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第56話:妻の背当てと弟の初陣、そして血の匂い

 

 逃げる練習だけでヘトヘトになっていた俺の元へ、藤吉郎が血相を変えて飛び込んできた。

 その顔には、隠しきれない焦燥と、武人としての怒りが張り付いている。


「茂助! ついに動くぞ!」

「えっ、まだ逃げる練習しかしてませんけど。戦う練習は?」

「そんな暇はねえ! 事態が動いたんだ!」

 藤吉郎は、床に地図を広げた。

 指差したのは、近江の国、琵琶湖の南に位置する要衝、佐和山と言うお城らしい。


「先日、お館様がわずかな馬廻衆だけを連れて、佐和山へ向かわれたのは知っているな?」

「ええ。近江の大名に、挨拶しに行くって」

 信長様は、上洛の道中にある近江の大名・六角承禎に対し、あくまで将軍様を奉じて上洛するから道を開けろと交渉しに行ったのだ。


 いきなり攻めるのではなく、まずは仁義を切る。しかも数万の軍勢を国境に待機させつつ、自身は少人数で敵地に赴くという命知らずの胆力を見せつけた上でだ。


「決裂した」

 藤吉郎が苦々しく言った。


「六角は、お館様の要求を完全に拒絶した。織田ごとき田舎大名に従えるか。馬の骨を将軍とは認めん、とな。交渉は決裂だ」

 つまり。

 戦争だ。

 避けられない、全面戦争だ。


「お館様はお怒りだ。六角を滅ぼす、と仰せだ」

 藤吉郎が立ち上がり、拳を握りしめた。

「六角家は、近江源氏の名門。腐っても鯛だ。籠城されたら厄介だが……お館様は速攻を命じられた」

 藤吉郎が俺を見る。


「俺たち木下軍は、至急お館様の待つ佐和山へ駆けつける! そしてそのまま先鋒として六角の城を攻めるぞ! 俺は、先に行くぞ!お前も早く後を追ってこい!」

 俺は天を仰いだ。

 決まってしまった。


 俺の家臣、そして預かった足軽たち。彼らの命運と、俺の実家の家計と、なにより俺自身の命。全てを背負って、敵地へ突っ込まなければならない。逃げる練習しかしていないのに、これから最前線の激戦区に行かなきゃならないのか。


