第55話 茂助、足軽集団を率いる
京都への上洛の気運が日増しに高まってに控きたある日。
俺は、屋敷で、ため息をつきながらいつものように荷造りをしていた。
「はぁ……。また泥と汗にまみれた野営生活か。行きたくねえなぁ」
戦場に持っていく干し飯や、着替えや草鞋を袋に詰めながら愚痴をこぼす。
そこへ、上司の木下藤吉郎がドタドタと草鞋を脱がず土足で侵入してきた。
「茂助! お前の部隊の編成が終わったぞ! 河川敷の第参陣に集めてあるから、すぐに行って顔合わせしてこい!」
「部隊? いや、俺の部下なんて身内の四人だけですよ? わざわざ顔合わせなんて……」
「いいから行け! お前の大将としての初仕事だ!」
大将? なんの冗談だ。
俺は首を傾げながら、言われるがままに指定された河川敷へと向かった。
そして、そこで呆然と立ち尽くすことになった。
「……え? 俺、こいつら全員を率いるの?」
目の前には、ズラリと整列した足軽たち。
その数、およそ二百五十名。
学校の全校集会かよ。ついこないだまで、数人の身内だけでコソコソやってたのに、いきなり桁が二つ増えた。
だが、数もだが、中身も問題だ。
俺が恐る恐る振り返ると、そこには俺の頼れる直属の家臣たちが立っていた。
戦闘狂の三太夫。
事務担当の勘兵衛。
真面目な従兄弟の但馬。
そして、元気すぎる弟の氏光。
以上、四名。
これが、俺のなけなしの給料で必死に養っている、俺の手足となって動く家臣の全てだ。
「……で、あっちの集団は?」
俺が指差した先には、顔も名前も知らない、薄汚れた足軽たちの集団がいた。
彼らはダルそうに座り込んだり、あくびをしたりして、俺の方を値踏みするように見ている。
「彼らは、藤吉郎様の本隊から、今回の上洛戦のために一時的に預けられた兵たちです」
勘兵衛が、帳簿を見ながら冷や汗を流して説明する。
「給金は藤吉郎様から出ております。いわば応援部隊ですな」
俺は頭を抱えた。
最悪だ。彼らは俺の家来じゃない。給料の出処が違うから、俺への忠誠心なんてゼロだ。
足軽たちの目は、明らかに俺を舐め腐っていた。なんだこのデカいだけの木偶の坊は。どうせコネで出世したポッと出だろう。そんなヒソヒソ声すら聞こえてきそうだ。
ここで舐められたら終わる。どうにかしないと。
俺は内心で冷や汗を滝のように流した。
戦場に出る前に、この集団が言うことを聞かずに勝手な行動をしたら、いざという時の俺の逃げ道が塞がれる。それどころか、最悪の場合は背後から寝首を掻かれかねない。
威厳を示さなければ。俺は腹に力を入れ、足軽たちの前にズンと一歩踏み出した。
百キロ近い巨体が動く。ただそれだけで、足元の砂利が嫌な音を立てた。
俺は顔の筋肉を引き攣らせながら、極度の緊張と恐怖を隠すために、低くドスを利かせた声を絞り出した。
「……おい、お前ら」
俺の顔は強張っていた。だが、下から見上げる足軽たちには、それが歴戦の修羅が放つ静かな殺気に見えたらしい。
ピタリと、鼻をほじっていた手が止まった。
さらに、俺の背後で、人斬り三太夫が金棒を肩に担ぎ、ギラギラした血走った目で足軽たちをぐるりと睨みつけた。
「……テメェら。ウチの若が口を開くんだ。耳の穴かっぽじってよく聞けよ」
ヒッ、と足軽の一人が息を呑む音が聞こえた。
よし、掴みはオッケーだ。第一印象のハッタリには成功した。これなら話を聞かせられる。
俺はそのままの勢いで、最大の鉄則を宣言することにした。
「全員、よく聞けェェェ!!」
ザッ。直臣の四人が直立不動になる。
預かり兵たちも、俺と三太夫の圧力に押され、慌てて姿勢を正した。
「いいか! 俺は難しい作戦なんて知らん! 出陣までに、俺の隊の鉄則を一つだけ叩き込む!」
俺は叫んだ。
「ヤバいと思ったら全力で逃げろ! 以上だ!」
シーン……。
河川敷に静寂が流れた。
兵士たちが顔を見合わせる。逃げろ? 突撃じゃなくて? この大将、正気か? と困惑のさざ波が広がる。
俺は構わず続けた。
「お前ら、死にたくないだろ? 俺も死にたくない! 敵に出会って勝てないと思ったら、背中を見せてもいいから、とにかく走って逃げろ! 死んだら美味いもんも食えねえぞ!」
これは俺の本心からの叫びだった。命あっての物種だ。玉砕なんてクソ食らえだ。
その言葉に、強張っていた兵士たちの目の色が変わった。死ぬなって言ってくれる大将は初めてだ。そんな安堵の空気が流れかける。
だが、俺の目的は彼らを感動させることではない。
「ただし! 逃げる時は絶対に俺の邪魔をするな! 前の奴を押すな! 武器を放り出して身軽になれ! 列を乱してモタモタしてたら、俺が逃げ遅れるだろうが!」
俺は極めて利己的な要求を突きつけた。
「だから今から、俺が安全に逃げるために、お前らがスムーズに散る練習をする! 分かったな!」
すかさず、護衛の三太夫がニヤリと凶悪な笑みを浮かべ、兵士たちに向かってドスを利かせた補足説明を始めた。
「おいコラ、てめえら! 若のお言葉を、ただビビって逃げろなんて解釈すんじゃねえぞ!」
三太夫が金棒を地面にドスンと叩きつける。
「若は本当に逃げろって言ってるんじゃねえ。……当然だが、軍律を無視して背を向けて逃げたら敵前逃亡で切腹だからな、分かってると思うが」
え? そうなの?
