまで次期将軍の真横で天下のVIP接待してたのに、なんでその数分後にウンコの海を泳がなきゃなんねえんだよ!! 将軍の話し相手からウンコまみれって、落差が激しすぎるだろ!!」
俺の悲痛な叫びは、秋の京都の空に虚しく吸い込まれていった。
「お前らは前から綱を引け! 俺が後ろから押す! いいか、一、二の三で一気に上げるぞ!」
「茂助様! 自ら入られるので!?」
「俺が一番デカくて力が強いんだから仕方ねーだろ! 早くしろ!」
俺は意を決して、ズブッという最悪の音と共に、茶色く濁った悪臭のプールへと足を踏み入れた。
ぬるい。そして、得体の知れない固形物が足の裏に当たる。
前世でゲームの毒沼を歩くキャラクターに、早く歩けよと毒づいていた自分を殴り飛ばしたい。現実の毒沼は、精神的なダメージが致死量だ。
「行くぞ! 一、二の、三ッ!」
俺は顔を歪め、息を止めながら、肥溜めの中から荷車の木枠を力任せに押し上げた。
ミシミシと木が軋む音。部下たちが必死に綱を引く。
ズボォォォッ!!
強烈な悪臭の飛沫を上げながら、車輪が汚物の中から抜け出した。俺の顔面や鎧に、茶色いものが情け容赦なく降り注ぐ。
「上がりましたぞ! 茂助様!」
「……水だ。早く水を持ってこい……吐きそうだ……」
俺は肥溜めから這い上がり、その場に四つん這いになって胃液を吐き出した。
その後、俺たちは井戸で最低限の汚れを洗い落としたが、強烈な臭いは具足に染み付いて取れなかった。
俺は、ハエの王のようにハエを従えながら、京のメインストリートを歩く羽目になった。
「うわっ、くさい!」
「なんだあの侍……野壺にでも落ちたのか?」
都の華やかな町衆たちが、俺の姿を見て露骨に顔をしかめ、道を開けていく。
歴史的なパレード。華々しい上洛。
だが俺の現実は、将軍候補の喋り相手という雲の上の出来事から一転、全身からウンコの臭いを放ちながら重い荷車を押す、どん底のパシリ行軍だった。
やがて、京都の南の入り口に位置する巨大な寺院・東寺へと辿り着いた。
周囲には織田軍の馬印が林立し、ピリピリとした緊張感と、上洛を成し遂げた高揚感が満ち溢れている。
俺はその末端の荷物置き場に荷車を押し込み、ようやくその場にへたり込んだ。
「……終わった……」
ふと見上げると、秋の澄んだ空に向かって、途方もなく巨大な木造の塔がそびえ立っていた。東寺の象徴、五重塔だ。
見上げるほどの威容。緻密な組み物。まさに権力の象徴であり、京の都の荘厳さを見せつける圧倒的な建造物。
俺の隣で、勘兵衛たちが「おお……見事な塔ですな。これが都の雅……」と鼻をつまみながらも感嘆のため息を漏らしている。
俺も、その塔を見上げて、ふと遠い記憶を呼び起こしていた。
あれ、見たことあるな。
中学生の時だったか、修学旅行でバスに揺られて、友達とつまらなそうに見上げたあの塔だ。
あの時は「ただの古い木造建築じゃん」くらいにしか思わなかった。まさか、自分の足で泥水を啜りながら、命懸けでこの塔の足元まで歩いてくる日が来るとは、夢にも思わなかった。
「……本当に、来ちゃったんだな」
俺は、臭い匂いを吐き出しながら、ポツリと呟いた。
教科書の中でしか知らなかった歴史のど真ん中に、俺は今、悪臭を放ちながら確かに立っている。
五重塔は、修学旅行の時と全く変わらない姿で、そんな俺を静かに見下ろしていた。