「分かりましたよ……」

 俺は、震える手で愛馬、軽トラの手綱を握った。

 軽トラは、ブルルと鼻を鳴らし、面倒くさそうに尻尾を振った。飼い主と同じ気持ちらしい。


「みんな! 聞いての通りだ!」

 俺は部下たちに向かって叫んだ。声が裏返りそうになるのを必死で堪える。

「訓練の成果を見せる時だ! ヤバくなったら、誰よりも早く退くぞ! 命あっての物種だ! いいな!」


「オオーッ!!」

 変幻自在の進退で敵を翻弄しましょう、と勘違いしたまま士気上がる堀尾隊。

 三太夫が金棒を回し、氏光が抜刀して叫び、勘兵衛が経費の計算を諦めて槍を持つ。

 俺たちの上洛戦は、こうして盛大な認識のズレを抱えたまま、出立の時を迎えた。


 ***


 岐阜を発って数時間。

 俺たちは近江国境へ続く山道を急いでいた。

 俺の隣を行く弟の氏光は、ピカピカの具足を鳴らしながら興奮で顔を真っ赤にしていた。


「兄上! 兄上の背中は、この氏光がお守りいたします! 必ずや一番首を取ってご覧に入れますぞ!」

 鼻息荒く息巻く氏光を見て、俺は胃が痛くなる。現代の感覚を持つ俺からすれば、高校生の弟がヤクザの抗争にカチコミに行くようなもので、心配でたまらない。 


「いいか氏光。一番首なんて狙わなくていい。とにかく俺のそばから離れるな。ヤバいと思ったらすぐに逃げろ」

「兄上、またそのような冗談を! 兄上の『退き戦』の策の凄まじさは、よく存じております!しかも、桶狭間では縦横無尽の大活躍だったじゃないですか!」

「ジョークじゃないんだが……」

 俺の切実な忠告は、完全に冗談として処理されてしまった。

 俺は深いため息をつきながら、自分の甲冑の背中に感じるズシリとした重みに肩を回した。


 昨夜、妻の桔梗ききょうが「敵に背を向け逃げるならば、最も刃を受ける危険が高いのは背中」と言って、俺の甲冑の背当てに鉄板を縫い付けてくれたのだ。

 ただでさえ重い甲冑がさらに重くなり、俺は完全にバテていた。 


 歩きながら意識は半分飛んでおり、「早く休憩にならないかな」「足が痛いな」という泣き言しか頭にない。

 すると、さっきまで浮かれポンチに騒いでいた氏光が、ふと口数を減らし、俺の耳元に顔を寄せた。


「……兄上。右斜め後ろを歩いている足軽……妙です」

「え?」

 俺は間の抜けた声を出し、言われた方を見ようとした。


「あからさまに見ないでくだされ」

 氏光が鋭く低く囁く。その声には、先ほどまでの子供っぽい興奮はない。

「岐阜で預かった兵の一人のようですが……皆が重装備でゼエゼエと肩で息をしているのに、奴だけは呼吸が全く乱れていません。それに、歩幅が一定すぎます。何より……さっきから、兄上を、値踏みするように見つめています」

 氏光の目は、初陣の浮かれた少年から、一瞬にして武士のそれへと変わっていた。


 浮き足立っている中でも、周囲の異変を正確に察知する。これが、戦国の世に生まれ育った者特有の、非凡な才能というやつか。

「え、マジで? ただ疲れて無口になってるだけじゃないの?」

 平和ボケした俺が、状況を呑み込めずにのんきなことを言った瞬間だった。


「……チッ、小僧が」

 不審な足軽が舌打ちをした。

 氏光に気づかれたと悟った奴は、一気に俺との距離を詰め、腰の後ろから奇妙な形の刃物を抜き放った。

 その速さは異常だった。俺は後になって知ることになるが、そいつは六角が放った甲賀忍者の暗殺者だった。


「死ね、織田の犬!」

 男の刃が、無防備な俺の喉元へ向かって一直線に突き出される。

 俺の体は全く動かなかった。何が起きているのかすら、脳が処理できていない。


「兄上ッ!!」

 絶叫と共に、閃光が走った。

 氏光だ。

 彼は男が動くよりも一瞬早く抜刀し、俺の前に割り込むと同時に、下から斬り上げるような逆袈裟ぎゃくげさの一閃を放っていた。


 ドサッ。

 俺の目の前で、男が崩れ落ちた。その首筋からは、鮮血が噴き出している。

 氏光の太刀筋は、男の腕を切り裂き、そのまま首の動脈を深々と断ち切っていた。天才的な反射神経と、恐るべき剣筋。見事なまでの、一撃必殺だった。


「えっ……? 何? なんで味方を?」

 俺は呆然と立ち尽くした。

 だが、地面に倒れた男の手から転がり落ちた奇妙な刃物を見て、ようやく事態を理解した。暗殺者だ。俺は殺されかけていたのだ。


「……氏光」

 俺の声に、弟は反応しなかった。

 氏光は、刀を構えた姿勢のまま、動かなくなった死体を見つめて、呆然と立ち尽くしていた。

 彼の顔から先ほどまでの武士の気迫が完全に消え失せ、十五歳の少年の土気色の顔に戻っている。

 刀を持つ右手が、ガチガチと音を立てて震え始めた。


「……あ。……あぁ……」

 氏光の口から、か細い、獣の唸りのような声が漏れる。

 彼は、ゆっくりと自分の刀を見た。美しい波紋が描かれていたはずの刃は、赤い脂と血でドロドロに汚れていた。

 そして、自分の手の平を見る。そこにも、返り血がべっとりと付着していた。


「俺……俺は……」

 氏光の瞳が、急速に焦点を失っていく。

 彼が斬ったのは、紛れもなく人間だった。さっきまで息をして、自分たちと同じように歩いていた人間。それを、自分の手で、この刀で、命を奪ったのだ。

 その事実が、少年の精神に、あまりにも重くのしかかった。


 斬った瞬間の、骨に刃が当たるゴリッとした感触。手首に伝わった、確かな生々しい手応え。飛び散った血の熱さ。

 それらが、氏光の脳裏に、何度も何度もフラッシュバックする。


「う……うぁぁぁぁッ!!」

 氏光は突然、刀を放り出し、その場にうずくまった。

 両手で頭を抱え、獣のように叫ぶ。

 彼は、自分が放り出した刀と、その近くにある死体から、全身全霊で逃げ出したいようだった。だが、彼の手と心には、すでに消えない血の匂いが染み付いていた。


「……氏光!」

 但馬が近寄ろうとするが、俺は手で制した。

 俺は、震える足で氏光のそばに歩み寄り、泥だらけの地面に一緒に蹲った。


「……氏光」

 俺は、弟の返り血で汚れた肩に、そっと手を置いた。

 俺には、人を斬った彼をどう慰めればいいのか、分からない。


「見事な剣筋だった」なんて、クソ食らえな言葉は吐けない。俺がボーッとしていたせいで、弟に人殺しをさせてしまった激しい後悔。そして、戦国という時代のあまりの残酷さへの怒り。