俺は内心で盛大に裏返った声を上げた。
ガチで逃げたら切腹。マジかよ、じゃあ逃げられないじゃん。死ぬじゃん。
「これは敵を深追いさせる誘い込みの策だ! 負け戦を装って敵を驕らせ、死地へ引きずり込むための罠だ! そのために、武器を捨ててでも本気で逃げるフリをしろって言ってんだよ!」
えっ、違うけど。ただ家に帰りたかっただけなんだけど。
「さすが若! 孫子の兵法にもある、敵を誘い出す計略ですな! 烏合の衆に複雑な陣形を組ませるより、単純に退くことを徹底させる方が統率しやすい。極めて合理的です」
勘兵衛も架空の眼鏡をクイと上げて深く頷いている。
俺の小声の、いや、違うってば、という訂正は、兵士たちの熱狂的なオオーッ! さすが茂助様! という歓声にかき消された。
こうして、俺が個人的に逃げるためだけに提案した避難訓練は、軍律違反による切腹を回避するための、世にも奇妙な退き戦の練兵へとすり替わってしまった。
***
「退けェェェッ!!」
俺の悲鳴のような号令と共に、二百五十人の男たちが一斉に反転する。
背を向け、河川敷の空き地を猛ダッシュで走り出す。蜘蛛の子を散らすように、しかし一方向の安全地帯へ向かって全力疾走。
「遅い! そんなんじゃ追いつかれて背中を斬られるぞ!」
「足元の石に気をつけろ! 転んだら踏まれるぞ! 前の奴の動きを見ろ!」
俺は必死だった。ガチで逃げたら切腹になる以上、これは作戦だぞという顔をしながら整然と引かなければならないのだ。
列を乱さず、速やかに移動することが俺の生存率を上げる。
重いものは捨てろ。
目立つ旗指物も捨てていい。
走るルートは事前に確認し、ぬかるみは避けろ。
最初は戸惑っていた兵たちも、出陣までの数日間、何度も繰り返すうちにコツを掴んできた。攻めろと言われると腰が引けるが、逃げろと言われると人間は本気を出せるものだ。
次第にその動きは洗練され、不気味なほど統率のとれた高速後退集団が出来上がりつつあった。
その異様な光景を、小高い丘の上から視察していた男たちがいた。
足利義昭の家臣である明智光秀と、藤吉郎の軍師・竹中半兵衛だ。
「見事だ」
光秀が、扇子で口元を隠しながら感嘆の声を漏らした。
「一糸乱れぬ退き口。これほど鮮やかに、かつ迅速に兵を引ける部隊は見たことがない。寄せ集めの兵を、短期間でここまで仕上げるとは」
「ええ。引くことは、攻めることより難しいのです」
半兵衛も、涼しい顔で同意する。
「恐怖に駆られて逃げれば陣形は崩れ、追撃の餌食になる。だが、茂助殿の隊は違う。個々人が生き残るという明確な意思を持ち、かつ全体が有機的に連動している」
光秀の目が鋭く光る。
「あれはただの逃走ではないな。敵との間合いを自在に操る、神速の進退だ。敵が追撃してきても、あの速度で退かれれば翻弄されるばかりだろう」
エリートたちの高尚すぎる勘違いにより、俺の利己的な避難訓練は、織田軍屈指の神速の退き口として高く評価されてしまった。
まさか、指揮官である俺が真っ先に逃げたいだけだとは、夢にも思うまい。




