第52話 極寒の製麺、うどんは踏まれて強くなる
難攻不落と言われた稲葉山城が陥落し、織田家悲願の美濃平定という大事業が完了した。
お館様はこの城を岐阜と改め、天下布武というデカい印判状を使い始めた。ただの一地方大名から、ついに天下取りに向けて新たなステージへと突入したわけだ。
美濃攻略戦で変な手柄を立ててしまった俺も、気づけば二百五十貫取りの武将に出世していた。
立派な屋敷を構え、お手伝いさんも増え、鬼よ……桔梗という妻もめとった。
戦国の世に放り込まれてから数年。数々のデスゲームを潜り抜け、俺はようやく勝ち組の安定したスローライフを手に入れたのだ。
……そう、思っていた時期が俺にもありました。
年が明け、寒さはピークに達していた。
俺は、朝餉の膳を前にして、箸を持ったまま固まっていた。
「……飽きた」
目の前にあるのは、山盛りの玄米飯と、湯気を立てる大根の味噌汁。そして、大量の漬物と塩引き鮭だ。
今の俺は自認中堅武将であり、かつて台所奉行補佐を務めていた頃のツテもあるため、食材自体は豊富に手に入るし、食事も温かい状態で運ばれてくる。
だが、問題はこの時代の食事の圧倒的な脂気のなさである。
精米されていない玄米もボソボソとしてひたすら硬く、漬物も塩分が強いばかりだ。健康にも良いのかわからないし、食べるのに百回くらい咀嚼しなければならず、顎が異常に疲れる。
毎日毎日、硬い米と塩辛いオカズばかり。現代の柔らかくて脂っこいジャンクな味を知る俺の舌と顎は、完全にストライキを起こしかけていた。
「兄上! 食べないのですか! この米は百回噛めば甘味が出ますぞ!」
向かいの席では、居候している弟の氏光が、バリバリと力強い音を立てて玄米を平らげていた。
若いって恐ろしい。味覚よりも武士としての頑丈な顎が勝っている。
「……俺の顎はもう限界なんだよ。胃も疲れた」
俺は箸を置いた。
限界だ。
俺はもっとこう、柔らかくて、ツルッと啜れて、濃厚な脂の旨味が溶け込んだ熱々の炭水化物が食いたい。天下布武だかなんだか知らないが、俺の胃袋と顎に平和をもたらす方が先決だ。
現代の記憶が蘇る。こたつに入って啜った、鍋焼きうどん。味噌煮込みうどん。
……そうだ。俺には財力とコネがある。作ればいいじゃないか。
「おい、勘兵衛!」
「はっ! 何事でございましょう!」
俺が呼ぶと、事務担当の勘兵衛が飛んできた。
「蔵に『小麦』はあるか?」
「小麦? はあ、陣中食用に買い付けたものが少々。……ですが、あんなもの、粉にして水で溶いても、焼いた団子か餅くらいにしかなりませぬぞ?」
当時はまだ、麺料理は一般的ではないようだ。小麦粉といえば練って茹でる団子か饅頭くらいだ。
だが、俺には現代のチート知識がある。
「あるなら持ってこい! あと、三太夫! 裏山で猪か鹿を狩ってこい! 脂がたっぷり乗ったやつだ!」
「へっ? 狩りですか?」
「そうだ! 肉の脂が必要なんだ! あと、大根、人参、牛蒡、里芋……とにかく根菜類を台所から山ほど集めろ! 今夜は『鍋』だ!」
俺の号令に、家臣たちは色めき立った。
ただでさえ貴重な肉を使い、当主である俺が直々に指揮するとなれば、ただ事ではないと感じているようだ。
「兄上! それはもしや、来たるべき天下布武の遠征に備えた、野営訓練と現地調達訓練でありますか!?」
氏光が目を輝かせて勝手な解釈をする。
「あ、うん。まあ、そんなもんだ」
「承知いたしました! 三太夫殿、行きましょう! 兄上のために、山一番の大物を仕留めるのです!」
「おうよ若弟! 腕が鳴るぜ!」
氏光と三太夫が、槍を持って嵐のように飛び出していった。
よし、具材は確保できるだろう。
問題は麺だ。
***
昼過ぎ。
俺は屋敷の土間で、小麦粉と格闘していた。
石臼で挽かせた粉に、水を加えて練る。ここまではいい。
だが、うどんのコシを出すには、強烈な圧力が必要だ。手で捏ねるだけじゃ足りない。
「……踏むか」
俺は、練った生地を綺麗なむしろに包み、床に置いた。
そして、その上に乗って、足踏みを始めた。
グッ、グッ。
全体重をかけて踏み、平らになったら折りたたみ、また踏む。これを繰り返すことでグルテンが形成され、強いコシが生まれるのだ。……たしか「鉄〇DASH」でそう言っていた気がする。
「旦那様? ……何をしておられるのです?」
そこへ、稽古着姿の妻・桔梗が現れた。
彼女は、土間で一心不乱に足踏みをする俺を見て、不思議そうに首を傾げた。
「ああ、桔梗。……これ、ちょっと手伝ってくれないか?」
「手伝う? その……粉の塊を踏みつけるのを、ですか?」
「そうそう。粘りが出るまで、ひたすら踏むんだ。俺、もう足が疲れてきちゃって」
俺は情けなく交代を要請した。
桔梗は「はあ」と怪訝な顔をしたが、素直に俺の代わりに乗ってくれた。
グッ、グッ。
さすが武芸者。踏み込みが鋭い。
「……む。これは」
数分踏んだところで、桔梗の目の色が変わった。
「……不安定な塊の上で、重心を保ちながら、均等に力を加える……。しかも、反発する力を足裏で感じ取り、ねじ伏せる……」
桔梗が、俺の方を向いた。その額には汗が滲んでいる。
「旦那様。……これは、ただの料理ではありませんね?」
「え?」
「これは……足腰の鍛錬ですね!?」
違います。製麺です。
だが、桔梗の脳内では、すでに鍛錬に変換されていた。
「不安定な足場での体幹維持! 足裏の感覚を研ぎ澄ます訓練! そして何より、地味な反復動作による精神統一! ……素晴らしい! まさか台所仕事の中に、これほど合理的な修行法が隠されていたとは!」
桔梗のスイッチが入ってしまった。
彼女は「ふんっ! ふんっ!」と気合を入れて、猛烈なスピードでうどん生地を踏み始めた。
ドシッ! ドシッ!