 色んな感情が混ざり合って、俺の目からも涙が溢れた。


「……怖かったな。ごめんな。俺が……俺が、隙だらけのバカだったから」

 俺は、震える氏光の体を、強く、強く抱きしめた。

 今の俺にできるのは、こうして彼の恐怖を少しでも共有することだけだ。


「……兄、上……。……熱かった。あいつの血……すごく熱かった……」

 俺の胸の中で、氏光が子供のように声を上げて泣き始めた。


「……あぁ、熱かったな。生きてたからな。……お前が俺を守ってくれたから、俺は今、生きてるんだ」

 周囲の家臣たちは、無言で俺たち兄弟を取り囲んでいた。

 三太夫は金棒を握り締め、俺たちを狙った敵への怒りに燃えている。半兵衛は、少し離れた場所から、静かに俺たちを見ていた。


 ***


 夕暮れ時。

 俺たちは、佐和山城に到着した。

 氏光は俺が肩を貸し、どうにかここまで歩かせた。彼の顔はまるで魂が抜けたように虚ろで、放り出した刀は、但馬が拾って腰に差している。


「おお茂助! よくぞ到着した!」

 出迎えた藤吉郎が、俺の泥だらけの姿と氏光の様子を見て、怪訝な顔をした。


「どうした、弟は? それに、何やら血の匂いが……」

「……途中で、味方の足軽に紛れ込んでいた暗殺者に不意打ちを食らいました。俺が油断していたところを、氏光が気づいて」

 俺が静かに言うと、藤吉郎の目の色が変わった。

 藤吉郎は、但馬が持っていた奇妙な形の得物を受け取ると、険しい顔で頷いた。


「なんと! 隊列の中に忍びが! ……この刃の形状、間違いない。六角の息がかかった甲賀こうが忍者だな。……氏光、見事な働き! 初陣にて、僅かな違和感から凶悪な手練れを見抜き討ち取るとは!」

 藤吉郎が感嘆の声を上げるが、氏光は反応しない。


「茂助殿。……貴殿は、弟君のその非凡な才能に、あらかじめ気づいていたのですね?」

 後方から、竹中半兵衛が馬を降りて近づいてきた。

 彼は、虚ろな目をした氏光を見つめ、静かに、そして恐ろしいものを見るように目を細めた。


「え……いや、俺は全然気づかなくて、本当に殺されるところで……」

「ご謙遜を」

 半兵衛の声は、確信に満ちていた。


「寄せ集めの中に甲賀の手練れが潜んでいることに気づきながらも、貴殿は一切の殺気を消し、あえて完全に無防備な隙を晒して歩き続けた。……すべては、浮き足立っていた弟君の危機察知能力を極限まで引き出し、才能を開花させるために」

 違う。俺は本当に疲れてボーッとしていただけだ。


「忍びを確実な間合いに誘い込み、自らの命を完璧なおとりとして使って、最愛の弟に初陣の武功と人斬りの業を教え込むとは。貴殿の胆力と冷徹なる教育、この半兵衛、心底恐れ入りました」

 半兵衛が、深く、深く頭を下げる。


「あ、うん。まあ、そんな感じ」

 俺は、引きつった笑みを浮かべながら、まだ震えている氏光の肩を強く抱きよせた。


 氏光の十五歳の純真な心は、もう元には戻らない。

 俺たちの上洛戦は、弟の心の傷と、才能の覚醒というところから幕を開けたのだった。

 目指すは京都。天下への道は、俺にとっては家に帰るための遠回りでしかないのだが、その道は、早くも拭い去れない血の匂いで充満していた。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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フォローを入れて来る、既に共犯者な半兵衛に思わずにっこりw
義理の弟?なんちゃって弟さん、へんな入れ墨入れそう。煩悩やら迷いやら弱さうんたらな、十年後悶える入れ墨(笑)
兄の背中を守りながら1番首を取る、と言うことは兄が誰よりも突っ込んでいくと思っているんだろうなみたいなギャグ路線から、後半シリアスに。 弟が立ち直れること祈ります
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