屋敷が揺れるほどの踏み込みだ。
「いいぞ! その調子だ! もっと腰を入れて!」
「はいっ! ……くっ、この塊、踏めば踏むほど強くなります!」
「それがグルテンだ!負けるな!」
俺は横で適当に応援した。
一時間後。
そこには、かつてないほど鍛え上げられ、鋼のようなコシを持った最強の生地が完成していた。
***
夕刻。
生地を麺棒で伸ばし、包丁で太めに切る。
きしめん、いや、塩を入れてないので山梨のほうとうに近い、平打ちの太麺だ。
囲炉裏には大鍋がかけられ、三太夫たちが獲ってきた脂たっぷりの猪肉と、大量の根菜が、赤味噌仕立ての汁の中でグツグツと煮えている。
「……投入!」
俺は、打ち立ての麺を鍋に放り込んだ。
小麦粉がついたまま入れることで、汁にとろみがつき、冷めにくくなる。これぞ冬の知恵だ。
濃厚な獣の脂と味噌、そして小麦の甘い香りが、屋敷中に充満した。
「完成だ。……名付けて『茂助流・味噌煮込みほうとう』!」
俺は椀に盛り付け、皆に配った。
氏光、三太夫、勘兵衛、但馬。そして妻の桔梗。
彼らは、初めて見る食べ物を、恐る恐る見つめている。
「これは、文献で読んだことがあります。これが饂飩ですか」
但馬が恐る恐る、箸で麺をすくう。
「あぁ、うどんだよ。……いいから早く食ってみろ。熱いから気をつけろよ」
一番年若い氏光が、意を決して麺を啜った。
ズルズルッ。
猪の脂が溶け込んだ濃厚な味噌味が口いっぱいに広がる。そして、桔梗が踏み鍛えた麺の、強烈な弾力が歯を心地よく押し返す。
「……ッ!!」
氏光が目を見開いた。
次の瞬間、彼は無言で二口、三口とかき込んだ。
「や、柔らかいのに……美味いッ!!」
絶叫だった。
「なんだこれは! 汁が絡みついた餅のような……いや、噛み切るたびに旨味と甘みが広がる! 柔らかくて顎も疲れない! そして、体が芯から熱くなる!」
三太夫たちも食らいついた。
「うめぇ! この猪肉の脂と味噌の相性が抜群だ!」
「野菜もトロトロで、胃の腑に染み渡りますなぁ……!」
「なんという満足感……。身体中に力が湧いてくるようです!」
全員が、涙目になって貪り食っている。
この時代、庶民や下級武士の食事は質素で脂気が少ない。こんなに具だくさんで、濃厚で、カロリーの高い炭水化物を腹いっぱい食うことなんて滅多にないのだ。
俺も啜った。
……美味い。
自画自賛だが、完璧だ。現代の味には及ばないかもしれないが、この顎に優しい柔らかさと脂の暴力は、ミシュラン三ツ星にも勝るご馳走だ。
隣で、桔梗が静かに麺を噛み締めていた。
「……私が踏んだ粉が、このような形になるとは」
「どうだ? 自分の修行の成果を食う味は」
「……最高です。コシの強さは、私の足腰の強さ。……噛みしめるたびに、自信が湧いてきます」
なんか変な方向に自信を持たせてしまったが、まあ喜んでいるならいいか。
「おかわりはあるぞ! 顎が外れる心配はないから、どんどん食え!」
「うおおおおお!!」
その夜、堀尾屋敷からは、勝利の雄叫びのような歓声と、麺をすする音が深夜まで響き渡った。
***
翌日。
事件が起きた。
城の普請場にて、木下組の作業効率が異常な数値を叩き出したのだ。
特に、俺の家臣たちの働きが尋常ではなかった。重い材木を軽々と担ぎ、極寒の中で汗を流し、休憩もそこそこに働き続けている。
「おい、どうしたんだあいつら。……何か変な薬でも飲んだのか?」
現場監督の藤吉郎が、ビビりながら俺に聞いてきた。
「いや、昨日の晩飯が効いてるだけだと思いますけど……」
「晩飯? 何を食わせたんだ?」
「うどんです。味噌と猪肉で煮込んだやつ」
俺が説明すると、藤吉郎の目が銭の形になった。
「茂助! それだ!」
藤吉郎が俺の胸倉を掴んだ。
「その『うどん』とやら、全軍に広めるぞ! 冬場の行軍や野営の切り札になる!」
「えっ、生地踏むの面倒くさいんですけど……」
「却下! 作り方を教えろ! これも軍略だ!」
後に、この料理は戦場でのスタミナ食として広まり、他国の間者たちからは「織田の陣中食恐るべし」と噂されることとなる。
だが、甲斐の国から潜入していた間者だけは、「別に普通の陣中食だろ」と呆れていたらしい。
第三部・京上洛編開始となります。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。




